第四幕:少年と影、少女と死神
1
ちらつく雪景色の中に、確かにそれは立っていた。
全身を黒一色に包み、およそこの景色の中には不具合としか言えないであろう存在。
コンピューター関連の言葉で表現するのならば、それはまさしくウイルスやバグといった言葉が適切だろう。
そんな異常な存在を目の当たりにしても、冬夜が冷静さをかろうじて保っていられるのは、それが外見だけは人の姿をしているからだ。
高くも低くもない背丈、太ってもいないし痩せてもいない。
表情は口と鼻先しか見えず、残りの部分は垂れ下がった前髪によって覆い隠されている。
その髪も含めて、頭をすっぽりと隠すように黒いフードを被り、地面の雪を引きずるほどのだぶだぶしたコートに身を包んでいる。
そして何をするわけでもなく、その前髪の奥に潜んでいるであろう双眸でこちらを覗いている。
口元は今もうっすらと歪み、何がその存在をそこまで愉しませているのか、冬夜には到底理解は及ばなかった。
「……フフ」
ふいに、大気そのものが震えるような低い声が響いた。
その声は幼いようで大人びていて、男のものなのか女のものなのかは判別ができない。
途端に冬夜の背中を、今までに感じたことにない恐ろしいほどの寒気が走り抜ける。
神経の一部が麻痺してしまったかのように、地面を踏みしめる足はぴくりとも動こうとしない。
ただ、目の前の存在が小さく哂っただけだというのに。
「ようこそ、とは言ったものの、別に招いたわけではないんだけどね」
影は語る。
その言葉、声色のどれをとっても感情のようなものは感じ取ることができない。
唯一ひしひしと伝わるのは、紛れもない恐怖という感覚一つだけだった。
「まぁ、いい。それで、君の目的は何かな? 伝承である僕を追い回すくらいだ、どうやらよほど切羽詰っている状況なのかな?」
言葉は間違いなく冬夜に向けられたものだろう。
影はその隠れた双眸から真っ直ぐにこちらを直視し、冬夜の返答を待つ。
しかし、冬夜の体はそれに反して動かない。
足と地面がまとめて氷付けにされてしまったかのようだ。
さっきまで震えるほどに揺れていた指先も、いつの間にか凍りついていた。
自分がどうやって呼吸を繰り返しているのかすらも認識できない。
目も見えるし耳も聞こえるが、人間として何かもっと重要なものが欠落してしまったような錯覚を覚える。
薄く開いたまま硬直した唇からは、押し出せば出そうな声がなかなか出てこない。
心臓の鼓動が不規則に鳴り響く。
体の内側から、何かが確実に崩壊していくようだ。
「…………なんだ?」
ようやく声を絞り出すのに、一体どれだけの時間がかかったのだろう。
永遠にも思えるような一瞬が流れ、ようやく言葉は押し出された。
「お前は、なんなんだ?」
それだけの言葉を絞り出すのに、寿命が何年も縮まってしまったように感じる。
言い終えてなお、再び永遠にも思える時間が流れ始める。
正面に見える影に、さきほどまでの歪んだ笑みはない。
やがて、その唇が動く。
「お前はなんだ、か……。ふむ、改めて問われてみると、どうにも返答に困るね。監視者にして傍観者、加害者にして被害者、光にして影、神にして悪魔、脱走者にして追跡者。語り手でもあり、詠い手でもあり、紡ぎ手でもある。……どれも間違ってはいないが、正しいというわけでもない。……もっともらしい答えがあるとするならば……秩序、か。いや、記憶と言い換えるべきか……」
色のない表情で影は詠う。
その言葉一つ一つは単語としての意味しか持たないのに、なぜか影が詠う言葉にはそれ以上に超越した何かが含まれているように感じる。
「何を言って……」
「……ん? ああ、すまない。何せよ、これまで自分という存在に対して何の頓着もなかったのでね。こういう問いを投げられたのは初めてなんだよ」
そこまで言い終えて、ふいにその影は表情を変えた。
冬夜からは見えないが、影は確かにわずかばかり目を丸くしていた。
それを感情で言い表すのならば、驚愕というよりも感嘆という表現が近いかもしれない。
「そう、だね。確かに前代未聞だ。考えてみれば当然だが、他の存在の認識に介入したことなど、これまで皆無に等しかったからね。まさか彼女とあの死神以外に、僕を認識の一部として捉えられる存在があったとは……いやいや、実に興味深い」
そして、口元を三日月形に歪めて小さく哂った。
「わ、わけの分からないことを言うなっ!」
冬夜は叫んでいた。
とはいっても、その声が大声なのか小声なのかを自分で判断することはできなかったが。
「これは失礼。気分を害したなら謝るよ。だが、まずはこちらの質問に答えてくれないとこちらとしても返事ができない。もう一度聞こう。君の目的はなんだ?」
「っ、それはこっちが聞きたいくらいだ。今朝だって姿を見せただろ」
「今朝、というと?」
「とぼけるな! 学校の付近までやってきてただろ」
「ああ」
納得するように、影は口元に手を添える。
そして理解したと言わんばかりに、再び小さく笑みを浮かべる。
「なるほど。そういうことか。だとしたら、君は大きな誤解をしている」
「……どういう意味だ」
「僕の目的は君ではないよ。もっとも、今は君という存在にも興味をそそられはするが、ね……」
くすりと、音もなく哂う。
「勘違いだろう。君からは僕が君を見ていたように見えたのだろうけど、僕が見ていたのは君ではない」
あっさりと切り捨てる。
途端に張り詰めた空気が弾けたように、必要以上に抑制をしていた全身の緊張が解けた。
「話はここまでかな? ならば、早くここから立ち去るべきだ。心配しなくても、回廊は一時的に穴を開けておく」
「立ち去れって、どうやって……」
「言っただろう? 回廊には穴を開けておく。今夜の君は招かれざる客だ。手順を踏んでない存在を取り込むのは、こちらとしても少々手間がかかるんだ」
その言葉の意味が理解できない。
やはりこの影は、少なくとも普通に暮らす日常の世界に存在してる存在ではない。
もっとこう、深く暗い場所を好んで住まうような……例えるなら、獲物を待ち続ける狩人のような。
「久しぶりに会話というものを楽しめたよ。こんな有意義な時間は彼女と出会ったあの夜以来だろうか……。前菜が美味ならば、メインディッシュにも期待が持てるというもの。今一度君に感謝の言葉と共に、楔を贈ろう」
次の瞬間、目の前に強烈な突風が吹きつけた。
舞い降る雪を巻き込んで、吹雪のように視界を塞ぐ。
「……っ!?」
冬夜は咄嗟に腕で顔を守る。
吹き付ける吹雪は、しかし冷たさをまるで感じさせなかった。
そして風が止み、見据えた正面の景色の中に。
「…………」
影の存在は忽然と消えていた。
あの影が立っていたであろうその場所に、やはり足跡はない。
変わりに、積雪の地面の上に突き刺さる、棒のようなものが一つ。
冬夜はそれに歩み寄る。
三十メートルの距離を歩き、それを目にした。
それは、一振りの刀だった。
真新しい木の色をした鞘に収められたそれは、神社や寺などに祭られてる神刀によく似ていた。
『今一度君に感謝の言葉と共に、楔を贈ろう』
その言葉が脳裏に甦る。
突き刺さったその長刀を、雪の中から引き抜く。
柄を持ち、刀身を引く。
そこに、美しいという言葉では表現できないほどの白銀の刃が収められていた。
その白さを、冬夜はどこかで見たことがある。
それは、この地を覆い尽くすように降り続ける雪の白さではなく。
例えるなら、満月によく似た銀色の――――。
2
回廊に穴を開けたと、あの影はそう言っていた。
頭の中の霧は一向に晴れる気配を見せないが、思考を停止させるわけにはかない。
単語一つ一つが暗示するであろう意味から考えれば、この場合の穴とは即ち出口を示していると考えるべきだろう。
穴を開けたということは、出口が開いているということだ。
回廊というのは、今いるこの迷路のような倉庫区画全体を指し示しているのだろうか。
いや、この際そんな余計なことまで考えている暇はないだろう。
あの影の言葉をそのまま鵜呑みにするのも相当危険なことではあるが、この空間が常識で考えられる範囲のものではないのも確かだ。
となると、ここは素直に言葉に従うべきだろう。
現状で最悪なことは、この異質な空間から抜け出せなくなることだ。
とはいえ、いつまでものんびりとしている余裕もない。
影の言葉をそのまま信じるのなら、穴が開いている、つまり出口が存在しているのは一時的な時間だけだ。
こうしている間にもタイムリミットは迫っているだろうし、一刻も早く抜け出す必要がある。
だが最大にして唯一の問題は、この迷宮のような倉庫区画をどこをどう行けば出口に繋がるのかということだ。
出口があっても辿り着けなくては全く意味がない。
「くそ、どっちだ……」
焦りは次第に不安へと変わり、冷静さを失わせる。
とりあえずがむしゃらに走るか、だがそれではますます迷い込む可能性もある。
あの影を追うことに夢中で、来た道順などには一切無頓着だった。
仮に注意を払っていたとしても、どれだけ歩かされたか分からないので結局結果は同じだろう。
時間だけが無常に過ぎていく。
影の存在は好機を与えたつもりなのかもしれないが、冬夜としては何の解決にもなっていない。
ただ立ち尽くしていても埒が明かないので、まずは目の前の続くその道を真っ直ぐに歩き出す。
こうなったら勘でもなんでもいい、当てにならないものでも当てにするしかない。
雪道を踏みしめて歩くが、この場所では足跡は浮かばない。
せめて冬夜がこの場所に迷い込む前の、自分の足跡を見つけることができればそれを辿れるというのに……。
ない期待を持つよりも、今は歩くしかない。
止まれば時間は無駄に流れるだけで、同時に胸のうちの不安や恐怖も大きさを増してくる。
だが、意外にも早く救いの手は差し伸べられた。
「……あれは……」
歩き出して最初の分かれ道。
直進か右折かを迫られたその場所で、右の道の奥で何かが動いた。
その動いた何かは、動き出す直前まで冬夜の様子を伺っているようにも見えた。
まるで、ついてくるのを待っているような、そんな動きにも見えた。
「……行くしかない、か」
もはや罠かどうかなどと詮索している時間もない。
すがれるものにはすがっておこうと、冬夜は再び足を動き出す。
道を抜けると、今度は左右に道が分かれる。
左の道の奥、そこで同じものが動いた。
誘われるままに冬夜は歩を進める。
次を直進、その次を右折、さらに右折……。
幾度目かの道を曲がって、ようやく冬夜は開けた場所へ出た。
そこはこの倉庫区画への入り口で、少し先には駅前へと続く路地が見て取れた。
「抜けた、のか……?」
自問しながらも、冬夜は早足で出口へと向かう。
残された時間がどれだけのものなのか分からないので、焦りは募るばかりだ。
そして歩みが走りに変わりつつ、ある地点を足が踏み越えたその瞬間。
「……?」
まるで目には見えないほどの薄い膜を音もなく突き破ったかのような、ぬるりという感触が全身を貫いた。
しかし感覚は一瞬で、立ち止まった冬夜はすでにもう何も感じていない。
目の前には路地が広がっていた。
ふと足元に目を落とす。
踏みしめた雪の跡、その後方にも点々と足跡が続いていた。
それは、あの不気味な感触を全身に受けた地面の向こう側までにも、ずっと続いていた。
あれだけ何度も道を曲がったというのに、残された足跡は整然と並べられたように一直線に残っていた。
その光景に、気味が悪くなる。
今までが夢だったのか、それとも今こそが夢なのか。
そんな疑惑さえ浮かぶが、右手の感触一つでそれらは消し去られる。
「……」
右手に握られた、一振りの刀。
白銀の刀身は鞘の中に収められ、腕には微かな重みが加わる。
それは紛れもなく、振りかざせば切り裂いたものの命さえも容易に奪い去ることのできる代物。
「痛っ……!」
何の前触れもなく、右の首筋が小さな痛みに疼いた。
指先で触れてみると、確かに液体の感触。
まるで斬られたようには見えないほどの小さな傷口が開き、わずかに出血していた。
傷口に触れた指先が、夜の雪景色の中には目移りするほどの紅の色で妖しく染まる。
空はすでに夜の暗さに包まれていたが、それでもはっきりと分かるほどに美しい色合い。
命の色。
生の躍動を示す、赤。
それは、生の証。
そして、死の証――。
――――ドクン――――。
視界が揺らいだ。
波を打つように、ゆらゆらと揺れる世界。
白一色に包まれた世界の、無二なる赤。
手にした一振りの刃から、目が離せない。
薄れ遠のいていく意識。
訪れる衝動。
何もかもが壊れ、崩れ去る。
高鳴り続ける鼓動。
留まることを知らない。
やがて、全ての記憶は収束し、告げる。
――この刃を以って、生を刈り取れ。
左手が鞘を掴む。
右手が柄を引く。
恐ろしくゆっくりな鞘走り。
刃と鞘が擦れ合い、鈴の音の残響によく似た音色を響かせる。
白銀の刀身が露になる。
汚れはおろか、曇りの一つさえも見受けられない刃。
時としてそれは、真実を映す鏡にもなる。
映るのは自らの顔。
だが、どうしてだろう?
そこに映る自分の顔は、なぜ……。
――うっすらと、口元を三日月形に歪めて哂っているのだろう。
少し離れた路地の向こう側から、トラックのクラクションが響いたのはそのときだった。
それを合図にするかのように、冬夜の体は一瞬震えた。
そして、ようやく気付く。
両手に握った鞘と柄の間から、白銀の刃が半分ほど顔を覗かせていたことを。
「……俺は、何を……?」
自分自身に問いかけてから、ゆっくりと刃を鞘の中に納める。
鍔元がかちりと音を鳴らし、同時に冬夜は体のあちこちから力がふっと抜けていくような脱力感を感じた。
それは疲労の類とは違うようで、肉体的な疲れではなく精神的な疲れのようにも感じた。
すっかり冷え切った手で、頭を抑える。
額はかなりの熱を持っているにもかかわらず、体のだるさは今はもうほとんど感じない。
冬夜は再度振り返る。
遠くにまで続く自分の足跡の上には、うっすらとだが新しい雪が積もり始めていた。
今夜中に足跡は全て雪が覆い隠すことだろう。
そう、最初から何もなかったかのように。
ふと、空を見上げる。
今夜は雲が空を覆い、昨夜のような美しい満月の姿は見えない。
視線を少しずつ地平に戻す。
空と地面の間に、街の灯りが見えた。
投げかけたい問いはいくつもあった。
けれど、きっと答えは返ってこないのだろう。
冬夜は駅前へと続く道を、無言で歩き出した。
3
石段を登り終え、境内の中を歩いている途中に体調の変化は訪れた。
急激なめまいと頭痛、重苦しさを訴える体。
雪道の上を半ば這うようにして、冬夜はやっとのことで玄関の扉を開けた。
そのまま玄関先に倒れこんでしまいそうになるのをどうにか堪え、階段をよじ登って自室へと向かう。
部屋に入ると、コートも脱がずにそのままベッドの上に体を放り投げた。
今の今までなんともなくなっていたはずの体調が、ここにきて元に戻っている。
「どーなってんだよ、これ……」
何度か咳き込みながら冬夜は呟く。
それは言葉のとおりのことだった。
元々悪化していたはずの体調が、ふとなんでもないかのように楽になったと思ったら、また突然ぶり返した。
いきなり楽になったのもおかしな話だが、その後再びぶり返すのも相当おかしな話だと思う。
今日という一日はもうすぐ終わりを迎えるが、朝から晩まで本当にわけの分からない一日だった。
いや、わけの分からないなどという言葉で片付けるにはあまりに記憶が鮮明でもある。
今こうして呼吸をしていることも、もしかしたら奇跡的なことなのかもしれない。
そんな風に思えるほどに、今日一日はありえないことの連続だった。
むしろ、今日という一日はあるはずのない一日だったとも言える。
いっそのことこれが全部夢でしたと言われるほうが気分が楽になるだろう。
明かりもつけないままの部屋の天井を見上げながら、冬夜はそんなことに考えを巡らせた。
「はぁ……」
どれだけ考えても溜め息しか出てこないことだが、この体じゃ溜め息一つも疲労に思える。
それよりも何よりも、もう体がつかれきって言うことを聞いてくれない。
こうして寝転がっている今も、気を抜けばまぶたはすぐに落ちてくる。
あまりに現実離れした出来事の連続で、冬夜は肉体はもちろんのこと精神も参っていた。
せっかく買った風邪薬も、どうやらどこかで落としてしまったらしい。
だがもう再び買いに歩くような力は残されていない。
巽もまだ帰宅していないようで、家の中は静かなものだった。
「そう、だ……これは、しまっておかないとまずいよな……」
なんとか上半身だけを起こして、冬夜は床の上に転がった刀を、そのままベッドの下に無造作に押し込んだ。
こんなものを巽に見られたら、何を言われるか分かったものではない。
それによくよく考えれば、結果としてこうして持ち帰ってきてはしまったが、これは立派な銃刀法違反なのではないだろうか。
たまたま見つからずに済んだからよかった、というわけでもないが、どちらにしても処分に困るのは間違いない。
だが、ぼやけた頭で何を考えたところでいい考えは浮かばない。
かといって、今日のいくつもの不思議体験を簡単に呑み込めるわけでもない。
そうと分かれば、もう今日はこのまま眠りにつくことしか考えられなかった。
冬夜はゆっくりと目を閉じる。
目の前が暗闇に包まれ、次に強烈な睡魔が襲い掛かってきた。
抵抗せず、そのまま深い眠りの中へと落ちていった。
同時刻、街外れの倉庫区画。
その少女は昨夜と同じように、その手に銀色に輝く刃を握っていた。
月明かりも星明りも届かない夜、入り組んだ路地裏に射す光は何もない。
対となる闇だけが、侵食と同化を繰り返すかのように渦を巻いて蠢いている。
そこに、閃光が走る。
まさに一閃。
少女は手にした銀色の刃を大きく横に薙いだ。
肉の塊を切り裂く手応えが少女にも伝わる。
ぐちゃりという、ひどく耳障りな音。
どれだけ斬り続けても、この不快な感触と音には慣れることができない。
肉体はそれを受け入れても、精神がそれを拒んでいるせいだろう。
少女はそれをよく理解していた。
理解しているからこそ、パートナーである死神の彼も黙ってそれを見ているのだ。
「……終わった」
「お疲れさん」
二人の会話はそれだけで終了する。
少女は刃に付着した真っ赤な血を乱暴に地面に振り払う。
びしゃりと音がして、足元の真っ白な雪にいくつもの赤い斑点がつく。
もっとも、暗すぎて何色なのか分かったものではないが。
明かりの下で見れば、少女の服や顔にもあちこちに返り血が付着していることが分かるだろう。
路地裏には血肉の交じり合った腐臭が広がり始め、常人ならその匂いだけで胃液が逆流してしまうかもしれない。
「後始末、お願い」
「あいよ」
人間ではない彼は、そこらじゅうに転がる血肉の塊とその腐臭をものともせず、すでに広がった血溜まりの上を歩く。
ぱしゃんと音を立てるたび、彼の靴底は真っ赤に塗りたくられる。
彼は人間で言うなら、見た目は年齢二十歳前後の青年に見える。
だが、彼は人間ではない。
れっきとした死神だ。
その証拠に、彼が伸ばした手の先の虚空から、夜の暗ささえも取り込んでしまうほどの漆黒の鎌が姿を現した。
その長さはゆうに二メートル以上もある。
ちなみに彼の身長は百八十センチ程度なので、自分の身の丈よりも大きいことになる。
それなりの重さもあるであろうその大鎌を、彼はこともあろうか片手で振り回す。
三日月形の曲線を描いた刃の切っ先が、赤く染まった血溜まりに突き刺さる。
そして次の瞬間、音もなく空間が弾けた。
「はい、おしまい」
たったそれだけで、目の前に腐乱していた血肉や血溜まりは、跡形もなく消滅していた。
役目を終え、彼の手からはすでにあの大鎌は消えていた。
「戻ろう」
少女は呟く。
相変わらず、彼の大鎌にも負けず劣らずのその漆黒の瞳からは何の感情も読めない。
だが、死神の彼はそれが彼女の精一杯の強がりだということを知っている。
知っているからこそ、がらにもなくそんな言葉が出ることもある。
「神楽」
その名に、少女は振り返る。
「無理しなくても、殺しは俺の専売特許だから」
「無理なんてしてないよ。平気」
「……本当にそうか?」
少女の唇が止まる。
だが、それも一瞬だった。
「今更、怖いなんて言えない」
今度は彼が黙る番だった。
「そんなこと言ったら、私は今まで奪ってきた命に対して何て言えばいいの?」
「……悪い。失言だった」
彼は素直に引き下がった。
引き下がりはしたが、認めてなどはいない。
いつだって彼女は、泣きそうな目をしているから。
「行こう。今夜はもう何もないよ」
彼女は先に歩き出す。
彼女の背中を彼が追う。
いつもどおりだ。
何一つ変わりはしない。
彼女が涙を隠していることも、それを見てみぬフリをする彼も。
何一つ、変わってなどいない。
――彼女が今日もまた、人を殺したということも。