第二十九幕:兄と、弟と……
1
瞬きすら許されない瞬間は、しかし死に値する苦痛を与えてはくれなかった。
振り上げられた短剣は今、神楽の持つ刃によってギリギリと音を上げながら食い止められていた。
「……」
冬夜は半身を引きずりながら、しばしその光景に目を奪われていた。
しかし次の瞬間、我に返ると同時に再び目の前の闇に向かって切りかかっていく。
「……くそっ!」
しかし、その一撃も全く手応えを掴むことはなかった。
手にした短剣からするりと力を抜くと、その闇はゆらりと揺れながらわずかに身を離した。
その姿を、神楽が追う。
「この……っ!」
踏み込みと同時に刃を構え直し、跳躍と同時に脳天を真っ二つに叩き割る勢いで切りかかった。
だが。
ガィンと、その刃も虚しく空を裂き、衝撃は地面の石畳に全て吸収された。
神楽は振り向き様に、素早く次なる攻撃の手を加える。
横薙ぎから切り上げ、旋廻してもう一度横薙ぎ。
流れるような動きの連携さえも、しかし一撃たりともその闇に命中することはなかった。
いや、恐らく当たる当たらないの範囲で言えば確実に当たっているはずなのだ。
ただそこには何一つとしての手応えもなく、まるでその場にある空気を切り裂いたのと同じ感触しか伝わってこないのだ。
ゆらゆらと波間のようにたゆたう黒の外套には、それこそ傷一つ付いてはいない。
黒いフードの中から覗く色のない双眸だけが、食い入るようにこちらを見ている。
その口元に、三日月のように歪んだ薄い哂いだけを浮かべたまま。
「どうして……何で当たらない……!」
口の端を吊り上げ、いかにも不機嫌な口調で神楽は言う。
斬撃の軌跡を目で追えば、それは間違いなくこの闇を捉えているはずだ。
なのにどうして、ダメージの一つさえも与えることができない?
まさか、紙一重で全てが避けられているとでも言うのだろうか?
いや、それこそありえない。
間合いも死角も完全に突いたはずだ。
致命傷を避けることはできても、完全回避などできるわけがないのに……。
うなる神楽を横目に、しかし闇は哂っていた。
「無様だな、人間」
何の感情もない、にもかかわらず嘲るような声で闇は言う。
「何度やっても無理さ。お前達は僕を傷つけるどころか、触れることさえできやしないよ。いい加減、気付いたらどうなんだい? 自分達のその無力さ加減にさ」
その声は深く遠く、すぐ側で動く唇は底なしの沼のように歪んで揺れていた。
「……っ!」
歯噛みし、しかし次の攻撃へと移ることはなかった。
どういう因果関係なのかは知らないが、ただ無力さだけがひしひしと伝わってくるのが分かる。
分かることはたった一つ。
自分達では、この目の前にいる存在を倒すことも殺すこともできはしない。
無力さと、同時に未知への恐怖心が冷や汗と何って神楽の背中を伝い落ちた。
意味はないと知りながらも、神楽は剣を構える。
それを一瞥するかのようにして、その闇はまたゆらりと揺れ、手にした黒の短剣を掲げるように天にかざした。
ふいに、その闇が溶けた。
まるで最初からその場所にはいなかったかのように、一瞬にして神楽の視界から消え失せていた。
もはやその速さは、移動という一つの行動の領域をはるかに凌駕したものだった。
神楽の操る縮地でさえ、これほどの速さを生み出すことは不可能だ。
それほどまでに、目の前の闇はまさに忽然とその姿を消していた。
それはまさしく、消失。
気配も余韻も何一つ感じさせない。
まるで、別の次元へと消え去ってしまったかのよう。
「どこに……」
神楽は慌てて周囲の気配を探る。
どれだけうまく気配を絶ったところで、必ず存在感というものはどこかしらにあるものだ。
だが。
それすらも、どこにも感じることはできない。
それでも、分かる。
本能がこう告げている。
ただ一言……逃げろ、と。
そしてその警告もむなしく、聞こえたのは誰の言葉だったか。
「――さようなら」
冷たさだけで構成された闇の囁き。
振り返るよりも逃げ出すよりも早く、黒の短剣を握った闇は神楽の背後でそう言った。
黒の短剣が振り下ろされる。
歪な刃先と歪な柄。
存在そのものが歪んだその短剣は、傷つけるもの全てを闇へと誘う魔性の刃。
そこに始まりはなく、ゆえに終わりもありはしない。
未来永劫、孤独という暗黒の中で彷徨い続ける他、残された命運はないと知る。
黒の刃は、音もなく空気を切り裂き、その切っ先が神楽の背中へと真っ直ぐに突き立てられ……。
刹那、その闇は何かに気が付いて突然にその身を翻した。
直後、神楽とその闇の合間を縫うように、一陣の風のごとき一撃が空を切った。
ガギンと音を立て、その漆黒の大鎌の三日月を描いた切っ先は石畳を叩いた。
「チッ……」
舌打ちと同時に、カルマはすぐに目標をその視界の中に捉え直す。
わずかに離れた距離の向こうに、変わらずに闇は佇んでいた。
ただ、その表情を少しだけ何かの疑問に曇らせて。
「カ、ルマ……?」
絞り出した声は、ずいぶんと枯れ果てていた。
「下がってろ、神楽。お前もだ、亜城冬夜」
言うなり、カルマはさらに数歩ほど歩み出る。
その手に、身の丈よりも巨大な黒の大鎌を携えて。
「コイツの相手は俺がする。それと、亜城冬夜。お前の兄が話があるそうだ。聞いてやれ」
言われて、冬夜は今更思い出したようにその方向を振り返った。
見ると、雪那は今も地面の上に体を横たえているままだった。
「話って、どういう……」
「詮索している暇があると思うのか? 処置はしたが、あの傷では長くは持たん。意味は分かるな?」
「…………」
答えず、冬夜は急いで雪那の下へと駆け寄った。
それを見送って、カルマは再び向き直る。
目の前にいる、敵に向けて。
2
死というものは、これほどまでに現実的なものだっただろうか。
「……兄……」
目の前で横たわる雪那の姿は、まさしく糸の切れた人形のようだった。
死んでいないというだけで、生きているわけではなかった。
呼吸をすることは、イコール生きていることではない。
雪那は生きながら死んでいた。
すでに光を失いつつある目と、体温を失いつつある体がそれを鮮明に物語る。
「……来た、か……」
うわごとのようにそれだけ呟いて、雪那は薄く開けたままの目を冬夜に向けた。
「……話したいことって、何だ?」
隠し切れずに震える言葉で冬夜は聞く。
カルマの処置のおかげだろうか、出血はほとんど止まっていたが、それでも流れ出した血の量があまりにも多すぎる。
足元に広がる赤い水溜りが、何よりの証拠だった。
「……時間が、ない。よく聞け。いいか……アイツを殺せ」
「アイツ? あの黒ずくめのやつのことか?」
「そう、だ。アイツは、存在してはならない存在だ。この千年の間、アイツは自身で一つの物語を描いてきた。その軌跡が終わるのが、この冬の終わりだ。もしもこの冬もアイツを食い止めることができなければ、この街は……喰われる」
「な……」
それは一体、どういうことなのだろうか。
千年もの間繰り返された物語?
今食い止めなければ、この街が喰われる?
「お、おい。どういうことだ? 何がどうなるっていうんだよ!」
「……あの死神にも聞け。アイツなら、大体のことは理解できているはずだ……」
そう告げると、雪那はゆっくりとその目を閉じた。
「……俺は」
目を閉じたまま、続ける。
「アイツの話に乗った。アイツがこの街を侵食した後には、そこに俺がある世界を用意することを条件にな」
「…………」
「アイツの目的の真意は分からん。だが、今ここでアイツの行いを許せば、確実にこの世界の全てが呑み込まれる。跡形もなく、アイツの創造する歪んだ新世界に変わり果てる。それは、俺が望んだ世界じゃない……」
「……兄貴」
「……気安く呼ぶな。虫唾が走る」
「…………」
「……おい、お前の剣をよこせ。それと、俺の剣を持ってこい」
「え、あ、ああ……」
言われて、冬夜は地面の上を転がったままの件を拾い上げ、それに加えて自ら握っていた二本の剣を手渡した。
「……クソが。こんな形で使うことになるなんてな。悪運にしても、もうちょっと長続きしてほしいもんだ……」
自嘲するかのような言葉。
しかし、今はそこにも痛々しさしか残らない。
氷のように冷たくなったその手で、雪那は二本の剣を重ね合わせるようにピタリと合わせた。
すると、二本の剣のそれぞれの白銀の刃は、それぞれが溶け合うように絡み合い、混ざり合っていく。
刃の部分だけではなく、鍔元や柄の全体に至るまでが、まるで吸い寄せられるかのように一つになっていく。
蛍火のように儚い光。
なのに、二人を包むようなその光は不思議と暖かかった。
淡いその光が音もなく消える頃、雪那の手の中にはすでに二本の剣の姿はなく、代わりに見た目がそのままの同じ剣が一本だけ握られていた。
「これは……」
冬夜が呟く。
二本の剣が、一本になってしまった。
しかしそこに違和感などは微塵も感じさせない。
まるで、最初からこの二本は対になる一本の剣から生まれたものであるかのように。
「……お前、過去にアイツからこの剣を受け取っていただろう?」
「あ、ああ。確かに……」
思い出す。
初めてあの闇に遭遇した夜を。
あのときあの闇は、最後に一本の剣を残していった。
確か、楔だとか何とか言って……。
「楔って言うのは、そのまんまの意味だ。お前の持っていた剣と俺の持っていた剣。二つの剣は元は一つで、楔とするがために二つに分けられた。どうしてか分かるか?」
「……いや」
「――俺とお前を、殺し合わせるためだ」
「な……」
「正確に言うともう少し意味合いが違う。二本の剣は元は一本であるがゆえに、互いに引き合う。その引き合う存在が俺とお前……つまり、剣と同じように元は一人だったものが二人に分かれたものだった。そんな二人が巡り会いでもすれば、殺し合いにもなる。お前にその気がなくても、俺はお前を殺すつもりだったからな。そうなれば、身を守るという大義名分の上であろうとも戦うことになっただろう」
「……じゃあ、俺とお前が戦ったことも、アイツの思惑通りだったっていうことなのか?」
「……そういうことだ。もっとも、俺はそうと知っていてアイツに力を貸していたわけだがな」
「何でだ? 何で、そんなことに……」
「……そんなこと、だと?」
閉じていた目を開き、雪那は噛み付くように言った。
「ふざけるな! 俺とお前を一緒にするなと、何度言わせれば気が済む! 俺はただ、自分の存在が欲しかった。ただそれだけだ。そのためだったら、何だってできたんだよ! お前を殺すことだってな!」
「…………」
その言葉に言い返す言葉を、冬夜は持ち合わせていない。
全ては十五年も前のとある日の夜に起きた、偶然が招いた二分の一の悲劇。
不幸という、そのこと一言で片付けるのは簡単だ。
けれど、そんなことはできない。
もしも。
冬夜と雪那がそっくりそのまま代わっていたとしたら。
今起こっているこの出来事は、そのまま反転したかのように起こっていたのかもしれない。
だから、冬夜はその言葉を口にできない。
言ってしまえば、それだけで何もかもが終わってしまう。
足掻くように存在を求めた雪那の意思も、最後の最後まで自分達の名を呼んでくれた母親の言葉も。
全部全部、無意味になってしまうから。
「……おい」
「……ん?」
雪那の呼びかけに、冬夜は答える。
「持っていけ」
そう言って差し出されたのは、一つに戻った剣。
「……俺が?」
「バカが。他に誰がいる。どの道俺じゃ、もう戦えるだけの力は……残ってない」
そう告げると、雪那の体は途端に薄れ始めた。
それは本当に、まるで目の前にあった霧が晴れていくかのように。
「……兄……」
言いかけて、冬夜は言葉を呑み込んだ。
言ったところで、もう止めることはできない。
カルマも言っていたじゃないか。
もう時間はないんだと。
手の中で握る一本の剣も、それを後押しするかのように物語っていた。
それは、元は二つのものが一つに戻ったもの。
だから、それは……。
――二つの存在も、比例して一つに戻るということ……。
「クソ……」
ぼやくように雪那は言った。
「こんなことなら、さっさとお前を殺しておくべきだったな……」
「……兄、き……」
背景が透過していく。
希薄すぎる雪那の姿が、徐々に溶けるように消えていく。
こんな終わり方を、誰が望んだのだろうか?
いや、きっと誰も望んではいないだろう。
ただ、望む望まないに関わらず、きっとこうなってしまったような、そんな気がした。
「――さっさと行け。しくじったら、承知せんぞ……いいな、冬夜……」
「……ああ、分かった」
そしてそれが、兄弟として交わしたもっともそれらしい最初で最後の会話だった。
霧が晴れるように、次の瞬間には冬夜の目の前には誰の人影さえも残されてはいなかった。
ただ、そこに居た確かな存在が託してくれた一本の剣だけは、強く強く、その手に握り締めて。
最後の最後。
ゼロになる、その瞬間。
見えたあれは、気のせいだったのだろうか。
――その一瞬だけ、雪那がわずかに笑ってくれていたような、そんな気がして……。
……いや。
それはきっと……絶対に。
――幻なんかじゃ、なかった。
望まぬ再会と、永久の別離を終えた夜。
それでも今夜は、まだ終わらない。