第二十三幕:あの日見た、雪の白さ(2)
1
ギィと音を立て、扉は開かれた。
薄暗い通路から開放され、神楽とカルマは再び屋外へと足を踏み出す。
とはいえ、外の天気も相変わらずの曇天。
薄暗さで言うのなら、今まで歩いてきた通路と大した差はない。
空気がどこか湿っている気がする。
雨脚が近づいている前兆なのかもしれない。
「こっちだ」
立ち止まっていた神楽に振り返り、カルマは先を促す。
「あ、うん……」
言われて歩き出す神楽だが、表情はわずかに混乱の色が見えていた。
歩く道の上、左右を見回しながら一人呟く。
「ここ、墓地……だよね?」
灰色の空の下の灰色の墓標。
墓前に添えられた花はみな色褪せて、どこか悲しみ見満ち溢れたメロディを奏でていた。
二人分の足音だけが虚しく響き渡る。
教会裏の墓地の敷地面積はかなり広く、駐車場に置き換えれば普通乗用車が三百台以上は停められる。
その、集団墓地を奥へ奥へと進む。
歩く道すがら、神楽とカルマの間に会話らしいものは何もない。
神楽としては声をかけたいのだが、前を歩くカルマの背中が何か拒絶にも似たそんな空気をまとっているように見え、言葉が出ない。
ちょっと目を離すと、その背中ははるか彼方に消えてしまいそうなほどに遠く。
しかし走り出せば、その背中はぶつかりそうなほどに近く目の前にある。
それはまるで、夏の陽炎のよう。
目を奪われるほど奇麗なのに、目を奪われたら儚く消えてしまう。
こんな虚ろなカルマの姿を見るのは初めてだった。
歩き始めて五分ほど経つが、カルマの足取りは一向に止まろうとしない。
辺りを見回してもそこには人影の一つもなく、今はもういない人々の墓標だけが佇んでいる。
歩く道も、いつしか細い林道になっていた。
もうほとんど葉の散り終えた木々のトンネルが頭上に広がっている。
時折吹く木枯らしが、すでに散り終えた地面の上の木の葉をかさかさと動かした。
「……ねぇ、カルマ」
「……」
呼ぶが、カルマは答えない。
聞こえていないわけではないと思うが、彼の足は止まらない。
「その、どこまで行くの? もう結構歩いてるよね?」
「……」
返事はない。
それはただ、黙ってついて来いという意思表示なのだろうか。
考えたところで始まらない。
そもそもこうやってカルマについてきた時点で、案内役はカルマなのだから。
神楽にできることは、ただあとについて歩くことだけだ。
神楽もそれを分かっている。
分かってはいるのだが、どうにもさっきから空気がおかしい。
それは直感のようなものだったが、この林道に踏み入ってから空気の質が変わったような気がするのだ。
いや、変わったのは空気だけではない。
大げさに言ってしまえば、世界そのものが変わっていると言ってもいい。
それが行き過ぎた表現だと分かってはいるが、他に表現のしようがないのだ。
景色も空も空気も、その全てに違和感を覚えてしまう。
今こうして歩いている自分自身さえも、ひどく虚ろに思えてくるくらいだ。
まるでこれは、迷いの森だ。
もっとも、人の目を惑わせる木々はとうに枯れ果て、森というよりは雑木林と言ったほうが正しい。
迷宮としての役割を果たすにはずいぶんと役不足である。
これではせいぜい、人払いをする程度の小規模な結界が関の山といったところだろうか。
「……もうすぐで着く」
その言葉に、神楽は意識と視線を目の前の背中に戻す。
もうすぐで着くというカルマの言葉とは裏腹に、どこまで見渡しても林には終わりが見えない。
この道を進む先に、一体何があるというのだろうか。
不安か、期待か、それともどちらでもないのか。
こんなときだというのに、どうしてか心が騒ぐ。
それはまるで、誕生日にもらったプレゼントを開ける前の子供の気持ち。
何が入っているんだろう?
それは、開けてからのお楽しみだよ。
リボンをほどく。
包装紙を繋ぐテープを剥がす。
一つ、また一つ。
少しずつ形が見えてくる。
無邪気な子供は、何も知らない。
今笑いながら封を解いていくその箱は、世界中の災いを閉じ込めたものだということを。
――パンドラの箱。
時代も場所も問わず、創世暦からの世界中のありとあらゆる災いだけを詰め込んだという箱。
そんな物騒なものを、子供は何も知らずに開けようとしている。
なぁに、心配はいらないさ。
箱の中にはたった一つ、希望というものが残されているのだから。
しかしそれは、もはや海に落とした涙を探せと言われているようなもの。
それは即ち、絶望ではないのだろうか?
だから、言っただろう?
――それは、開けてからのお楽しみだって……。
足音が止まった。
一瞬だけ遅れて、神楽もその場で足を止める。
「……」
立ち止まった目の前の背中はしかし、動かない。
「……?」
ふいにそのカルマの視線が、わずかに低い一点を見ていることに神楽は気づく。
カルマの背中を横から追い越して、その隣に並ぶ。
そこに。
「……お墓?」
そこだけに、花が咲いていた。
そこだけに、草が茂っていた。
そこだけに、光が集まっていた。
小さな円を囲むようにして生い茂る、新緑を思わせる草。
陽の光さえも届かない場所なのに、空を仰いで開く花。
その中心に佇む、真っ白な石碑。
それは墓標というにはあまりにも美しい白さを放っていた。
汚れというものを知らぬ、産まれたばかりの若木のよう。
その墓に、文字が刻まれている。
アルファベッドだ。
神楽はそれを目で追って、読む。
しかし、それよりも早く隣の死神はその名を告げた。
「――連れてきたぞ。鈴菜……」
その名前を。
神楽は誰よりも覚えている。
忘れたことなんて、一度としてなかった。
だってその名前は、この世で一番大切だった人の名前だから。
三年前のあの日、行き先も告げずに出かけてそのまま戻ることのなかった人。
震える唇が、その名を呼ぶ。
「――おかあ、さん……?」
墓標に刻まれた名は、レイナ=ヒイラギ。
神楽の母親の名だった。
2
「嘘……どう、して……」
「……」
震える声。
目の当たりにした光景は、あってはならないもの。
「どうしてお母さんのお墓が、ここにあるの……?」
掠れた声をようやく絞り出す。
迷宮の森を抜け、辿り着いたのは小さすぎる楽園。
そこにあったもの。
あるはずのないもの。
だって、こんなのはおかしい。
そうだろう?
あるはずがないんだ。
こんな、墓なんてものは……あってはならないんだ。
――だって、母さんの死体なんて見つかるはずがないんだから……。
「カルマ……どういうこと、これ?」
「……」
しかしカルマは答えない。
答えないのか、それとも答えたくないのか。
そのどちらも正しいようで、同時に間違っているようにも思える。
そんな曖昧な表情を、カルマはしていた。
「答えて!」
小さな怒りを含んだ声が響く。
ばさばさと、どこに隠れていたのかというくらいの小鳥達が、群れを成して灰色の空に消えていった。
「なんで……」
それは怒りか、それとも悲しみか。
「どうして何も言わないの? ねぇ、答えてよ、カルマ!」
言葉は尖り、敵意さえも感じるものへと変わる。
しかしそれでも、カルマは一向に口を開こうとはしない。
感情がいっそう、はっきりとした怒りに変わり始める。
神楽は自分でも気付かないうちに、目の端に涙を溜めていた。
それを振り落とすほどに強く、一度奥歯を噛み締める。
抑えきれない感情が、爆発しそうになる。
そしてついに、神楽の手が見上げるほどの身長差のあるカルマの頬を打とうとした、そのとき。
「――お待ちなさい。矛先を向ける相手が違いますよ、神楽さん」
場にそぐわない涼やかな男の声が、かろうじて神楽の理性を引き止めた。
「……あなたは」
「……時任来栖、か……」
どうして。
その名を、カルマが知っているのだろうか。
神楽はつい先ほど、この男……時任神父と他愛ない会話をしたばかりだ。
どういうことだろう。
もしかしたらカルマは、この教会を訪れたのは今日が初めてじゃないのだろうか。
いや、初めてのはずがない。
そうだとしたら、こんな場所のことを知っているわけがない。
つまりカルマは、過去にこの場所を訪れたことがあるのだ。
時任神父と面識があるのも、恐らくはそのときに。
つまり。
この二人は、神楽の知らない過去を互いに知っている。
そしてその過去というのは紛れもなく、この墓標に関することなのだ。
柊鈴菜。
神楽の母親は、今から三年前に謎の失踪を遂げてしまっていた。
そう。
あくまで、失踪だ。
もっとも、失踪当時の時点で神楽は鈴菜の死を感じ取っていた。
それは確かに根拠となるものは何もなかったが、後押しをしたのはこの境の土地に伝わる都市伝説の一節だった。
――冬になるたび、この土地で誰かが消える。
だがそれでも、もしかしたらという一縷の望みがなかったわけじゃない。
鈴菜は生きているんじゃないかと思ったことは少なくない。
しかしそうだとしたら、そもそも神楽はカルマという死神と出会うことはなかっただろう。
逆に言えばカルマという存在が、鈴菜の死を決定的なものにしたのだ。
とにかく。
この墓標はおかしい。
絶対にあってはならない、あるはずのない墓標なのだ。
なぜなら、鈴菜の死体は絶対に見つかるはずがないのだから。
都市伝説になぞらえて消えた人間の死体は絶対に見つからない。
これはもはや決定事項とも言える。
これまでにどれだけの数の人間が犠牲になったのかは、神楽には分からない。
しかしそんな行方不明者が戻るようなことがあれば、かならずニュースや事件に発展するはずだ。
神楽の記憶にある限り、少なくともこの数年でそんなことは一度もなかった。
恐らくこれも、都市伝説の見えざる力の一端なのだろう。
「……時任さん、あなたは一体……」
神楽は時任神父に向き直り、問う。
すると時任は、一度だけ心苦しそうに目を閉じ、一拍の後にその目を静かに開いた。
「少し、長くなります。一度教会の中に戻りましょう」
それだけ言って、身を翻して来た道を戻り始めた。
その背中に、カルマが無言で続く。
「……」
神楽は徐々に遠ざかる二人の背中を見て立ち尽くした。
あの二人は、間違いなく自分の知らないことを知っている。
納得のいくことはまだ何一つとしてない。
だったら、行くしかないじゃないか。
たとえそれが、茨の道だとしても。
やや遅れて、神楽はすでに小さくなった二人の背中を走って追いかけた。
「どうぞ。そちらにお掛けになってください」
案内されたのは、教会の中に備え付けられた時任神父の私室だった。
十畳ほどの広さのその部屋は、目立つものといえば今こうして神楽達が座っているソファとテーブル。
他にあるとすれば大きな本棚と小さな作業机くらいだろうか。
簡素なつくりの壁には、作者も題名も知らない外国の絵画が並ぶように飾られていた。
「どうぞ。お口に合うか分かりませんが」
そう言うと、時任は神楽とカルマの前に香りのよい紅茶を差し出した。
ハーブティーだろうか、香りが独特だ。
しかし今は、そんなものを呑気にすすっている場合ではない。
「すいませんが、お話を優先させてください」
神楽はそう切り出した。
その眼差しに後押しされてか、時任は二人に向き合う形でソファに腰を下ろした。
「……時任さん、単刀直入に窺います。時任さんは、私の母をご存知なんですか?」
話の起点にして核心を突く質問。
問われた時任は、一拍の間を置いて答える。
「……はい。知っています。ですが、何もかもを知っているわけではありません。せいぜい面識がある、という程度のものです。なぜなら、私も彼女には一度しか会ったことがないからです」
「それでも構いません。それで、それはいつの話ですか?」
「……今から三年ほど前になります。当時、その年最初の雪が降った日でした……」
思い返すように時任は目を閉じる。
その答えを受けて、神楽は確信する。
鈴菜が失踪したのも同じ三年前の冬。
時期が一致するということは、これはただの偶然ではないはずだ。
「……母とは、どこでどういった具合で会ったんですか?」
「出会ったのはこの場所、つまりはこの教会の聖堂です。当時もも私はこの教会で神父を務めていましたので、そのときは単純に赤の他人同士、神父と参列客という形でした」
参列客。
どうして鈴菜は、教会などにやってきたのだろうか。
たまたま散歩などで訪れる可能性もゼロではないが、それはどうにも考えにくい。
教会という場所は、ようするに懺悔をしたり主に教えを請いに来る場所だ。
それにあの日、失踪した当日の朝、鈴菜は言っていた。
『――うーん……仕事と言えばそうとも言えるけど、違うと言えば違うのかなぁ……』
今にして思えば、このときすでに鈴菜は自分の身の危険を感じ取っていたのかもしれない。
神楽の母、鈴菜はごく普通の会社員、ようするにOLだった。
だが、それとは別にもう一つの顔を持っていた。
それは、生まれ持っての強い霊感があってこそ成せる業で、それゆえに世間はその力を霊能力と呼ぶ。
三年前のあの日、まだ行方不明になる前。
鈴菜がこの場所を訪れていたとしたら。
あの朝、鈴菜は確かに仕事という言葉を口にしていた。
それはつまり、後者の仕事に関わることだったのではないだろうか。
例えば、そう。
――他人の霊を祓うこと、とか……。
神楽は自分の考えを時任神父に話す。
すると時任は、小さく溜め息を一つついて、首を縦に振ったのだ。
「その通りです。鈴菜さんはあの日、この場所に別の参列客の霊を祓うためにやってきました」
やはりそうだったのだ。
もとより鈴菜は、自分が授かったその霊能力を他人にひけらかすことなどしなかった。
知っていたのは恐らく神楽と、それ以前に何らかの形で霊能力を使う現場に居合わせた人達だけだろう。
鈴菜の性格上、困っている人は放っておけないはずだ。
自分がそういった力を授かって生まれたのは、ある種の使命的なものだと過去に言っていたことを神楽はよく覚えている。
「……それで、母さんはどうなったんですか? 除霊は無事に終わったんですか?」
その言葉に、場の空気が変わる。
時任ばかりか、神楽の隣で無言のまま座っているカルマまでもが、わずかに下を俯いた。
まさかという、悪い予感が神楽の中で膨れ上がる。
それはまるで風船のように、ゆっくりと空気が張り詰めていく。
「……まさ、か……」
沈黙は肯定。
しかし、空気の提供は止まらない。
許容量はとうに超え、限界という言葉が目の前に迫ってくる。
「そんな……嘘ですよね?」
返事はない。
二人は沈黙をもって、その問いに答えていた。
「……残念ですが」
時任が重い口を開く。
その先を、聞いてしまっていいのだろうか。
自由な両手を、耳に当ててしまえばいいのではないだろうか。
永遠のような一瞬が流れる。
膨らみ続ける風船が、悲鳴を上げる。
「――そのときの除霊で、鈴菜さんは誤って命を落としました」
行き場を失った空気が、限界を超える。
弾けた風船。
乾いた銃声によく似た音が、耳の中でいつまでも反響していた。
拝読ありがとうございます。
作者のやくもです、こんにちは。
眠気と戦いながらではありますが、なんとか執筆作業を続けています。
物語りも終盤に差し迫り、そろそろ終わりが見えてくる頃だと思います。
まだ明確な最後をお知らせすることはできませんが、のんびりとお付き合いいただければと思います。
ではまた、次回の後書きで。