第三十幕:受け継がれる想い
1
対峙というにはあまりにも緊張感のない空気だった。
それはただ向かい合うというだけで、言葉一つ交わさずとも意思の疎通ができているかのようだった。
「…………」
「…………」
向かい合うは闇と死神。
互いに現実をはるかに超越した存在でありながら、こうして現実の中に生きている。
闇はその手に黒の短剣を握り締め、カルマはその手に漆黒を大鎌を握り締めていた。
両者の間に間合いらしいものはなく、どちらとも攻撃の機を窺っているようには見えない。
虚ろな視線同士がぶつかりあうたびに、この場全体の空気が一段と重苦しくなっていくような感覚を覚える。
「……なるほど。お前が狂いの歯車か」
ふと、闇が囁いた。
高くも低くもなく、男なのか女なのかさえも分からないような声。
しかしどこか凛としたその声は、逆に恐怖や不安を引き立てる要素に他ならない。
「妙だとは思ったが、まさか死神の分際で現世に加担する輩がいるとはね。何かわけありなのかな?」
「……それを知ってどうする? もとより、お前に話す義務などないがな」
「……ふむ、それもそうか。まぁ、それならそれで構わないさ。だが、僕の邪魔だけはしないでほしいね」
「邪魔だと? それは、この千年目の物語を見過ごせということか?」
「君の物分りがよければ、それで済むんだろうけどね。だけど、実際君はそうではなさそうだ」
「……物分りがいいな。分かっているなら話は早い。止めさせてもらう」
カルマは身の丈よりも巨大な鎌を構え、三日月形に歪む切っ先を目の前の闇へと向けた。
「どうして分からないかな……君だって、現世よりは僕ら側に近い存在だろうに」
「……関係ないな。俺は俺の意思で行動する。それだけだ」
「……やれやれ。本当に物分りが悪いようだ」
言って、闇は黒の短剣をわずかに掲げる。
闇の中でさらに一際黒く光る切っ先。
触れるだけで全てを飲み込むほどの闇を、さらに凝縮させたような。
シンと、一瞬の沈黙が場に降りる。
それを最初に破ったのは、カルマの足が地を蹴る音だった。
見た目以上に重さもあるであろうその大鎌を、カルマはいともかんたんに片手で振るった。
命ばかりか、魂までも刈り取るであろう大鎌の刃が襲う。
しかし、これに対して闇は微動だにしない。
このまま避けなければ、確実にその体は真っ二つに叩き切られてしまう。
「……まさかとは思うが、一応聞いておこう」
闇が告げる。
「お前はまさか、こうすることを誰かに頼まれているんじゃないだろうね? そう、例えば……」
ニィと、愉しそうに口元が歪む。
「――かつての僕の、片割れとか……ねぇ?」
「…………」
カルマは答えない。
振りかざした大鎌が月の軌跡を描き、曲線をなぞるように切り裂いた。
そして誰の目にも見て分かるように、その鎌は確かに闇そのものを切り裂いた。
確実に。
どう見てもそれは必殺に等しい一撃であり、死はおろか致命傷は避けられないものだ。
しかし。
ニィと、相変わらずやみはその場に佇んで愉快な笑みを浮かべている。
そこに痛覚というものはすでに存在していないようで、一滴の血さえも流れ落ちることはなかった。
「ふん、やはりそういうことか。あの役立たずは、最後まで役立たずのままだったということか」
「……貴様!」
「おや? なぜお前が憤る? 死神なのだろう? 感情は捨てろよ。誰にでも等しく、死は訪れるものだ。それを運ぶのが、お前達死神の仕事だろうに。ふん、結局のところ、揃いも揃って出来損ないの集まりってことだね」
「…………っ!」
言い放った直後に、その闇はまるで訪れ始めた夜の暗さの中に溶け込むようにその姿を消した。
「まぁいい。今夜はここまでにしておこうか。僕なりに疑問の解決に至ることもできたし、それで収穫としよう。お前達の命は、もう少しの間だけ預かっておいてやるよ。抗うなら、とことん足掻いてみることだね。無力さに気付くこともできるだろうし」
そんな、嘲りの一言を残して、闇は文字通りにこの場から姿を消した。
濃く広がっていた霧のようなものが晴れる。
夜はようやく深まったところで、空を見上げれば瞬く星も少なくはなかった。
ただし。
その星明りの下、誰一人として満足に笑みを見せられる者などいなかった。
2
事の一区切りが付いたのは、それから一時間ほどが経過した頃だった。
冬夜の傷の手当てを終え、それから気持ちを落ち着けるためのしばしの休息。
それらを終え、全員は今揃って和室の中で顔を見せ合っていた。
しかし当然のように、誰一人として自分から口を開こうとする者はいない。
ただただ重苦しい空気が場を包むばかりで、それは誰にとっても苦痛にしかなりえないものだった。
恐らく、この中で今一番気持ちが落ち込んでいるのは冬夜だろう。
最後の最後まで分かり合うことを願っていたが、実の兄、雪那に対してその想いは届かなかった。
それどころか、決別という名の決着があんな形で幕を引くことになるなんて、やるせない気持ちでいっぱいだろう。
冬夜は今、部屋の片隅で一本の刀を抱きかかえるようにして座っている。
それだけが唯一、雪那が兄として自分の名を呼んでくれたその言葉と共に遺してくれたもの。
言わば、形見の品のようなもの。
色々と思うところもあるのだろう。
隣には寄り添うように巽が鎮座しているが、それでも言葉をかけられるにいるようだ。
それを眺める神楽の表情も、どこか悲しげなものに染まっていた。
カルマはただ壁に背を預けたまま、無言で目を閉じて何かを考えふけっている。
よって、四人がいるこの場には沈黙というものしか存在しない。
誰もが話しかける言葉を持ち合わせず、話しかけられた言葉に返す言葉を持ち合わせていない。
カチコチと、時計の秒針が時を刻む音だけが、それでも時間の流れはあることを四人に告げてくれていた。
「……叔父さん」
その囁くような小声は、冬夜のものだった。
隣に座る巽にそっと聞くように、絞り出したような小声が静寂を維持したままの室内に響いた。
「……何だ?」
「叔父さんも、見てたよね? アイツは……兄貴はやっぱり、叔父さんの目から見ても、兄貴だった?」
独り言のように冬夜は聞く。
「俺、さ。兄貴の顔とか声なんて、本当に何一つまともに覚えてないんだ。だから、さっきまでは直感っていうか、本能っていうか。そんな感覚だけで、アイツを兄貴として見てたから……」
「……バカを言うな。アイツは、間違いなく雪那だ。お前の双子の兄だ。幼い頃とはいえ、何度も顔をあわせた私が保証する」
「……そっか。やっぱり、アイツが兄貴だったんだ……」
そう頷いても、冬夜は未だに悲しげな表情を拭い去ることができない。
「……変なんだ、俺。やっと自分を取り戻せたはずなのに、ちっとも嬉しくない。それどころか、さっきまで戦ってたアイツが兄貴だなんて、今は信じたくないんだよ。ひょっとしたら兄貴は今も、この世界のどこかで何も知らずに当たり前の生活を送っているんじゃないのか
って、そう思えて仕方ないんだ……」
「冬夜……」
「分かってる。そんなこと、俺がただ現実逃避したくて言ってることだって、分かってる。分かってるけど……」
その声がしだいに遠くなるように小さくなる。
腕の中に抱いた一本の刀が、悲しそうにカタリと音を立てた。
「……それでも俺は、信じたくない。兄貴が死んだなんて……もう、どこにもいないだなんて……」
「……」
巽はそれ以上、かける言葉を持たなかった。
いくら慰めの言葉を探したところで、それはきっと無意味なことなのだろう。
この傷は、どんな良薬をもってしても癒しきることはできない。
悲しいが、冬夜はこの先の人生の中にこの穴の開いた傷を背負っていかなくてはならない。
「……私は」
ふと、神楽が口を開く。
「私は少しだけど、あなたの気持ちは理解できる。私も、お母さんを同じようなことで失っているから」
その言葉に、冬夜がわずかに顔を上げた。
「正直、少し前までは私もあなたと同じことばかり考えていた。お母さんはいなくなってしまったけれど、本当はこの同じ世界のどこかで普通に生きているんじゃないかって。そう信じ続けてここまで来たし、これからもそうするつもりだった」
「……」
「でも結局、それは叶わない願いだった。やっぱりお母さんは三年前のあの日にもう死んでしまっていて、実際にそれを看取ってくれた人がいた。そのことを知ったとき、私は不思議と悲しくなかった。心のどこかでは悲しいと思っていたけれど、どこかで逆に、今まで分からずじまいだったことにようやく一つの答えが出たみたいな気がして、ちょっとだけ気持ちが楽になった」
神楽はわずかに目を伏せ、続ける。
「それでも、やっぱり悲しいことは悲しい。お母さんには生きてて欲しかったし、そう願っていたからこそ私は今まで歩いてくることができた。でも私は、お母さんの死を知っても、歩くことはやめない。また、次にやることができたから。今度こそ私は、お母さんの仇をこの手で打つ」
神楽は一度カルマへと視線を移し、言う。
「止めても、私はやるから」
「……だろうな。いいさ、好きにしろ。俺だってヤツとは因縁がないわけじゃないんだ。とことん付き合ってやる」
「……今はまだ、その因縁っていうのに関しては、聞かないほうがいいの?」
「……ああ、すまない。時がきたら、必ず全てを話そう」
「分かった。じゃあ、私はもう何も言わない。目的が同じなら、歩く道だって同じだもの」
「ああ、そうだな」
向き直り、神楽は続ける。
「……あなたは、どうする?」
冬夜に問う。
これからどうするのか、と。
「……俺は」
どうしたらいい?
とは、聞けなかった。
それはきっと、自分自身の中で答えを見出さなくてはいけないことだから。
言いかけた言葉を呑み込んで、冬夜は考える。
……いや。
考えるまでもないじゃないか。
そうだ。
約束したじゃないか。
最後の最後のその瞬間、名前を呼んでくれたアイツと、交わした約束があるじゃないか。
『――しくじったら、承知せんぞ……いいな、冬夜……』
「……戦う。最後の最後まで、戦う。俺はもう、目の前で大切な何かを失うことなんてうんざりだ」
それは、確かな意思。
一度は消えかけた火が、再び天を焦がすほどに燃え上がるまでの、小さな種火。
今はまだ暗闇の中の小さな点に過ぎない火。
それでも、いつの日かそれは。
――世界を照らす光にさえなれるはずだ。
「止めよう、アイツを。俺達にできることは、きっとそれしかない」
その言葉に、無言のまま誰もが頷いた。
今夜はまだ始まったばかりだった。
しかし。
今はもう少し、この場所に集った傷だらけの小さな戦士達にしばしの休息を……。