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千年の冬  作者: やくも
8/34

第八幕:少し、昔話をしようか(2)

 1


 その時点で、異変に気付くべきだったのかもしれない。

 いや、恐らくは薄々感づいてはいたのだと思う。

 ただその事実を、認めたくなかっただけで。


 十一月最後の日曜日は終わり、十二月最初の月曜日を迎えた。

 前日の日曜日、神楽は結局あのままうたた寝を繰り返しては目を覚ますのを繰り返し、それだけで時間が過ぎていった。

 今はもう朝の七時、いつもならこの時間には起き出している。

 だが、神楽はまだ布団の中から抜け出せないでいた。

 頭がガンガンと割れるような痛みを訴え、そのせいでまともに起き上がることもできない。

「……ったぁ……」

 側頭部を押さえながら、神楽はどうにか体を起こす。

 しばらくそのままの体勢でいたが、しばらくして頭痛は徐々に引いていった。

 前のめりに倒れてしまいそうな体を支えながら、ゆっくりとベッドから這い出る。

 歩く足音のたびに頭痛が甦るが、痛みはもう大したものではなかった。

 自室の扉を開け、一階のリビングに向かう。

 今日ほど階段の手すりが頼もしく思えた日は、恐らく他にないだろう。

「……あれ?」

 と、階段を下り終えたところで神楽は気がつく。

 いつもならこの時間、鈴奈はとっくに起きて朝食の準備に追われているはずだ。

 同様に、リビングからは朝のニュースが流れているはずである。

 しかし、今日に限ってそのどちらも耳に入らない。

 台所で包丁がまな板を叩く音も、テレビの向こうから聞こえるアナウンサーの声も。

 何一つ、聞こえてくる音はなかった。

「お母さん……?」

 廊下を歩きながら、神楽はそっと小声で呟いた。

 しかし、返事はない。

 廊下からリビングへと続く扉を開けるが、そこは明かり一つつけられていないままの灰色の世界だった。

 シンという静けさがひしめき合い、ひどく息苦しく感じる空気が充満しているかのようだった。

 テーブルの上には、昨日の朝に神楽が飲んだであろうコーヒーのカップが、洗われないままで残されていた。

 その他に、いつもあるはずのものはどこにもない。

 こんがりと焼けたトーストも、彩られた野菜サラダも、器の上で転がるゆで卵も。

 何一つ、存在していなかった。

「なん、で……あれ? お母さん?」

 頭の中が混乱して、何がなんだかわからなくなる。

 落ち着け。

 しっかりと頭の中を整理しろ。

 ここは間違いなく、いつもと変わらない日常だ。

 ではなぜ、そのいつもの景色の中にあるはずのものがない?

 ないはずのものがある?

 説明しろ。

 誰が。

 誰に。

 誰でもいい。

 教えてほしい。


 ――此処は、何処だ?


 いつもと変わらないはずの景色の中。

 神楽は確かに、その異変を感じていた。

 そのときはまだ、信じたくなかっただけ。

 いるはずの人がいない。

 ないはずのものがある。

 それは、目の端で捉えておきながら一瞥できるものか?

 それは、たまたまや偶然と言う言葉で言いくるめることができるものか?

 そう思っていた。

 そう信じていた。

 自分はなんてバカな想像を膨らませているんだろうと、笑い飛ばしてしまいたいくらいだった。

 ……そう。

 そう、だった。

 少なくとも、このときは、まだ……。


 自身の胸のうちに抱えた不安は杞憂であると言わんばかりに、日常は当たり前の流れを往く。

 学校、クラスメート、笑い声、授業、休み時間。

 それはどう見ても、今までと変わらないいつもの風景。

 いつもと同じ道を歩き。

 いつもと同じ学校へ通い。

 いつもと同じ顔ぶれのクラスメートと共に笑い。

 いつもと少しだけ違う自分を笑い飛ばした。

 ほら、やっぱり不安がることなんて何一つなかったじゃないか。

 内心で何度も呟く。

 何度も、何度も。

 笑顔を振りまきながら。

 ……何度も?

 どうして一度で、笑い飛ばせないんだろう?


 昨日とは打って変わって、今日という一日は光速を思わせるような速さで過ぎ去っていった。

 バイバイという友達の声に、振り返りながら手を振った。

 すっかり夕焼け色に変わった冬の空。

 歩く道の上、背中には長く伸びた影がついてくる。

 ふと、背中を振り返る。

 遠くに友達の背中が見えた。

 ひどく小さく、ひどく儚く、そしてひどく脆そうに見えた。

 その場で立ち止まって、神楽はその背中が見えなくなるまでその方向を見続けていた。

 少しずつ、少しずつ遠ざかる背中。


 ――それじゃあ、行ってくるわね。


 もう、振り向いてはくれないのだろうか?

 もう、戻ってきてはくれないのだろうか?

 そんな、絶望にも似た感情。

 手の中にあったはずの大事な宝物が、坂道を転がっていくかのよう。

 ころころ、ころころ。

 きっと、手は伸ばすのだろう。

 届かないと分かっていても、無くすわけにはいかないから。

 だけど、宝物はどんどん転がる勢いを増していってしまう。

 下りの坂道を全力で駆け抜けても、きっとこの手ではそれを掴み取ることはできない。

 その手は。

 何かを掴むためには、小さすぎて。

 何かを失うには、大きすぎた。

 だから今も、ただ願ってる。

 それは、願いというにはあまりにも小さすぎる日常を描いたもので。

 口に出すのも恥ずかしいほどに、ためらいを思わせることだった。

「……大丈夫、だよね」

 溜め息一つ、吐き捨てて自分に言い聞かせる。

 うん、きっと大丈夫。

 自分は確かに、何も変わらない日常の中にいる。

 今も、今までも、そしてころからも。

 まだ、何一つ無くしてないじゃないか。

 帰ろう。

 きっと、答えはそこにある。

 たった一つの、単純明快な答え。

 『ただいま』と、『おかえり』。

 ただ、それだけ。


 ――だけど。


 神楽は気付かない。

 気付かないフリをしている。

 大丈夫と、そう何度も自分に言い聞かせることが、徐々に自分を追い詰めていくということに。

 消せない、拭いきれない不安。

 もしかしたらという、予感。

 そういうマイナスのイメージに限って、どうしてこんなにリアルに近づいて想像できるのだろう。

 本当はどうしようもなく怖くて、仕方がないというのに。

 だから、なのだろう。

 神楽は精一杯、目の端にたまりそうなほどの涙を必死で堪えて。

 奇跡を信じて、今を笑い飛ばすのだろう。


 2


 ドアノブを握ったその瞬間、分かっていたのかもしれない。

 ガチャリ。

 ノブを回し、扉を引く。

「ただいまー」

 何気ない一言。

 今日と言う日を迎えるまでに、幾度となく繰り返し重ねた言葉。

 だけど今日は、どうしてか微かに声が震えているようだった。

 無理して作った痛々しい笑顔は、鏡を覗けば叩き割ってしまいたくなるほど。

 耳の奥に自分の声が永遠のエコーのように響き続ける。

 聞けば聞くほど、その声が震えているのがよく分かった。

 しかし、家の中から帰ってくる言葉はない。

 朝起きたときと同じで、玄関から見えるリビングや台所、廊下には一切の照明がついていなかった。

 それは、家に入ったその瞬間にすぐに気付くことができた事実。

 今も、鈴奈は帰ってきていない。

「……」

 分かりきっていたとはいえ、できるならこんな結果は実感したくなかった。

 もうあと五分後、いや、十分後でもいい。

 あくびをしながら、奥の部屋から出てきて廊下を歩いてくるんじゃないだろうか。

 などと、ありもしない幻想を胸のうちに抱いてしまう。

 靴も脱がずに玄関に棒立ち。

 もう五分なんて五分前に過ぎ去ってしまっている。

 その間、沸き上がる感情はマイナス。

 不安、焦り、混乱、恐怖。

 そのどれもが正しいようで、同時に間違っているように思える。

 この感情は、過去に経験したことがない……経験してはいけないものだ。

 当たり前のことがそうではなくなる瞬間。

 日常から、非日常へ。

 時間がずれる。

 世界が揺れる。

 この感覚は、もしも言葉に表すのならば……。


 ――喪失感、だろうか。


 もともと空いていたその穴に、今ようやく気付いたような。

 それは、落し物をいつ落としたのかを覚えていないのと同じで。

 水がいっぱいに入ったコップを逆さまにすれば、中の水は万有引力の法則に基づいて零れ落ちる。

 それでも水が零れないのだとしたら、それはきっとその世界のどこかが根本的に狂っているからなのだろう。

 今、ちょうどそんな感じなのだ。

 神楽の心の中には、空白という名の穴がポッカリと顔を覗かせ始めた。

 内に秘めていた不安が、徐々にその色を濃く深くしていく。

 途端に、目の端から透明な雫が頬を伝った。

 留まることを知らない無色の液体は、今までどこに隠していたんだろうというくらいに湧き出てくる。

 それはきっと、昨日の朝にはもう根付いていたものだ。

 あのとき、短い廊下の奥へと消えていく母親の背中を見届けたそのときから。

 ずっとずっと、そこに溜まっていたのだろう。

 今の今までそれを堪えていられたのが不思議なくらいだった。

 零れなかった理由は、ただ帰ってくると信じていたから。

 おかえりの一言を、聞きたかったから。

 たまには苦いコーヒーを、一緒に飲みたかったから。

 それだけだった。

 なのに、どうして……。

「……っ、うう、うっ……」


 ――どうして、涙は止まらないんだろう……。


 四角い部屋。

 少し、埃の匂いがする。

 そういえば、少しの間部屋の掃除をしていなかったかもしれない。

 どうしてこの部屋は、こんなに暗いんだろう?

 ああ、そうか。

 明かりもつけていないんじゃ、それも当たり前か。

 それにしたって、少し暗すぎるよ。

 まだ夕方で、夜には早いはず……。


 神楽は膝の上に埋めた顔をゆっくりと上げた。

 ぼやけた視界の先、白いはずの部屋の壁は今は灰色に映る。

 見れば、部屋のカーテンが締め切られたままだった。

 毎朝起きたとき、必ず開けるようにしておいたのに。

 でも今となっては、これからの時間は夜を待つばかり。

 今更カーテンを開けたところで、何一つ変わるものなどありはしない。

 変わったといえば、溢れていた涙が乾ききってしまったことくらいだった。

 泣き疲れてしまったのだろうか、いいようのない疲労感が全身を血液の流れのように巡っている。

 いっそこのまま寝入ってしまえば、少しは楽になれるのかもしれない。

 眠ってしまうことで何もかもを忘れることができるのなら、それはどんなに幸せなことだろうか。

 そうだ、全てなかったことになってしまえばいい。

 この恐怖も、不安も、涙も、何もかも。

 ゲームのスイッチを指一本で切り替えられるように。

 ボタン一つでやり直しのきく世界だったら、どんなにいいことだろうか。

 それはきっと、理想の世界。

 どこかで誰かが描いたユートピア。

 その世界には、どんな色の空が広がっているのだろうか?

 その世界には、どんな色の花が咲くのだろうか?

 その世界には、どんな色の明日が待っているのだろうか?


 ――そんな世界が、本当に存在するとでも思っているのだろうか?


 もう一度顔を上げる。

 息を吸い、吐き出す。

 冷たい空気の塊。

 呑み込むと、胃の中でゴロリと音を立てる。

「何やってんだろ、私……」

 呟く。

 いや、それは問いかけだった。

 他ならぬ、自分自身に向けた。

 ようやく少し目が覚めてきた。

 いつまでもマイナスのオーラに沈んでいる場合ではないはずだ。

 考える要素はいくらでもある。

 なくなったらまた探し出せばいいだけの話だ。

 全てを絶望に帰るな。

 絶望があったとしても、それは希望があることも同時に意味するのだから。

 ならば、探すしかない。

 その希望とやらを。


 今までの経験から考えて、鈴奈が何も告げずに行方をくらませるということはまずありえないことだった。

 ただ、いつだったか鈴奈は言っていた。


 『お母さんの力は、場合によっては自分の身に不幸を招くことにもなるかもしれないわ』


 鈴奈の持つ力というのは、世間一般にも分かるように説明するならば、俗に言う霊能力だ。

 実際その力の規模がどの程度のものかは神楽にはわからないが、鈴奈の言葉をそのまま借りるならば、彼女は自分のことを霊能者として思っているのではなく、単純に霊感が強いという範囲のものだと考えている。

 だが事実としてその力は本物であり、過去に何度かテレビ局の取材や番組の要請がきたくらいだ。

 そのつど鈴奈は話を蹴ってはいるが、仮に番組として製作しても何ら支障はなかっただろう。

 だが、鈴奈はそういうのは好めなかった。

 どういう偶然で授かったかは分からないが、この力というものはとても神聖なものだと鈴奈は思っている。

 ゆえに、そういった取材や番組などで公の場に自分の力が霊能力として露出されることを、一種の愚行とも考えていた。

 その力が備わっているせいで、周囲はそれをどう見て取るのか。

 すごい、未知の力だ、信じられない。

 驚愕の言葉もあるだろう。

 しかしその反面。

 気持ち悪い、おかしい、狂っている。

 などという除外の言葉も浴びせられることになるだろう。

 それが鈴奈自身のことだけなら、鈴奈は何も構わない。

 だが、自分には子供が、娘がいる。

 だからきっとその賛否は、少なからず娘の将来にも善悪にかかわらず影響を及ぼしかねない。

 それはたとえどっちの方向に転んでも、鈴奈の望むものではなかった。

 そしてこれもまた、運命のいたずらというものなのだろうか。

 そうだとしたら、神様もなかなか手の込んだことをしてくれるものだと鈴奈は思った。


 ――娘の神楽にも、鈴奈と同じ力は宿っていた。


 もちろん、これに気付いたのは同じ力を持つ母親である鈴奈だけだった。

 自分だけならまだしも、親子二代で続けばこれはもう偶然と言う言葉一つではくくることはできないだろう。

 この結果が後の人生にどういった影響を及ぼすものなのか。

 光か、それとも闇か。

 そのときの鈴奈には、分かるはずもなかった。


 神楽は鈴奈の寝室の扉を開けた。

 当たり前だが、部屋の中は真っ暗だった。

 ただどこか、優しく懐かしい匂いがした。

 たった一日しか経っていないのに懐かしいなんて、自分でもおかしいなと苦笑いしてしまう。

 奇麗に整頓された和室。

 ぱっと見てもゴミ一つ落ちていない。

 あるのは畳まれた布団と、作業机が一つと本棚だけ。

 洋服ダンスは押入れの中にあるはずだ。

 神楽は畳の上を一歩踏み出す。

 わずかに鼓動が高鳴る。

 それもそのはずだ。

 かなり荒っぽい仮説ではあったが、それは荒っぽいなりに的を射ている可能性も十分にあったからだ。

 その仮説と言うのは、ずばり鈴奈の行方についてである。

 もし、もしもの話だ。

 仮に今置かれているこの状況が、鈴奈にとっても不測の事態であるとしたら?

 もしそうだとしたら、鈴奈は家に帰ってこないのではなく、帰れない状況にあるのだとしたら?

 そうだとしたら、それは恐らくたった一つの推測に繋がる。

 何らかの理由で、事件性のあるものに巻き込まれたということだ。

 それも一般の事件ではなく、鈴奈の持つ力絡みの事件に。

 そうでなければ、鈴奈は絶対に電話の一本でも何でも連絡を入れてくるはずだ。

 それがないということは、早い話が相当悪い展開に向かっていると思っても間違いではないだろう。


 『うーん……仕事と言えばそうとも言えるけど、違うと言えば違うのかなぁ……』


 ここで言う鈴奈の仕事と言うのは、主に除霊やカウンセリングのことだ。

 後者であればなんでもないだろうが、前者であれば話は別だ。

 除霊というものは、実は相当な危険を伴うものだと聞いている。

 極端な悪い例を挙げると、最悪の場合払おうとした霊が逆に術者の体内に入り込み、自我の崩壊を起こしてしまう。

 そしてその場合の大半が、奇怪な死を遂げることで終結するという。

 ゾクリと、神楽の背筋を舐め回すような寒気が走った。

 くだらないことを考えるな。

 最悪のことなんて考えなくていい、最善の策を考えればいいんだ。

 そう自分に言い聞かせながら、足は一歩ずつ、その場所に向かっていく。

 もしもこの状況が、どれだけ予定外の出来事だとしても。

 鈴奈は必ずそういったときのために、何かを残すはずだ。

 今までがずっとそうだった。

 鈴奈は何かあることを予測して、必ず自分の机の中に手紙を書置きしていった。

 それは日常の些細なこと……例えば買い物を頼むときなどもそうだ。

 その机の引き出しは、鈴奈と神楽のメッセージの置き場でもあった。


 息を呑む。

 なぜだか震える指先で、引き出しを掴む。

 その冷たさに、背筋が凍る。

 そして、引く。

 すーっと音を立て、木造の引き出しが覗く。

 そこに。

「あった……」

 まだ封を切られていない、真新しい茶色の封筒。

 中央に縦書きで宛名が書かれている。

 神楽へ、と。

 たった一言、それだけ。

 そして神楽は、高鳴り始めた心臓の鼓動をどうにか押さえつけて。

 その、封筒の封を破った。


 3


 遥か昔。

 それこそ、数百年という時の流れに逆らった頃の大昔のことだ。

 今現在、こうして境の市が繁栄を築くよりも以前に、この地は呪われた地として、人々から恐れられ、同時に祀られてきた場所だった。

 周囲を広大な山脈地帯に囲まれ、およそ日の光すらまともに受けることができない暗黒の土地。

 当時の人々の記録によれば、この場所は禁忌の場所だった。

 ゆえに、噂話だけが遠巻きに一人歩きをし、いつしかそう囁かれるようになった。

 だが、実際の真偽を確かめた人物は一人もいなかった。

 誰もが心の中でくだらない噂話だと笑い飛ばす中で、誰もが万が一の真実を恐れていた。

 ある一説では、その場所は死体の山で埋もれかえっているなど。

 ある一説では、そこは黄泉の世界へと通じる場所であると。

 誰一人として真実を知る者はいないのに、人々の記憶の根底にはしっかりと恐怖の意識が根付いていた。

 当時の人々は、死や病や恐慌、不作などを全て神々の怒りを買ったことだと信じていた。

 それは一種の宗教や信仰に近いものがあり、悪いことが続くとそれは神が怒りを覚えているということになり、その土地の神に祈りを捧げたり、供え物を与えたりして怒りを鎮めたのだという。

 だが、その場所だけは例外だった。

 もとよりその土地は、とても人が住めるような場所ではなかった。

 前述の通り、周囲は広大な山々に囲まれ、足を踏み入れることさえも困難を極める。

 その山々にしても、まるで天然の迷路のような構造になっており、一度迷えば二度とは出て来れない。

 仮に運良く抜けることができたとしても、その先に待ち受けるものは全てが闇に包まれた暗黒の土地だ。

 そこは魔界であり、冥界であり、死後の世界でもあった。


 ある夏の日、そんな噂話に好奇心を突付かれた若者が無謀にも山の中に足を踏み入れた。

 三日三晩が経ったが、若者は帰ってこない。

 誰もがその若者の死を確信し、神の怒りに触れてしまった愚か者だとののしった。

 だが。

 数年後の別の夏の日。

 畑仕事を終えた男が家路へと歩いていると、脇にある山の茂みの中からがさがさと音がした。

 何かと思って振り返ると、そこには衣服がぼろぼろになり、体中に擦り傷を携えた若い男が立っていた。

 男は若者に声をかけた。

 そんなところで何をしているんだ、と。

 その山は神様の山だ、迂闊に入ったら祟りにあうぞ、と。

 しかし、若者は何一つ答えない。

 周囲に生い茂る大木の一本にでもなってしまったのか、まさしく棒立ちそのものの姿勢で男を見返していた。

 呆れ返った男がそのまま歩き出そうとしたところで、その変化は起こった。

 ぐにゃり、と。

 若者が壊れた。

 奇怪に曲がりくねり、人の体である骨格や筋肉の構造上ありえないねじれ方を繰り返す。

 ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。

 とてもこの世のものとは思えない不快な音が響き渡る。

 そしてすでに人の原型などをとどめていない、若者だったそれは。

 次の瞬間には、ただの闇の塊へと変貌を遂げていた。

 かろうじて理解できるのは、手足のように見える四肢が力なくだらりと垂れ下がっていること。

 そして、あれは頭部なのだろうか。

 出来損ないの人形を足で何度も何度も踏み潰したようなひしゃげた円形が、瞳もないのに男をじっと見つめている。

 男は悲鳴も出ない。

 目の前で起こった現実が、彼らの言うところの祟りに他ならなかったからだ。

 手に持った畑道具の鍬を投げ捨て、一目散に走り出そうとした。

 その、瞬間。


 ――ひしゃげた闇の中に、とても愉快そうに歪められた三日月形の口元が浮かび上がった。


 その日。

 ある村で男が一人行方不明になった。

 男は昼間、畑仕事のために家を留守にしていた。

 もう間もなく昼になると言う頃に、昼食のために一度いえに戻る姿を他の村人が目撃している。

 しかし、男は家に帰らなかった。

 仕事場の畑と、男の家との間にある道端で、男の使っていた鍬が落ちているのが見つけられた。

 その近くに、まるで何かにずるずると引きずられたような後が残っていた。

 その跡は、山の中へとどこまでもどこまでも続いているようだったという。

 その後、村人達は囁きあった。

 彼はきっと、神の山に連れ去られてしまったのだ、と。

 馬鹿なやつだ。

 どうしてそんなことを。

 まさか知らなかったなんてことはあるまい。

 口々にそう噂された。

 それは、村の掟だ。

 何があっても、その山に踏み入ってはならない。

 踏み入れば、その者は黄泉の世界へと攫われるであろう。

 人は、その山をこう呼ぶ。

 現と幻の境の山。


 ――境界山、と。


拝読いただきありがとうございます。

作者のやくもです、こんにちは。

ようやく年末年始にかけての立て込んでた状況が片付きました。

なので、これからはもう少しくらい早いペースで更新を継続できるかもしれません。

もしかしたらいるかもしれない、続きを期待してくれている皆様にはご迷惑をおかけします。

それでも読んでくれてる人がいるというのは、私としてもとても励みになります。

期待にこたえることは難しいかもしれませんが、裏切ることのないようにしっかりと書き続けて生きたいと思っています。

それでは、また次回でお会いしましょう。


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