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千年の冬  作者: やくも
9/34

第九幕:少し、昔話をしようか(3)

 1


 封筒の中身は二枚の便箋。

 横書きに走らされたその文字は、紛れもなく鈴奈のものだった。

 神楽は一言も発さずに、じっとその文字を目で追いかけていく。

 そこに書かれた内容が、今の状況と一体どういう連鎖を成しているのか。

 全てが一本の糸のように繋がるのか、それともほつれずにただ余計に絡み合うだけなのか。

 頭の中で形成できる推論には限界がある。

 いわばこれは、穴ぼこだらけのジグソーパズルのようなものなのかもしれない。

 一つ、また一つと形のあったピースをはめ込んでいく。

 浮かび上がる景色は、果たして希望の光か、それとも絶望の闇か。

 出来上がるまで、それは誰にも分からない。

 だがそこに書かれた内容は、すでに希望とか絶望とかいう言葉でくくれるものではなかった。

「……何よ、これ……」

 神楽は絶句する。

 一つ一つでは大きな意味を持たない文字。

 それがいくつも繋がり、重なり、意味を成す。

 それはもはた、理解不能の領域に片足を踏み込んでいる。


 ――降魔の儀。


 それは、恐らく人類の歴史を遡って見ても稀に見るであろう、禁忌だった。

 見たことも聞いたこともない言葉。

 なのにその言葉を頭の中で繰り返すたび、心臓が握りつぶされるような息苦しさを感じる。

 指先が震え、背筋が凍り、唇が揺れる。

 どれだけ懇切丁寧に説明されても、頭も体もその意味を理解できない。

 いや、これは理解してはならない。

 なのに、なぜだ?

 もう、目が離せない。

 書き連ねられたその文字の羅列が、呪文のように脳の中枢で反復される。


 これは被験者の意識を一時的に破壊し――

 ――精神の一部を別対象へと移行させ

 しかるのちに――

 いわば映し身ともいうべき――極めて霊的な――

 ゆえに術者は――負担は想像を絶するものであり――

 ――万が一失敗すれば

 それは――儀式の反作用であり――

 誰にも止めることのできない――

 ――最悪の場合――

 被験者と術者の双方が――

 ――共存の前例は――数百年の歴史の中においても――確認されず

 ほぼ確実に――

 ――死に至る


「……嘘……」

 震えた声。

 かろうじて絞り出せた一言は、静かすぎる部屋の中に溶けるように消えていった。

 その目が見た真実を、神楽は信じることができない。

 たとえこれが真実であったとしても、それは否定しなくてはならない。

 なぜなら。

「嘘だよね、お母さん……?」

 書き記された内容に偽りがなければ、恐らく、もう。


 ――鈴奈はこの世のどこにも居ない。


 枯れ果てたはずの涙がまた溢れ出そうになる。

 いっそのことその便箋をぐしゃぐしゃに引き裂いて投げ捨ててしまいたいが、震える指先ではそれすらもままならない。

「嘘でしょ? ねぇ……」

 涙で視界が歪む。

 その視界の先。

 もう一枚、便箋は残っている。

 涙を流しながら、神楽は重なった二枚の便箋の上下を入れ替えた。

 そして、そこに……。

 ヒラリ、と。

 宙を舞う紙切れ。

 左右に揺れながら、ゆらゆらと床の上に落ちる。

 カサリと音を立て、わずかに滑る。

 直後に、がくんと膝の折れる音。

 神楽は床に膝をつき、ただ、泣いていた。

 声にならない声で、泣いていた。

 涙の粒が零れ落ちる。

 床の上の便箋の上に、灰色の染みがいくつも浮かび上がる。

 そこに、書かれている。

 恐らくは、彼女からの最後のメッセージ。

 母から娘への、不本意すぎるラブレター。


 ――ごめんね、神楽。

 ――ごめんね。

 ――元気でね。


 そんな言葉は聞きたくないと。

 神楽はただ、その一言さえも叫べずに泣き続けた。

 こんなはずじゃなかった。

 一体いつから、この世界は狂い始めてしまったんだろうか。

 ほんの一日前には、その笑顔が、言葉が、優しさが。

 確かに手の届く場所にあったというのに。


 どれだけ嘆いても、時間はもう決して巻き戻らない。

 この瞬間。

 何かが終わって、何かが確実に始まった。


 2


 幼い頃から、幼いなりに思っていた。

 やっぱり自分という存在は、他のみんなと比べて少し違うような気がする。

 それはありふれた日常の中では、目の端に捉えた程度の小さな傷。

 だから、気にも留めなければ気になることなんてなかった。

 気のせいだよねと、自分自身に言い聞かせることはいくらでもできただろう。

 そして実際に、ずっとそうしてきた。

 でもそれは、ちょっとだけ彼女にとっては後ろめたさが残ることで。

 ついつい歩く足を止めて、後ろを振り返って、側に駆け寄ってしまいそうになる。

 みんなには視えない、そこにいる不思議な存在。

 彼女だけに、それは視えていた。


 一番古い記憶を辿れば……あれは確か、まだ小学生に成りたての頃。

 物心付いたとき、すでに彼女に父親と言う存在はいなかった。

 代わりにいてくれたのは母親で、親子は二人きりだった。

 だけど彼女は、自分を不幸だと思ったことなんて一度もない。

 父親がいないということを不思議に思わない、疑問として口に出さなかったのかと聞かれれば、はいとは答えられないけど。

 母親と二人だけの生活でも、彼女は十分すぎるほどに幸せだった。

 決して裕福ではないが、貧しくもない生活。

 刺激的ではないが、安息のある日々。

 それが彼女にとっての当たり前であり、日常であり、世界そのものだった。

 だが、その日。

 彼女は知ってしまうことになる。

 この世界とは違う、もう一つの世界がすぐ近くにあるということ。

 そしてその世界が、他のみんなには決して視えず、彼女だけに視えてしまうこと。

 もしもこの日、彼女が走り続けていたら。

 風に乗ったその声を、気のせいだと割り切れていたのなら。

 立ち止まり、振り返らずにいれば。

 きっと、未来は別の形を示していたのかもしれない。


 西の空に夕陽が半分ほど沈みかけた頃。

 公園の中には、まだ多くの子供達のはしゃぐ声があちこちでこだましている。

 コンクリートの地面をばたばたと走り回る姿。

 地面を転がるボール。

 追いかける足音。

 砂で作った城は、そよ風が吹くだけで壊れてしまいそうなくらいに儚い。

 キィキィと、揺れるブランコと踊る影。

 誰かが靴を飛ばすと、あとからたくさんの靴が宙を舞った。

 明日の天気は晴れ時々雨のち曇り。

 ごちゃまぜになった天気予報。

 笑い声が響く空。

 遠くの空でカラスが鳴いた。

 ベンチに腰掛ける、少年少女達の母親。

 他愛ない世間話。

 向こうで転びそうになる我が子に、声を飛ばした。

 そんな景色の中に、彼女もいた。

 彼女はゆらゆらと揺れるブランコに腰掛けていた。

 そんな彼女の背中を、彼女の母親が優しく押していた。

「お母さん、もっともっと!」

 勢いが弱いのか、彼女は笑い声でそうはやし立てる。

「えー、これ以上やったら危ないわよ」

「いいのいいの! あはは」

 夕暮れの空にこだまする彼女の声。

 彼女からは見えないが、その背中を押す彼女の母親もそっと微笑んでいた。


 ようやく満足したのか、揺れるブランコは次第にその勢いを弱め、やがて静かに止まった。

「そろそろ帰ろうか、神楽。晩御飯の支度しなくっちゃ」

「えー、まだ遊びたい!」

「じゃあ、今日の晩御飯は白いご飯だけになっちゃってもいいの?」

「うー…………やだ」

「でしょ? じゃあ、一緒に帰ろう」

 母親はそっと手を差し伸べる。

 神楽はまだ不服そうな顔をしていたが、やがてはその手をしっかりと握り返した。

 そしてそのとき、ちょうど公園のスピーカーから五時を告げるメロディーが流れ出した。

 聞き慣れた童謡の音楽が、空気を振動させて響き渡る。

「ほら、ちょうど五時だもの。行きましょう」

「はーい」

 神楽はブランコを降り、母親の手に引かれて一緒に歩き出す。

 五時のメロディーを聞いて、他の親子連れの多くも帰り支度を始めていた。

 その多くは近所の顔ぶれで、互いに去り際に挨拶を交わし、各々に公園をあとにする。

 ほんの少し前までのざわめきが嘘のように、公園の中は空っぽになっていた。

 ただ、公園の中央の噴水だけが、どこか寂しそうにみんなの後姿を見送っているように見えた。

「晩御飯、何にしようか?」

 繋いだ手を小さく揺らしながら、母親は言った。

 視線の先には、まだ小さな娘の姿がある。

「うーんと……」

 ややうなりながら、神楽は頭の中で自分の好物をピックアップしていく。

 その仕草がいつ見てもおかしくて、母親は小さな笑みを零すのだった。

「スパゲッティがいい!」

 やがて神楽は、悩んだ末にカレーとハンバーグを打ち倒してそう答えた。

「よーし。じゃあ今夜はそれにしようか?」

「ほんと? やったー!」

 神楽は繋いだ手を大きくぶんぶんと振り回す。

 その小さな手のどこにそんな力があるのだろうか。

 そう思うと、母親は再び笑い出しそうになってしまう。


「……あ……」

 と、ふいに神楽が道の途中で立ち止まった。

「どうしたの?」

 母親が視線を落とし、声をかける。

「ボール、忘れてきちゃった」

 神楽は母親の目を見てそう言った。

 確かに、家を出たときには神楽が抱えていたはずの黄色いゴムボールが今はない。

 どうやら公園に置き忘れてきてしまったらしい。

「私、とってくる!」

 言い出すと、神楽は繋いだ手を振り解いて今来た道を走り出した。

「あ、神楽! そんなに急いだら転ぶわよ!」

 すぐにあとを追いかけようとした母親だったが、それよりも一瞬早く。

「お母さんはそこで待ってて! すぐ取ってくるから!」

 そう言い放って、神楽は慌しく走り去っていってしまう。

「もう、まったく……」

 どこか呆れながらも、母親は徐々に遠ざかっていく娘の背中をゆっくりと追いかけた。

 ここから公園までの道のりはほぼ一本道。

 車の通りは全くないので、危険なことは何一つなかった。

 そう。

 何一つ、なかったはずだ。

 だからこそ、母親はこうやってのんびりゆっくりと、娘の背中を追って歩いているのだ。

 その視界の先に、もう背中が見えなくなっていても。

 不安など、微塵も感じはしなかった。

 そして、まさにその通りだった。

 その瞬間、世界はわずかにでも揺らがず、当たり前の日常が時間を流れているだけだった。

 少なくとも。


 ――こちら側の世界、では……。


 軽く息を切らしながら、神楽は公園の芝生の中を走っている。

 ボール遊びをしていたのは確かこの辺りだったと思う。

 植え込みの中をがさごそと掻き分けて、神楽はボールを探す。

 緑一色に覆われていた草の上も、今はオレンジ色の淡い日差しに照らし出されてその色を変えている。

 さわさわと優しく吹く春風は、どこか甘いようなくすぐったいような、そんな匂いを運ぶ。

「どこだろ……」

 あちこちを駆け回るが、なかなか探している黄色いボールは見つからない。

 ボールそのものは野球ボールとサッカーボールの中間くらいの大きさで、ゴムだがあまり弾まない。

 公園の中には木々も生い茂ってはいるが、ぱっと見ても入り組んだり陰になるような場所はない。

 なので、そんなところに目立つ黄色いボールなんかが転がっていたりすれば、すぐに目に止まってもいいはずなのだが……。

「ないなぁ……」

 神楽は公園をぐるりと取り囲む塀に沿って進む。

 こんな隅っこの方で遊んでいた覚えはないが、ボールだけに遠くまで転がっていても不思議ではない。

 やや湿った地面を踏みしめながら歩くと、ふいに目の前に一本の大きな木が姿を現した。

 それはちょうど公園の一番隅に当たる場所で、唯一ここだけは人目に付かない、そんな薄暗い場所だった。

「……」

 この公園にこんな場所があったことを、神楽は知らなかった。

 少し離れた場所は、地面や草むらの上がオレンジ色に染まっているというのに、ここだけがひどく真っ暗に近かった。

 この場所だけが一足早く夜になってしまったかのような、そんな錯覚を覚える。

 そしてそんな場所にぽつんと聳え立つ一本の大きな木は、それだけで強い存在感を持ち合わせていた。

 だが、神楽が見ているのはそれではない。

 その存在感が強い木よりも、圧倒的に希薄ではあるが、それゆえに目を離せないもの。

 それは、その木の下に佇んでいる少年の姿だった。

 なぜかその少年は、全身を真っ白な服に包んでいた。

 そしてとても悲しそうな目で、どこだか分からない場所を見つめているようだった。

 その少年の姿に、神楽はしばしの間意識を奪われた。

 だが、途端に糸が切れたように我に返る。

 改めてよく見てみると、少年はその両手にあるものを抱えていた。

 それは、遠くから見てもそれと分かる黄色いボール。

「あ……」

 神楽は声を上げた。

 その声に、真っ白な少年が肩を震わせるようにして振り返る。

 そして二人の視線が交差した。

 空気さえも凍りつくような一瞬が流れ、神楽は言葉を続ける。

「それ……」

 少年の手にあるボールを指差して神楽は言う。

 だが、言われた少年は何がどうなっているのかわからないといった様子で、ただ目を丸くして神楽を見つめ返していた。

「その、ボール……」

 返事のないことを、神楽はボールを返してくれないのではないかと感じ取った。

 だから二言目は、少し控えめな口調になってしまっていた。

 相変わらず少年は反応を見せないままだったが、少しの間を置いてようやく竦んだ肩から力が抜けた。

「え……ボール?」

 そう聞き返した少年の声は、見た目よりもずっと大人びて聞こえた。

 そして少年は、ようやく自分の手の中の黄色いボールに目を落とした。

「……これのこと?」

 そして差し出すようにして、ボールを持ったまま一歩前へ踏み出す。

 そのままゆっくりと少年は歩み寄り、抱えていたボールを神楽へと差し出した。

「はい」

「あ……ありがとう……」

 なんだかよく分からないけれど、神楽はとりあえずお礼を言っておいた。

 とにかく、ボールはこうして無事に戻ってきた。

 あとはこれを持って、母親の元へと帰るだけだ。

 だからそのまま、無言で走り出してしまえばいいのに。

 それよりも早く、少年の言葉が耳の奥に響いた。


 「君は、僕のことが視えるの?」


 それは意味の分からない質問だった。

 だって、見えなかったらこうして話をすることもできないのだから。

 だけど、そんな風に当たり前に答えることがどうしてもできなくて。

 神楽はただ、首を縦に振るだけだった。

「そう……君も、僕と同じなんだね……」

 そう呟いた少年の声は、ひどく悲しみを帯びているようだった。

 だが、やはり神楽には少年の言っている言葉の意味が理解できない。

 しようとも思えない。

 ただ、少しだけ怖いと感じてしまう。

 まるで、目の前の少年がここにいるはずなのに実はどこにもいないような……そんな気がして。

「……ボール、ありがとうね」

 もう一度、少年にお礼を言った。

 すると少年は、また一瞬だけ驚いたような表情を見せ、しかしすぐに小さな笑みを浮かべて。

「どういたしまして。さぁ、もう帰らないと。お母さんが待っているんでしょ?」

「え……う、うん……」

 心のどこかに不思議な感覚を覚えながらも、神楽は少年に背を向けて歩き出した。

 途中、何度も何度も後ろ髪引かれるような思いで背中を振り返った。

 そのたびに、その少年は悲しいのか嬉しいのかよく分からない曖昧な笑顔を見せていた。


 そして、噴水の音に気がついた頃。

 いつの間にか、目の前には母親が立っていた。

「どうしたの、神楽? ぼーっとしちゃって」

「……え?」

 きょろきょろと、神楽は左右を見渡してみる。

 そこは公園のちょうど真ん中で、そこに神楽はボールを抱えたまま立ち尽くしていた。

「ボール、ちゃんと見つかったのね。よしよし」

 母親は神楽の頭を優しく撫でる。

 そのくすぐったいような感覚を覚えながら、神楽は呟いた。

「あのね、ボール、拾ってくれた子がいたんだよ」

「拾ってくれた子? でも、もう公園には誰もいないわよ?」

 母親はぐるりと周囲を見回すが、やはりそこに自分達以外の人影はない。

「ほんとだよ。ほら、向こうの……」

 そう言いかけて指を指して、神楽はふいに記憶が曖昧になる。

「あれ……?」

 神楽が振り返って指を指した場所。

 そこは、何もなかった。

 木造のベンチがいくつか並んでいるだけで、その他には何もない。

「向こうって、そっちは何もないわよ?」

 何もない。

 母親の言葉が頭の芯を揺らす。

 そんなはずはない。

 だって、今真っ直ぐにこの道を歩いてきたんだから。

 薄暗いその場所に、大きな木が一本だけ立っていて、その木の下には真っ白な少年が……。

「…………」

 だが、神楽はそう言葉にすることができなかった。

 もうすぐそこまで出掛かっている言葉なのに、なぜかそれを呑み込んでしまう。

 それは。

 夢だったのかもしれないと、そう思った。

 だけどそれは夢なんかじゃないと、分かっていた。

 その手の中にあるボールが、何よりの証拠だから。

 今はもう視えない、この先のどこかに。

 あの真っ白な少年は、確かに、居た。


 恐らくはこれが、最初の出来事。

 当時は知ることのなかった、知ることができなかった。

 この世界は一つではないという、出会いの日の物語。


 3


 どうすればいいかなんて、考えることもできなかった。

 ただ泣くことしかできず、それが何の解決も示さないことを知っていながらも。

 神楽は膝を抱え、背中を丸めていた。

 ひんやりとした床から伝わってくる冷たさも、もう何も感じない。

 本当の意味で、心の中がからっぽになってしまったかのよう。

 鈴奈の残した、恐らく最後になるこのメッセージ。

 そこに託された意味がなんなのか、そもそも意味なんてものは存在するのか。

 考えれば考えるほどに意識は遠のき、想えば想うほど悲しみがこみ上げてくる。


 ――ごめんね。


 どうして謝るのだろう。


 ――ごめんね。


 どうして涙が出てくるのだろう。


 ――元気でね。


 聞きたくない。

 聞きたくないよ、そんな言葉は。

 こうして俯いている今だって、まだ信じきれないんだ。

 ガチャリと扉の開く音がして、買い物袋を両手にぶら下げて、白い息を吐きながら『ただいま』って帰ってくるんじゃないかって。

 でもそれはやっぱり、ただの幻に過ぎないと分かっていて。

 行き場を失った感情だけが空回りして、涙になって頬を伝う。

 きっと、ひどい顔をしているんだろう。

 鏡がなくても分かる。

 もう一生分の涙を出し切ってしまった自信があるくらいだ。

 なのにそれでも、今も涙腺は緩んだまま。

 泣き疲れるということは、本当にあることなのだろうか。

 涙なんて、いくらでも出てくるじゃないか。

 それが嬉し涙なら、どれだけ素敵なことだろう。

 きっと、笑いながら泣けるんだろう。

 だけどもう、笑えないよ。

 だって、だって……。

 再び涙が溢れ出しそうになる。

 だが、それは次の瞬間で凍りつく。


 「――お前がどれだけ泣いても、変わるものは何一つない」


 それは。

 紛れもなく、間違いもなく。

 確かに、目の前から聞こえた声だった。

 跳ね上がるように顔を上げる。

 涙に濡れたその視界の先に、それは確かに立っていた。

 身の丈百八十センチ近い長身の男。

 その手に、自分よりも大きな漆黒の鎌を握っている。

 いや、そんなことよりも。

 一体どうやって、この男はこうしてここに立っている?

 部屋の扉は半開きになったままだが、気付かれずに入ることはまず不可能だろう。

 それに、玄関の扉が開く音は聞いていない。

 廊下を出れば、そこはすぐ玄関だ。

 何か物音がすれば、気付かないはずがない。

 なら、どうして。

 この男は今、こうして目の前に立っているんだ?

「……あなた、誰? どうやって、ここに……」

 不思議と震えない声で、神楽は聞いた。

 そして対する男は意外にもあっさりと、その疑問に答えてくれた。

 ただし、常識の範疇を遥かに逸したものだったが。

「俺は死神だ。一応、カルマという名もある。俺がこうしてここに立つ理由は一つ。それは……」

 一瞬の沈黙。

 ガラス張りの世界が、音もなく壊れた。


 「お前が俺と契約を結ぶかどうか、それを確かめるためだ」


 死神は簡単に言い放った。

 事実、彼の言い分は極めて単純明快なものだった。

 だがそれだけに、必要以上の混乱を招いたこともまた事実。

 そしてこれが、彼女と死神の出会いだった。

 そしてそれは同時に、これからの彼女の在り方を大きく変えていくことになる。

 それが形になるのは、そう遠くない未来のことだ……。


拝読ありがとうございます。

作者のやくもです、こんにちは。

ようやく作品全体を通しての序盤部分が終わりを迎えようとしています。

改めて書いてみると、思った以上に長い展開になるかもしれません。

あまりずるずるとは引っ張らないようにしていきたいものですが、かといってあっけない終わり方というのもどうかと思います。

難しいところですが、色々と試行錯誤してやっていこうと思ってます。

できればこのくらいのペースで更新を続けられたらいいんですが、どうなることやら……。

それでは、また次の後書きで。


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