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千年の冬  作者: やくも
5/34

第五幕:一つの夜の中の交差

 1


 嫌だ、死にたくない。

 今の彼女を突き動かす感情はただそれだけだった。

 

 夜はとうに深まっていた。

 草木も眠る丑三つ時とは今頃を指して言うのだろうか、とりあえず人の気配は他にはない。

 そこは彼女の通う高校の校舎の中だった。

 警備員の見回りもとっくに終わり、今校舎の中に残っている人間はどう考えても彼女だけだろう。

 そう。

 あくまで、人間は。


「……ッ、ハァ、ゲホッ……!」

 走りながら彼女は何度も背後を振り返る。

 その間隔はすでに常軌を逸したと言っても過言ではなく、一秒ごとに前後を見返している。

 あまりの速さで首が百八十度回転するので、その勢いで首の骨が折れてしまうのかと思うくらいだ。

 彼女の耳の届く音はわずかに三つ。

 一つは荒すぎる自身の呼吸、もう一つは靴が廊下を叩く足音。

 そしてもう一つは、少なくともこの世のものではない低く小さな哂い声。

 どれだけの距離を走り続けても、その声は耳の奥を貫いて脳の中の直接語りかけてきた。

 振り返る背後に、その姿は何一つ見えないままだというのに。

 その声は、こう囁くのだ。


 『ようこそ、こちら側へ』


「…………ッ!!」

 嫌だ、聞きたくない聞きたくない聞きたくない……!

 彼女は胸の中で何度も叫び返す。

 こんな、こんなはずじゃなかった。

 最初はただの好奇心だった。

 ただそれだけのことなのに、どうしてこんなことに……。

 心中で後悔を繰り返す。

 謝って済むなら、何度でも謝る。

 忘れろといわれればすぐにでも忘れる。

 だから……お願いだから……。

「助け……誰か、助けて……」

 涙混じりの声で叫んだ。

 しかし、真夜中の無人の校舎の中に応える者はいない。

 いるとすればそれはただ一人……いや、一つと言うべきだろうか。

 今もどこかで小さく哂っている、追う者の存在だけだろう。


 廊下を駆け抜け、階段を上り、そして下り、彼女は中庭を通じて体育館へと逃げ込んだ。

 震える両手で扉を押し開け、暗闇の中をひたすらステージに向かって走る。

 だから彼女は、全く気付くことができなかった。

 気付く余裕がなかった、と言い換えるべきだろうか。

 こんな時間に、体育館の扉なんかが開いているわけがないということに。

「ハッ、ハァ……」

 ステージの上まで駆け上がった彼女は、脇にある暗幕で自らの体を覆うようにして身を屈めた。

 がちがちと、恐怖と夜の寒さで歯の根が合わない。

 それでも声だけは出さないようにと必死で呼吸と悲鳴を呑み込むが、そのたびに全身が痙攣しているかのように震え出す。

 その目の端から零れ落ちているのは、汗なのか涙なのかすでに分からなくなっているほどだ。

 常識から考えて、彼女の怯え方は尋常ではなかった。

 その姿を見れば、誰もが彼女に対して精神的に何らかの異常があるのではないかと思いそうになるだろう。

 それほどまでに、今の彼女の精神状態は追い詰められていた。

 行き過ぎた表現をしてしまうなら、もう一歩で確実に廃人の領域に辿り着いてしまうほどのものだ。

「死にたくない……死にたく、ないッ……!」

 どれだけ言葉を呑み込もうとしても、のどの奥から溢れ出てくる。

 もはやこれは正気の沙汰ではない。

 そして事実、現在の彼女の身の回りに起こっている出来事は明らかにおかしかった。


 ここはすでに、常識ではない。

 ここは日常から乖離された、非日常だ。

 そしてその非日常の世界の住人は、刻一刻と近づいてくる。

 しかしそれは、住人であるその存在から言わせればなんでもないことなのだ。

 これは、予め定められた予定調和。

 決められた未来の結末に向かって、時間軸が流れているに過ぎない。

 そして、その予定調和はこう語る。

 彼女の未来は崩壊と侵食。

 その後に現れる結末は――伝承の一部としての異端化のみ。


 思い返せば、全てはあの日から始まっていたのだろう。

 あれは確か、二週間ほど前。

 ちょうど、今年最初の雪が降った日のことだ。

「あのとき、あんな本に興味を惹かれなければ……」

 急激に渇きを訴えるのどの奥から、掠れた彼女の声が響く。

 体の震えは一向に止まることを知らない。

 この震えが止まるとすれば、それはたった一つの瞬間だろう。


 ――カツン。

「!!」

 彼女の神経はその音を聞き逃さなかった。

 恐ろしいほどに低く、しかし大きな音。

 空気に溶けて伝わるその大きさが、どこまで逃げても追ってくるように聞こえる。

 水面に雫を垂らせば、波紋が広がる。

 波紋はどこまでも広がるが、いつかは消えてなくなるだろう。

 だが、この音には同じ理屈は通じない。

 音が聞こえてから数秒経っても、その音は残響にすらなることを知らずに彼女の耳の奥底で響き渡る。

 カツン。

 足音がわずかに近づく。

 彼女の肩が、抱えた膝が、指先が、髪の毛が、唇が。

 永遠に鳴り止まぬ鐘の音のように震える。

 クルナ、クルナ、クルナ……。

 祈りにも似たそれは、すでに人の言葉の領域を超えている。

 カツン。

 しかし、足音は確実に彼女へと近づく。

 コッチヘ、クルナ……。

 呪詛か、言霊か、はたまた神託か。

 カツン。

 恐怖以外の感覚は消え失せる。

 クルナクルナクルナクルナクルナ…………クルナッッッ!!!

 崩壊の序曲。

 カツン――。


 ゆらりと、闇が揺れた。

 それは音もなく暗幕をわずかに揺らす。

 だが、その中に。

 彼女の姿は、ない。

「予定調和は狂わない。いずれ、伝承が全てを取り込むだろう。そのときこそ、門は開かれる……」

 闇が囁いた。

 それはまるで、視線の先に見えるはずのない月を見据えているように上を向いていた。

 全身を真っ黒なコートに包み、黒いフードが頭全体を覆っている。

 そのフードの下の素顔も、鼻先から上は前髪によって隠されていた。

 唯一覗けるのは、とても愉しそうに歪んだ三日月形の口元のみ。

 やがてその闇は影となり、なんの余韻すら残さずに煙のようにその姿を消した。

 足音と哂い声だけを、一つずつ残して。


 2


 その日巽が帰宅したのは、間もなく日付が変わろうかという深夜の時間帯だった。

 朝まで降り続くのではないかと思っていた雪はようやく降る勢いをまばらにし、どこか巽の心に安心感を与える。

 さすがにこの時刻にもなれば、近隣には他の家屋などないにしても大きな物音は避けねばならない。

 それに、冬夜はまだ寝てはいないかもしれないが、布団を被っている頃かもしれない。

 からからと静かに引き戸を開け、巽は玄関に施錠をする。

 玄関には冬夜の靴が揃えて置かれていた。

 が、家の中の電気は玄関前のそこにしか明かりを点しておらず、シンと静まり返っていた。

 どうやら冬夜はすでに眠ってしまったようだ。

 それを確信すると、巽はその歳に見合った深く小さな溜め息をついた。

 なぜかはよく分からないが、胸の奥でくすぶっていた小さな不安の欠片がようやく消えていくような思いだった。

「……私の杞憂だったか」

 独り言は安堵の息と共に、静まり返った家の中に消えていく。


 巽は家の中に上がる。

 外の外気も相当冷え込んでいたが、家の廊下の上も負けず劣らずに冷たさを感じさせた。

 廊下を抜け、真っ直ぐに居間へ。

 電気とこたつのスイッチを入れ、上着を座椅子の背にかけて台所へと向かう。

 やかんの中にまだ水が入っていることを確認すると、そのままガスにかけて温める。

 毎日寝る前に、必ず熱いお茶を一杯飲む。

 それは巽にとって、もはや習慣のようになっていることだった。

 思い返せば、いつの頃からこんな風になったのかをよくは覚えていない。

 もともとお茶は好んで飲んでいたであろうが、こんな風に習慣になってしまうとは。

 これも歳のなせることなのだろうか。

 だとしたら、歳は取りたくないものだなと、巽は小さく苦笑いを浮かべた。

 しばらくしてやかんのお湯が沸騰したことを知らせ、蓋がかたかたと揺れ出した。

 ガスを止め、巽は熱いお湯を茶漉しに通す。

 明るい緑色の緑茶のほんのりとした甘い香りが沸き立つ。

 巽はこの独特の香りが好きだった。

 

 湯呑みを片手に、巽は体をこたつの中へと入れる。

 すでにじんわりと暖かさを広げているこたつは、巽の両足に微熱のような温みを与える。

 座椅子に背中を預け、温かいお茶を一口含む。

 舌は一瞬だけ火傷のような麻痺感覚に襲われるが、のど元過ぎればなんとやらだ。

「ふぅ……」

 心地よさと疲労が混ざり合い、溜め息となって口から出る。

 胃の中に流し込んだお茶が体を芯から暖めてくれているようで、ほどなくして眠気もやってくる。

 いつもならとうに浅い眠りの中をうろうろとしている時間だ。

 巽もまさか、ここまで話が込み入ったもののなるとは予想もできなかった。

 今日巽が昼間から家を留守にしていたのは、それが理由だった。

 とはいっても、同じ町内の会合や集会といったような定例のものなどではなく。

 どちらかというと、内緒話と説明した方が納得のいくものだった。

 そして事実、その話の内容はとてもじゃないが公の場、陽の当たる場所で交わされるようなものではなかった。

 しかしそれゆえに、関心を持たない人間から見ればそれこそ何を話しているのかなどと言うことは分からないだろう。

 巽の会った人物が、待ち合わせの場所に駅前から程遠くない人もそこそこ賑わう茶店を選んだのはそのせいなのだろう。


 よく、こんな話を耳にする。

 マジシャンはそのマジックのトリックが困難あればあるほど、それを観客の目が届きやすいところに配置する。

 そうすることによって、観客は目立ちすぎるトリックから逆に目を遠ざけるのだと。

 難しいマジックだと知っていれば、観客は細かいところに目を光らせてトリックを見抜こうとするだろう。

 するとそこに、先入観というものが生じる。

 マジシャンはそれを逆手に取るというわけだ。

 テレビを見ているだけでも一度は耳にしたことがあるような例え話だろう。

 だが、今回の場合にその話を置き換えるのならば、マジシャンはその知人で観客は巽ということになる。

 だから巽は正直な話、一人の観客としてマジシャンのステージの配慮には納得できたが、トリックには関心を抱けなかった。

 なぜなら、そのトリックの内容には心当たりがあったからだ。


「巽、気をつけろ。恐らく、今回の冬は過去とは比較できないほどの惨事になるやもしれん……」

 結局のところ、彼の言葉はこの一言に尽きたのだ。

 彼の名前は国府宮修吾こうのみや しゅうご

 巽とは彼らが小学生の頃からの親友だ。

 国府宮は現在は境の市ではなく関東地方の都心で生活を送っているが、生まれは巽と同じこの境の市だ。

 高校卒業後、互いの進路は別れることになった。

 巽は神社である家を継ぎ、国府宮は家を出て単身で上京した。

 彼は昔から歴史というものに大きな興味関心を示しており、それについて学ぶためにその道を選んだのだ。

 だが、真相がそうではないことを巽はよく知っていた。

 国府宮が興味があるのは確かに歴史だが、それは日本史でも中国史でも、ましてや世界史などでもない。

 そんなスケールの大きな歴史などではなく、彼はただたった一つの歴史を追い求めていた。

 それは、彼や巽が生まれ育った、この境という場所の歴史についてのことだった。


 これは、もう百年以上も前になる、この山に囲まれた辺鄙とも言える場所に一つの市ができる、それよりも過去の話だ。

 そしてその話は、三十年ほど前、ちょうど巽と国府宮がそれぞれの進路に分かれる直前にも、彼らの耳に届いていた物語。

 それから三十年が経った今でも、変わらずに繰り返され続けている一つの物語。

 それを知る者は、大雑把に言ってしまえばありとあらゆる人だろう。

 もちろん、境の市ではない別の、日本のどこかに住んでいる人間でも容易に知りうるんことができる。

 なぜならその物語は、毎年のようにニュースによって日本全国に放送されているだろうからだ。

 そしてその物語の本当の始まりは、気が遠くなるようなほどの過去の話。

 数多の季節の巡りを越えて、その物語は徐々にその姿を変えた。

 それは言い換えれば、おとぎ話や昔話と全く変わらないものだった。

 だが、長い月日を経るうちにその物語は力を持つようになった。

 そしてこの現代の世で、今なお力を持ち生き続ける物語。

 いつしかそれは、人々の見ることができない闇の追憶の中でこう語られるようになっていた。


 ――都市伝説。


 それはいわゆる怪談話の類であって、端から見れば昔からどこにでもあるような笑い話だった。

 実際に現代でも、数は少ないかもしれないが学校などによっては七不思議という怪談話が用意されている場所もある。

 その多くは、生徒達の間でいつの間にか噂が広がってそうはやし立てられているようなものばかり。

 だが、ごく稀に七不思議全てではないにしても、真相、あるいはそれに限りなく近い内容が残されている場合もあるかもしれない。

 そういった話は、ときとして生徒達をぞくりと思わせることもあるだろう。

 だが、結局のところは大半が作り話か根拠のないでたらめというケースばかりである。

 それゆえ、いつしかそんな噂話も音を立てなくなる。

 人の噂も七十五日という言葉があるが、人ではない噂に関してはもっと早くに忘れ去られるのかもしれない。

 何しろ今の世界は、想像もできないようなスピードで毎日が流れていく。

 その中に、人の興味を引くニュースなどそれこそ吐いて捨てるほど転がっているだろう。

 人間という生き物は、一つの物事にいつまでもじっと集中していられるほどうまくはできていない。

 それをできる人間を、もしかしたら研究者、あるいは探求者などと表現するのかもしれない。

 それをできない人間を卑下するつもりはない。

 できるほうが優れていて、できないほうが劣ってるとも言いはしない。

 しかし事実として、圧倒的多数を占めるのは後者だろう。

 それはつまり、フィクションの世界に生きているとも表現できる。

 逆に前者は、ノンフィクションの世界に生きているとも表現できる。

 そしてこれが、最大にして唯一の大問題だった。


 話を少し戻すが、ようするにこの境という市には一つの都市伝説が存在する。

 そしてそれは、少なくとも巽と国府宮それぞれのが生きる道を選んでいた三十年前には間違いなくすでに存在を確立していたのだ。

 それでいて、今日という再会の日を迎えるこの三十年の間、一度として狂うことなく都市伝説としての役割を果たしてきた。

 今日の二人の話の内容というのは、まさにそのことについてだった。

 もっとも、巽は前日の夕方にそのことを手紙で知らされ、今日会って直に話すまではそんなことなど予想もできてはいなかったが。

 それでもやはり、何だそれはと笑い飛ばすことはできない。

 かといって、丸っきり鵜呑みにすることもできない。

 だがどちらかといえば、巽はその話を信じてしまう方向に体が傾いている。

 それは三十年という時間をかけて、国府宮が調べ上げたことだった。

 その全てが正しい真実だとは言い切れないが、信じてもいいくらいの事象ではある。

 少なくとも、巽にはそれを受け入れてしまえる明確な理由が存在したのだ。

「……今もなお、伝承はこの地を巡るというのか、国府宮……」

 すでに冷め切ってしまった緑色の液体を見つめながら、巽は皮肉混じりに呟いた。

 

 昔、噂話を耳にした。

 この境という土地は呪われていて、その呪いから逃れるために、毎年冬の季節になるとこの土地の神が人を攫うのだと。

 その時点で、噂話はすでに都市伝説としての確固たる力を持っていた。

 ただ、気がつかなかっただけ。


 ある冬の日、一人の女が行方不明になった。

 捜索が始まり三日が経ち、一週間が経った。

 女は帰るべき家に、二度と戻らなかった。

 そしてそのまま、戻ってくることはなかった。

 女の名は、天瀬雪乃あませ ゆきの

 巽の、母親だ。


 3


 二対一。

 多勢に無勢と表現するには心苦しいが、それでも人数の優劣では彼女達のほうが有利に立っているはずだった。

 だが、状況は全くの一進一退。

 いや、むしろ彼女達は徐々にだが押されつつある。

 夜の空気の中に短い間隔で湧き上がる彼女の白い吐息は、失った体力の総量を表していた。

「神楽、このままじゃ俺達がやられる。手加減する余裕は……」

「分かってる。分かってるけど……彼は、まだ取り込まれていない。伝承の一部になってない……」

 死神の彼はそう言葉を促すか、やはり思ったとおりの言葉が返ってきた。

 神楽に人は殺せない。

 そんな分かりきったことを、改めて認識させられた。

「だが、このままじゃどうしようもない。お前ができないのなら、俺がやる」

 死神の彼は自分の身の丈よりも大きく長い漆黒の鎌を構え、対峙するその人影に向き直った。


 夜の暗闇が広がるその場所に、一つの人影が立っている。

 その姿は、どこからどう見ても人間のそれだった。

 暗がりで顔は見えないが、恐らくは十代後半の学生くらいの体つきに見える。

 もう間もなく日付が変わろうとしているこんな時間に、こんな場所にいることも相当おかしくもあったが、それ以上に人目を引くのは彼の右手に握られた白銀の刃に他ならなかった。

「下がってろ、神楽」

「ま、待ってカルマ!」

 しかしその声が届くよりも早く、死神は地を蹴った。

 それに合わせるかのように、対する人影も刃を構えて地を蹴った。

 両者の距離は十メートル弱。

 一足飛びで互いの間合いが生まれる。

 漆黒の鎌と白銀の刃が空気を切り裂いた。

 ギィン――。

 けたたましい金属音が響いて、その音が空気に溶けて集束するよりも早く。

 互いの第二撃目が、それぞれの刃を打った。

 衝突の際に、火花にも似た白光が宙を散る。

 そのわずかな光の中で、カルマは対峙する彼の顔を見た。

「な……」

 その顔は、確かにとても愉しそうに哂っていた。


 次の瞬間、ゆらりとその人影が揺れた。

 そう思ったときには、カルマの握った鎌から伝わっていた彼の持つ刃に加わる力が、空気の塊のように消え失せていた。

 一瞬、反応が遅れる。

 反射的に振り返る背後。

 そこに。

 いつのまに納めたのか、再び抜刀された微かな鞘走りの残響が聞こえた。

 直後。

 一筋の残光が、カルマを斬り付けた。

「……!」

 神楽はその光景から目が離せない。

 宙に飛び散った黒い粒子は、色が識別できないだけであって紛れもなくカルマの血だ。

 舞い振る雪とは対照的な、赤く黒い粒。

 その先に、カルマの体が水面にたゆたう木の葉のようにゆっくりと浮かんでいる。

 映画のワンシーンみたいに、ひどく動きが緩やかだ。

 やがてその体が、どさりと音を立て、真っ白な雪の上に横たわった。


「カルマ!!」

 神楽は駆け出した。

 神楽とカルマの間には、白銀の刃を握った彼が立っている。

 それはつまり、必然的な衝動で。

 ギィン――。

 なんの抑揚もなく振りかざされた一撃を、神楽は同じ白銀の刃で受け止めた。

 今の今まで、ずっと抜刀していなかったその刃を、とうとう引き抜いた。

「どけ!」

 相手の刃を押し上げて弾く。

 わずかに彼の懐が空き、今そこに横薙ぎの一撃を叩き込めば簡単に絶命させることができるだろう。

 しかし、神楽は最大の好機をあえて逃し、カルマの元へ走り寄った。

 横たわるカルマの横に膝を着き、彼の体を抱き上げる。

 カルマの胸には一直線に傷が走っていた。

 当然のように出血もしている。

 だが、思ったより傷口は深くはない。

 だからといって安心できる理由にはならず、一刻も早く手当てをしなくてはならい。

 しかし、そのためには。

「……っ!」

 神楽は振り返る。

 そこに立つ、人影を。

 暗闇の中でうっすらと浮かぶ、彼の双眸を。

 そして、彼は言った。


「人を殺すのが、そんなに怖いか?」

 それは紛れもなく、まだ少年という表現が正しい声だった。

 だがそこには、何の感情も込められてはいなかった。

 まるで無機質な声だけを録音再生している、壊れかけのカセットテープのようだった。

「……何ですって?」

 確かな恐怖を目の前に見据えながらも、神楽は聞き返した。

 そして彼は、間髪入れずに再び問うた。

「人を殺すことがそんなに怖いのかと聞いている」

 ぞくりと、全身に寒気が走った。

 それはやはり、ただの声だった。

 言葉ではなく、単なる音の集合体。

 しかし音楽にはならず、いつまでも不協和音を繰り返している。

 分からない。

 神楽には目の前のこの存在が何者なのか分からない。

 人間であることは確かなのに、それにはあまりにも欠落した部分が多すぎる。

 これではまるで……人形のようだ。

「……フン」

 彼は実につまらなそうに吐き捨てた。

 そして、白銀の刃を鞘に納める。

「同族の匂いに誘われてきてみれば、このザマか」

「何を言って……」

 そこに続く言葉を言い終えるよりも早く、彼の眼光が神楽を射すくめた。

 その瞳は、蒼く暗い光を宿している。

 彼は言った。


 「――次は殺す」


 その一言だけで、恐らく彼は人を殺すこともできるだろう。

 なぜだか分からないが、それだけの悪意と敵意を感じた。

「次に会うまでに、せめて人を殺せるようになっておけ」

 私は身動き一つ取れなかった。

 彼が私の脇を通り過ぎている、その瞬間さえも。

 背中越しに遠ざかっていくであろう彼の背中を、振り返ることすらできなかった。


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