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千年の冬  作者: やくも
3/34

第三幕:雪は街を白く染め上げて(2)

 1


 目を開けても、しばらく意識は朦朧としていた。

 目の前はぼやけて見えるし、体にもまだだるさが残っている。

 何度か瞬きを繰り返しているうちに、冬夜はようやくここが保健室のベッドの上だということを思い出した。

 寝転がった体の上に丁寧にかけられた真っ白な布団を取り払い、ゆっくりと上体を起こす。

 心なしか、体の節々が痛みを覚えているような気がする。

 そういえば、保健の先生にも風邪だと断言されたのだった。


 昼休みがもうすぐ終わる頃になって、冬夜は保健室の扉を叩いた。

 そして中に入るなり、保健の沢渡は目を丸くして驚いていた。

「ちょ、どうしたの君?」

 どうしたと言われても答えようがないのだが、とりあえず冬夜は体がだるくて熱っぽいとだけ答えておいた。

 すぐにソファに座らされ、体温計で熱を測るように言われた。

 数分後、体温計のアラームが鳴る。

 表示された数字は三十七度八分。

 微熱とも高熱とも言い難い、なんとも微妙な数字だった。

 それでもやはり熱があることは確かで、症状も風邪そのものだということなので

「奥のベッドで休んでなさい。先生には私から話しておくから」

 という沢渡の声に促されるまま、冬夜は言われたとおりに奥のベッドで横になったのだ。


 記憶があるのはそこまでだった。

 どうやらその後、自分でも気付かないうちに寝入ってしまっていたらしい。

 昨夜一睡もしていなかったことも、後を押したのだろう。

 体のだるさはさほど大きな問題ではなかったが、まだ頭がふらふらする。

 寝起きということもあり、体がおきても脳が完全に起きていない状態なのかもしれない。

 冬夜はまだふらついたままの足取りだったが、上靴を履いてベッド周りのカーテンを開けた。

 すると目の前の窓の外から、真っ白な景色が飛び込んできた。

「うわ……」

 思わず冬夜はそんな一言を漏らした。

 窓から覗くグラウンドは茶色い土の部分がどこにも見えないほどに、一面が雪に埋め尽くされていた。

 裸になった枯れ木の枝にも、こんもりと雪が積もっている。


 昼以降になって、雪はますます勢いよく降ったようだ。

 積雪は今のところそれほどでもないのだろうが、このままだと足首が完全に隠れるくらいまでは積もると思う。

 コンクリートの地面の上に積もった雪には、下校中の生徒の足跡がそこらじゅうにつけられていた。

 雪は今もなおちらちらと降り続き、そんな悪天候にもかかわらず部活をしている野球部員やサッカー部員の姿もある。

 そこで冬夜ははっと気付く。

 生徒が下校したり部活が始まっているということは、もうとっくに放課後を迎えているということだ。

 保健室の時計を見ると、時刻は四時二十分を示していた。

 午後の授業が終わるのは三時半だから、もうずいぶんと時間が経っていることになる。

 さすがにもうそろそろ下校するべきだろう。

 これ以上雪が強くなってくると、徒歩登校の冬夜としては歩くのが辛くなってくる。

 ただでさえ自宅の神社の前には長い石段が続いているというのだから。


 一息ついて、保健室の中を見回す。

 そこに教諭の沢渡の姿はなく、冬夜が寝ていたベッド以外の二つももぬけの殻だった。

 確か、寝る前にはもう一つのカーテンも閉まっていたような気がするのだが……。

 まぁ、この際そんな曖昧なことはどうでもよかった。

 沢渡の姿が見えない以上、一度職員室へ行って沢渡か担任の遠藤に一言断ってから帰宅した方がいいだろう。

 どの道、鞄を取りに教室に戻らなくてはならないわけだし。

 冬夜が保健室を出ようと出入り口に向かう途中、それは目に入った。

 机の上に書置きのようなものが置かれており、それにはこう書いてあった。


『めがさめたらかえるように』


 実に簡単な文章で、それだけが書き記されていた。

 そういえば今朝のホームルームで、放課後は職員会議があるから生徒は早く下校するようにとか遠藤が言っていた気がする。

 なるほど、それで今は会議中ということなのだろう。

 さすがに会議中の職員室の扉を開けてまで帰宅許可をもらう必要もないので、冬夜は書置きに従って帰宅することにした。


 がらがらと音を立てて扉を開ける。

 途端に、室内と廊下の異常なまでの気温差に身震いした。

 保健室の中は暖房が効いていたが、一歩廊下に出るとそこは冷蔵庫の中みたいだった。

 指先まで一瞬で凍りつくような寒さに襲われ、冬夜はポケットに両手を突っ込んだまま階段を上っていった。

 ほとんどの生徒が下校してしまったか部活へと向かっているのだろう、校内はシンと静まり返っていた。

 話し声らしいものも聞こえなければ、自分以外の足音も何一つ聞こえない。

 普段の生活の中では味わったことのない、まさしく静寂という言葉に相応しい空気が流れている。

 もっとも、流れる空気は容赦なく身を裂く冷たさを持っていて、階段の途中で立ち止まるだけで鳥肌が立ちそうになる。

 育った環境はこの土地だが、だからといって寒さに強いわけではない。

 冬夜は階段を上る足を小走りにして、三階の教室へと急いだ。


 静まり返った階段と廊下に、自分の足音だけがどこまでもこだまする。

 教室の扉を開けてみると、やはりそこには誰の姿もなかった。

 無造作に、ただ机と椅子が整頓とは言えない曖昧な配置で並んでいるだけで、教壇の上にはチョークの粉がうっすらと積もり、それが窓越

 にわずかばかり差し込んでくる淡い夕陽に照らされて埃の様に宙を漂っている。

 冬夜は自分の席、窓際の最後尾の机に向かう。

 机の脇にかけられた鞄を手にし、早々に教室から立ち去ろうとして、そこで一瞬後ろ髪引かれるような感覚に囚われた。

 踵を返して、数歩窓に近づく。

 そこから眺める外の景色の中に、やはりあの似つかわしくない黒い影はどこにもない。

 朝見たあの映像は、一体なんだったのだろうか。

 見過ごしや気のせいという一言で片付けてしまうには、それはあまりに強すぎる映像だった。

 映像というよりは、何かこう日常の景色の中に一枚の絵画を無理矢理差し込んでしまったような……。

「……考えたところで、全然分かんねーんだけどな……」

 溜め息が一つ、白く濁って溶けて消える。

 とりあえず、今日はもう帰ろう。

 こうしている間にも、雪は確実に降り積もっていく。

 朝は雪など降っていなかったので、当然ながら傘なども持ち合わせてはいない。

 この病みかけの体で雪の中を歩くのは楽ではないだろうが、急げば十分で帰れる道のりだ。

 急ぐあまりに足を取られて大事故、なんてこともありえないとは言い切れないが、このまま寒さに震えているのも時間の無駄だ。


 冬夜は鞄を脇に抱え、無尽の教室の扉を静かに閉めた。

 階段を下り、昇降口へと急ぐ。

 靴を履き替えて外に出ると、寒さはいっそう強さを増した。

 朝方も確かに冷え込みはしたが、ここまでひどいものじゃなかった。

 こんなことなら防寒具の一つくらい着用してくればよかったと、内心で小さく舌打ちして


「おせーよ」

 途端に、どこかからそんな声が聞こえてきた。

「ホント、いつまで寝てるんだか」

 続いて二つ目。

 どちらも確実に聞き覚えがある声だったが、それだけに逆に不思議だった。

 下校時刻はとっくに過ぎ、そこにいる二人は本来ならとっくに帰宅しているはずにもかかわらず……。

「対馬、それに、佐野まで……」

 二人は舞い降る雪の中、それぞれが傘を差していた。

 その服装は、どう見ても学校指定の制服ではなく彼らの普段着の私服だった。

 対馬は黒い傘、佐野は紺色の傘を差し、対馬の片手にはもう一本の閉じた傘が握られていた。


「お前ら、何やって……」

 言いかけて、冬夜は数歩歩み寄る。

「こんな雪の中で、病人がまともに歩けるわけねーだろ」

「翌朝雪の中から遺体で発見とか、嫌な報道聞きたくないからね」

 二人は口々に言いたいことを言う。

 表情は呆れたようなものだが、そこに不快や怒りは感じない。

 つまるところ、二人は冬夜を迎えに来たのだ。

「…………」


 二人の言葉に冬夜は二の句を失う。

 少なくとも、本心ではなかったかもしれないが、昼休みに二人を怒鳴りつけたことは確かに覚えている。

 嫌な感じを与えてしまっただろうとは思っていた。

 それでもこうして、わざわざ身を案じてくれたことは素直に嬉しかった。

 嬉しかったけど、それを素直に表現できない自分はどこかもどかしかった。

 だけど、それが冬夜にとって常だった。

 今までも、そしてこれからもきっと、その気持ちは簡単には切り替えることができないだろう。

 そうだとしても……。


「ほら、早く行こうぜ。こっちまで風邪引いちまうじゃん」

「そうそう。ぼさっと突っ立ってないで歩いた歩いた」

 彼らはこう言ってくれるのだ。

 だから今はまだ、言葉にはできないけれど。

「……ああ」

 素直にその言葉に従っておこうじゃないか。

 対馬から差し出された傘を受け取る。

「サンキュ」


 今はまだ、これでいい。

 そして新雪の上に、三人分の足跡が新しくつけられた。


 2


 自宅へと続く石段はある種の壁のようだった。

 降り続いた雪は当然ながら石段も真っ白に染め上げており、うっかり足を滑らせてしまえば冗談ではなく命すら落としかねない。

 それでも無事に石段を登りきることができたのは、対馬と佐野が一緒にわざわざ付き添ってくれたおかげだろう。

 お茶と茶菓子くらいは出そうかと声をかけたが

「病人は薬飲んで黙って寝てろ」

「うつされたらシャレになんない。私、今のところ皆勤賞だから」

 と、素晴らしい返事を頂戴した。

 まぁ、言われて見れば確かにそのとおりだ。

 風邪引きと同じ空間にいてはうつしてしまう可能性もあるし、何より上がってもらったところで冬夜本人はまともに動けない。

 それに二人とも、それぞれこのあと野暮用があるらしいので、今日はその場で別れることとなった。


 石段の上から、徐々に遠ざかって小さくなっていく二人の背中をある程度見送って、冬夜は自宅へと戻った。

 ところが、玄関の鍵が開かない。

「あれ?」

 どうやら巽は珍しく外出しているようだった。

 最近では歳の都合もあって、出稽古なども滅多にしないようになっていたのだが。

 大方買い物か、自治会の集まりか何かなのだろうと思い、冬夜は鞄のうちポケットから合鍵を取り出して扉を開ける。

「ただいま……」

 一応声もかけてみるが、案の定家の中からは誰の反応も返ってこない。

 やはり巽は出かけているようだ。

 いつまでも玄関先で立ちっぱなしでいるわけにもいかないので、服についた雪を払って冬夜は家の中に上がった。


 ひとまずは二階の自室に戻り、雪解けで少し濡れてしまった制服をハンガーにかけておく。

この程度なら一晩こうしておけば乾くだろう。

 そのまま手早く着替えを済ませると、一度一階へと足を運ぶ。

 保健室ではしばらく休ませてもらったが、あいにく薬までは用意されなかった。

 なので、まずは風邪薬を飲んでおくことにした。

 居間の隅にある戸棚の奥から薬箱を取り出し、蓋を開ける。

 だが、頭痛薬や鎮静剤、トローチの類は見つかったが、肝心の風邪薬がどこにも見当たらない。

 どうやらたまたま切らしてしまっている状況のようだ。

 もしかしたら他の場所に買い置きの予備のものなどがあるのかもしれないが、冬夜はその辺の勝手には詳しくない。

 そもそも風邪を引いたこと自体、もう何年振りのことだろうか。

 巽がいれば聞くこともできたが、あいにくと今は外出中だ。

 下手に家捜しをして散らかしてしまうよりは、一足伸ばして駅前のドラッグストアまで買いに行く方が早いかもしれない。

 自宅からなら、雪道を歩いたとしても十分もかからないはずだ。

 ひょっとしたら本当に買い置きの分まで切らしているのかもしれないし、補充する意味合いも兼ねてちょうどいいだろう。

 風邪引きではあるが、別に歩くのが辛いほど深刻な状況でもないし。


「よし、行くか」

 そうと決めて、冬夜はもう一度二階の自室に足を運ぶ。

 クローゼットの中からコートを取り出して着用する。

 時刻はもう夕方の五時に近いので、これからますます気温は冷え込んでくるだろう。

 佐野の言うとおり、ただ風邪だからといって甘く見てれば手痛いしっぺ返しを食らうことになるかもしれない。

 厚着程度でもささやかな抵抗にくらいはなるだろう。

 財布に携帯、家の鍵を持って冬夜は家を出る。

 施錠を確認し、境内を通り抜けてついさっき上ってきた階段を慎重に下っていく。

 もともと階段では上りより下りの方が体力を消耗するというが、正直普段はそうは感じない。

 どう考えたって下りの方が楽に決まっている。

 だが、こんな無駄に長いだけの階段を上り下りする生活を何年も続ければ見解も変わる。

 ましてや今は足元がややおぼつかないという体調だ、その言葉にも素直に納得せざるを得ない。

 雪にまみれているとはいえ、階段を左右で二分するように手すりが設けられているのはせめてもの救いだった。


 たっぷり二分ほどの時間をかけて、ようやく冬夜は階段を下り終える。

 改めて下から見上げてみると、一体何が悲しくてこんなに長い石段を作るのだろうかと疑問になる。

 まぁ、それはこの天瀬神社に限ったことではないのだけど。

 とりあえずは転がり落ちなかっただけよしとしておこう。

 冬夜は雪を踏みしめ、駅前へと続く歩道を歩き始めた。


 平日とはいえ、夕方だけあって人通りは多い。

 車道を挟んだ反対側の歩道には、駅から歩いてきたであろう他校の制服の学生も多く見受けられた。

 境の市は周囲を山に囲まれてはいるが、決して田舎というわけでもない。

 だからといって都会なわけでもないが、駅前から市の中心部にかけてはそれなりの賑わいを見せている。

 交通の便も一通りは揃っているし、以外にもデパートやスーパーなんかのチェーン店も多く展開されている。

 今から向かうドラッグストアも、ここ最近になって新しくオープンしたチェーン店の一つだ。

 駅周辺にはアーケード通りが展開されており、そこには色々な店が軒を連ねている。

 カラオケやゲーセン、書店からCDショップなど、若い世代の人口の多くはここに集中するのだ。


 五分ほど歩いたところで、通りを横断するために信号待ちをする。

 雪道ということもあって、普段に比べれば車の通りそのものは少ないように感じる。

 道路の雪もさすがにまだ除雪作業は始まっていないようで、タイヤの跡だけが白い雪を削ってアスファルトの灰色を見せている。

 間もなくして信号が青に変わる。

 動き出す人波に続いて冬夜も歩き出す。

 行き交う人々は皆白い息を吐き、寒そうに肩を竦めたり小刻みに震えたりしている。

 空もすっかり曇天の灰色一色に包まれ、その中から真っ白な雪がちらちらと降り続けている。

 明日の朝まで降り続くようなら、積雪も思った以上のものになるかもしれない。

 そうなるとまた一段とあの長い石段が辛くなるなと、冬夜は内心で深く溜め息をつく。


 道路を渡り、駅前の通りを東に進む。

 道はすぐに開け、そこにアーケード街の入り口が現れた。

 ドラッグストアはアーケード入り口のすぐ手前にある。

 相変わらず広告や宣伝のチラシが山のように張り巡らされ、商品の多くは棚の上からはみ出て地面の上に置かれたりもしていた。

 それらをかいくぐるようにして店内に足を進め、レジ隣の薬関係が置かれている棚に向かう。

 風邪薬といっても思った以上に種類は多く、はっきり言ってどれにどういう差があるのか分からなかった。

 結果として風邪が治ればなんでもいいわけなのだが、判断の基準なんてものは一体どこにあるのだろうか。

 とりあえず適当に注意書きを読みながら、錠剤の風邪薬を一つ手にした。

 冬夜の場合、個人的に粉薬は飲みにくいので苦手だ。


 レジで会計を済ませ、店を出る。

 アーケードの全長は縦長に三百メートルほど続いているが、雪から逃れるための人も多いせいか、やたらと混み合っている。

 風邪も引いているし、人ごみは避けた方がいいだろう。

 書店でちょっと雑誌でも立ち読みしようかと思っていたのだが、それはまたの機会にしておくとしよう。

 冬夜は来た道を引き返し、家路へと急ぐ。

 そろそろ巽も帰宅している頃だろうか。

 家に帰ったら大人しく部屋で休むことにしよう。

 駅前を通り過ぎ、再び信号待ちに引っかかる。

 やがて赤から青に変わるランプ。

 動く人波。

 地面に描かれた黒と白の帯も、今は足跡という穴だらけの白一色。

 目の前を舞う雪も白く、吐く息も白く、並木までもが雪の白に覆われる。


 だからこそ、それはあまりにも異質だった。

 道路を渡り終え、歩道を曲がりかけた、その時。

「……!!」

 確かにその黒い影は、冬夜の視界に捉えられた。

 そしてたった一回の瞬きの後には、最初から何もなかったかのように、そこには白一色の世界が広がっていた。

 それでも、今のは絶対に見間違いではない。

 呼吸が止まり、心臓までもが停止しかける。

 それは確かに、あの夢であったかのような昨夜と、今朝の教室から見下ろしたものと同じものだった。

 三日月形に歪んで不気味に哂った口元。

 あのおぞましいほどの光景は、とてもこの半日程度で記憶から消し去れるような代物ではない。


 気が付いたとき、冬夜の足は自宅とはまるで違う方向に向けて歩き出していた。

 その道は、街の外れへと続く道。

 一夜前の美しい悪夢が、形を成してしまう場所。

 それは誘い込まれたのか、自ら道に迷ったのか。

 どちらでもいい。

 どの道、その目で全てを見届ける以外に、自分を納得させる方法など持ち合わせてはいないのだから。


 街外れへと続くその道に、人影はない。

 あるのは、踏み込んではならない異世界に踏み込んだ、愚かしくも果敢なるたった一つの足跡のみ。


 3


 そこはすでに迷宮と呼ぶに相応しかった。

 歩き慣れていないとはいえ、そこは紛れもなく昨日も歩いたはずの道だというのに。

 目に映る景色には確かに見覚えがあるのに、どれだけ歩いても景色が切り替わらない。

 同じところをいつまでもぐるぐると歩かされているようだ。

「どうなってんだ、これ……」

 白い息を吐き出しながら、冬夜は呟いた。

 表情にも肉体にも、かなりの疲労の色が見て取れる。

 無理もない話だ、かれこれもう二時間近くもこうして雪の中を歩き続けているというのだから。


 街外れの倉庫区画。

 整然と並べられたコンクリート造りの建造物が立ち並ぶ、およそ見るものなど見当たらない場所。

 本来なら工場として稼動する予定だったこの場所に、今は機械の作動音すら聞こえない。

 当然ながら、働いている人間など一人もいるわけがなかった。

 何年もの間締め切られたままのシャッター。

 黒字で書かれた一から十二までの数字も、ところどころ色が落ちている。

 同じ境の市の中でも、ここほど無人の場所は他にないだろう。

 ここは言わば外界から隔離されている空間であり、もはや市の人々の記憶からも消えかけているような、そんな場所だ。

 そんな場所に、冬夜は二日連続で足を踏み入れていた。


 そして今になって、確かに後悔にも似た感情を持たざるをなくなっていた。

「……いた!」

 目測で三十メートルほど先の曲がり角に、あの黒い影を見つける。

 が、その影のようなものはすぐに曲がり角の奥へ消えてしまう。

 雪道に足を取られそうになりながらも、冬夜はその後を追う。

 数秒のタイムラグを持ちつつも、影のようなものが消えた先の角を曲がる。

 しかし、そこにはすでにあの影の存在はない。

 それどころか、曲がったその先は袋小路の行き止まりになっている。

 冬夜が今立っている道の上以外は、前と左右を倉庫の壁によって囲まれていた。

 あの影の存在は、まるで煙のようにそこから姿を消していた。

「また……」

 こんなことがもう何度も繰り返されていた。

 本来なら逃げ場のない袋小路に追い詰めた時点で逃げ場となる場所はないはずなのに。


 冬夜は壁に背中を預け、荒い呼吸を何度か繰り返す。

 分かりきっていたことだったが、体調は先ほどまでに比べて著しく悪化している。

 体中の体温が上昇していることは手に取るように分かるし、息苦しさや頭痛も勢いを増している。

 指先は体温を失ってしまったくらいに冷たくかじかみ、厚着した服装の上からでも寒気を覚える。

 壁に預けた背中がずるずると重力に引きずられ、体が地面に向けて吸い込まれていく。

 両膝もかくんと折れ曲がり、背中にある壁がなければそのまま仰向けに大の字に倒れていることだろう。


 事態はとっくにわけの分からない展開になっていた。

 それを言うなら昨夜の命がけの鬼ごっこもそうだが、あれには終わりがあっただけまだマシのように思える。

 もっとも、助かったのは本当にただの偶然か、運がよかったからなのかもしれないが。

 それに引き換え現状は、なんといってもまず終わりが見えてこない。

 冬夜が一方的にあの影の存在を追いかけているだけなので、追跡を諦めればそれが終わりの合図になるのかもしれない。

 だが、もう少しで追い詰められそうな状況でみすみす引き返すのはどうしてもできなかった。


 今朝のあの映像が、頭に焼き付いて離れない。

 あの、歪むような不気味な笑み。

 あれはまるで、冬夜を誘い込んでいるようだった。

 知りたければついてこい。

 そう言われているような気がしたのだ。

 知りたいこと。

 すぐに思い当たるのは、やはり冬夜自身が生まれ持ってしまったその力のことだった。


 視えないものが視える力。

 言葉にすればたったそれだけのもの。

 だが、授かった意味さえも分からないもの。

 少なくとも、冬夜は望んでいない。

 そんな力、捨て去ってしまいたいとさえ思う。

 巽も、この話題にだけは触れないようにしていた。

 何かあれば二言目には気にする必要はない、忘れろの繰り返し。

 だが、必ず念を押して確認する。

 そうして視たものに、敵意はあったのか、と。

 もしあったとすれば、それはどういうことなのだろう?

 身に危険が及ぶということだろうか?

 確かに視えたものが、一般的見解で言う幽霊や祟りなどの類だとすれば、そういう可能性もあるのかもしれない。

 非現実的な話ではあるが、世界中でも実例は腐るほどあるのだから。

 だけど巽のあの目は、そういう範囲の物差しで計ったようなものではない気がする。

 もっとこう、比べ物にならないような大きな存在が見え隠れしているような……。


「……ゲホッ!」

 壁に手をつきながら立ち上がって、冬夜は咳き込んだ。

 冗談ではなく、真剣に体調が悪化してきている。

 さすがに冬夜も、何の根拠もない直感だけでこれ以上体に負担をかけるのは愚行だと理解する。

 まだ胸の奥に引っかかりはあるが、今回は仕方がない。

 まずはこの体をどうにかしなくては、元も子もない。

 そうして来た道を引き返し、駅前へと続く通りへ向かおうとして

「…………?」


 確かな違和感を覚えた。

 その目から覗く殺風景な景色の中に、何か決定的に足りないものがある。

 ゆっくりと周囲に目を向ける。

 コンクリートの壁。

 聳え立つ倉庫。

 ちらちらと降り続く雪。

 雪に覆われた真っ白な道。

 それだけの景色の中に、一体どんな違和感を覚え……。

「…………ない」

 消えるような声で呟いた。

 目の前の広がるその景色から、もう目が離せない。

 足が動く。

 新雪の道の上に歩を進める。

 そこに、必ずあるはずのものが――どこにもない。


「足跡が、消えてる……?」


 地面は白一色の雪に覆われていた。

 それこそ、どこにも誰の足跡一つも残さずに。

 そんなはずはない。

 この道は、たった今三十メートル向こうから走ってきた道のはずだ。

 それからわずかな間があったとはいえ、この程度の勢いの雪で足跡全てを覆い隠すほどの新雪を積もらせることなんてできるはずがない。

 そして冬夜は、空気の塊をごくりと呑み込んだ。

 ゆっくりと、足元に視線を移す。

 分かっている。

 見てはいけない。

 それは、自分の目に宿るその力の影響で視えるものではなく、ごく普通にその目で認識できる事実だけれど。

 それだけに、あまりに性質が悪い。

 雪の上を踏みしめるその片足を上げる。

 靴底で踏み固められた雪が、薄い塊になって落下した。

 その、下に。


「……!!」

 足跡という、なくてなはらないものはどこにもなかった。

 すでにこの場所は、日常ではなくなっていた。

 そしてそれに答えるかのように、真っ白な雪の積もった地面の上、ちょうど三十メートルほど離れた、その場所で。


「――ようこそ。こちら側へ…………」


 ゆらりと揺れた世界の中で、真っ黒な影が一つ。

 ぽつんと佇んで、そう言った。

 口元に、あの三日月形に歪んだ不気味な笑みを浮かべて……。


拝読ありがとうございます。

作者のやくもです、こんにちは。

慣れないことはするもんじゃないというのも正しいことだと、とても痛感しています。

本作はホラーという分類になってはいますが、最終的に見返すとホラー+ミステリー+歴史という感じに収まる予定になっています。

一番強い部分がホラーになるかなと思い、ジャンルはホラーになっているのですが……序盤のここまでではあまり怖いという幹事は受けないと思います。

これから少しずつ怖くしていければいいなーと思っておりますので、できればこの冬の季節、読者の方々を夜中に一人でトイレに行けないようにするのが密かな目的だったりします。

それでは今回はこの辺で。

今後ともよろしくお願いいたします。


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