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千年の冬  作者: やくも
21/34

第二十一幕:夢から覚めて

 1


 例えるならそれは、いつまでも包まれていたい暖かさ。

 春の日差しのように、優しく降り注ぐ。

 浅い眠りを幾度となく繰り返し、目覚めるたびにまどろみの中。

 真っ白な宇宙を泳ぐ。

 投げ出された体は、大海原を進む小船のよう。

 ずっと、このままでいたい。

 誰もがそう思える時間がある。

 家族、友達、恋人と過ごす時間。

 楽しい時間は無限であってほしいと願いながら、その願いこそが夢幻であることを誰もが知っている。

 だから、これも決して例外ではなく。

 もう、夢から覚めなくちゃいけない。

「…………」

 そっと、体を包んでいてくれたその優しい腕をほどく。

「……ありがとう。もう、大丈夫だから……」

 力なき小声。

 だけど、真っ直ぐに告げる。

 その言葉に、優しかった温もりが離れていく。

 返ってくる言葉はない。

 それでも、彼女は優しく笑ってくれていた。

 それだけで、十分だった。

「行ってくるよ。全てを、取り戻しに……」

 そうして、夢の時間は終わりを迎える。

 一度は失って、二度とは失いたくなかった時間を自ら手放して。

 代わりに、現実に立ち向かう強さをもらった。

 だから……。


 ――今はまだ、振り返らないよ。


 全てが終わったそのときに、初めて後ろを振り返ろう。

 そこに、求めていたものが、きっとある。


 これは、夢の終わり。

 そして、終わりに向けて始まった物語。

 亜城冬夜の長すぎた夜は、ようやく終わった。


 目が覚めて、そこが自分の部屋のベッドの上だと理解するのに、そう時間はかからなかった。

 まだ体のあちこちにだるさや疲れは残っているものの、思いのほか意識ははっきりとしている。

 ゆっくりと上半身を起こす。

 筋肉痛のような痛みが走るが、苦痛に感じるほどのものではない。

「……」

 今が何曜日の何時なのか、意識を失ってからどれくらいの時間が経っているのか。

 たった今目覚めたばかりの冬夜には、全く分からない。

 ただ、部屋の中がカーテンで閉め切られているにもかかわらず、差し込む日差しによってわずかばかりに明るんでいる。

 それを見るからに、午前か午後かの区別は別として、どうやら昼間ではあるということは分かった。

 だとしたら、それはちょうどいいかもしれない。

 恐らく昼間なら、巽も出かけでもしない限りは家の中にいるだろう。

 二人で話をするには、それは好都合だ。

 うっすらとだが、冬夜は覚えている。

 こうして今目が覚めるよりも少し前に、もう一度目を覚ましていたこと。

 そのとき垣間見た景色の向こうには、なぜか対馬と佐野の姿が見えたような気がした。

 二人ともまるで、何かに驚いているような表情で。

 でもそれでいて、今にも泣きだしそうで。

 それなのに、ひどく嬉しそうで。

 そのとき見た二人の姿が夢か現か、それははっきりとは分からない。

 だけどあのとき、自分の名前を呼んでくれた彼らの声だけは、夢でも幻でもなかったような気がする。


 ベッドから降りる。

 かなり体力を消耗しているのだろうか、足元はなかなか安定しない。

 机や壁を支えにしながら、冬夜はゆっくりと部屋の扉を開けた。

 握ったドアノブは、無機質な金属の独特の冷たさを全身に伝えてくれる。

 妙な気分だった。

 背筋まで凍りつきそうなその冷たささえも、今ではどこか心地よく感じてしまえる。

 まるでそれが、本来のあるべき形なのだと言わんばかりに。

 素足のままで廊下を歩く。

 ひたひたという足音だけが、静まり返った家の中に反響する。

 手すりを支えに、階段を下る。

 数えるほどしかない階段なのに、やけに長く感じる。

 一階の廊下を真っ直ぐ進み、突き当りの和室を目指す。

 閉じられたふすまに手を伸ばし、ゆっくりと開ける。

「……冬夜」

 と、和室の中ではない別の方向から名前を呼ばれた。

 声の方を向き直ってみると、そこには探していた巽の姿があった。

 巽は廊下の真ん中で呆然と立ち尽くし、呆けたような表情で冬夜を見ている。

「……おはよう、叔父さん」

「あ、ああ……おはよう……」

 答えるや否や、巽は慌てて冬夜に駆け寄った。

「冬夜、もう動いても大丈夫なのか?」

「まだちょっと、万全とは言えないけど……」

「……そうか。よかった、心配したぞ。私だけでなく、対馬君や佐野君もな」

「……そっか。やっぱり、夢なんかじゃなかったんだ……」

「ん? 夢がどうしたって?」

「……ううん、なんでもない。それよりも……」

「ん?」

 冬夜は一度言葉を切る。

 小さく息を吸い込み、吐き出す。

 どうしても、確かめなくちゃならないことがある。

 それはきっと、巽を直接ではないにしろ傷つけることになるかもしれない。

 ……でも、それでも。

「叔父さん」

 踏み出さなければ、何も変わらない。

「……なんだ?」


 「――話があるんだ。俺自身の、生い立ちについて」


 巽は答えなかった。

 その表情からは、後悔のような、自責のような、そんな色が見て取れた。

 やがて巽は一拍の間を置いて、小さく首を縦に振った。


 2


 壁掛け時計の長針が、右にひとつずれる。

 カチリ、という単調な音が、シンと静まり返った和室の中にどこまでも響き渡った。

「……ずっと、夢を見てた」

 冬夜の話は、そんな言葉から始まった。

「夢の中で、色んな人と出会ったよ。言葉を交わすことも叶わなかったけど……あれは多分、今から何年か前の光景だったんだと思う。

そこには、叔父さんの姿もあった。今より大分若かったけど、雰囲気っていうか、そういうのですぐに分かったよ」

「……」

 巽はただ、その言葉を聞き続けていた。

 軽く腕組みし、しかし表情だけは真剣に冬夜の目を見ている。

「夢の中で、若い夫婦の人達に会ったんだ。子供が二人いて、なんていうか、本当に絵に描いたような幸せそうな家族って印象を受けた。子供はまだ、ようやく自分の足で歩けるようになったくらいで、いつも親の腕の中に抱かれてた」

 今でもその夢を鮮明に思い出すことができる。

 暖かい陽だまりの中、本当に幸せそうに歩く彼らの姿。

 あれが家族というものの、本来あるべき姿なのだと示されたような感じさえする。

「本当に、幸せそうだったんだ。そこには、自分達が背負わせられている過酷な運命のことなんて、微塵も感じさせないくらいに……本当に、幸せだったんだと思う」

 声が微かに小さくなる。

 夢の時間はいつまでも続かないことを知っている。

 でも、その夢だけは。

 どうか、いつまでも続いてほしいと願えるものだった。

 このまま未来永劫、ただひとつの歯車さえも狂うことなく。

 悠久の時を流れるように。

 永遠の陽だまりの中で始まり、そして終わっていく物語であってほしかった。

 しかしそれは、叶わない。

 ひとつの夜が、全てを打ち砕く。


「……父親も、母親も、大きな運命を背負ってた。その運命は、彼らが背負わなければ彼らの子供達に降りかかる呪いでもあった。だから彼らは、自らを捧げた。無限に続くかもしれない運命に、終止符を打つために……」

 わずかに唇を噛む。

 目頭が熱くなるが、決して流れる涙は零さない。

 拳を握る。

 精一杯の強がりでいい。

 下を俯いたままでもいい。

 今はただ、胸のうちにある言葉を全て吐き出してしまいたい。

「……だけど、それは叶わなかった。運命に抗った彼らは、運命に呑み込まれた。……父親は自我を失って、自分の子供を殺そうとした。母親はそれをかばって、代わりに犠牲になった。その身を犠牲にして、二人の子供を守ろうとした。傷は深かった。致命傷に至るものだった。それでも、悲鳴のひとつも上げなかった。何も知らずに眠る子供を、目覚めさせないように……」

 イメージは鮮明に浮かび上がる。

 揺らめく炎の中、狂い出した父親。

 その手には、血塗れた銀の刃。

 すでに一人の子供は虫の息。

 それをかばう母親も、絶命までの時間は数えるほどしかない。

 おびただしい量の出血。

 薄気味悪くなるほどの温かい血液。

 それは、母親の腕に抱かれる温もりによく似ていた。

 迫り来る最期の瞬間を、母親は知る。

 だから最後に。

 腕の中で抱いた、二人の我が子の名前を呼んだのだ。

 消え入りそうなほどに儚く、しかしいつもと変わらぬ優しい音色で。

「……呼んだんだ。呼ばれたんだ……」

 それは夢の話。

 どこまでが真実で、どこからが偽りなのか。

 その境界線は見えない。

 真偽を確かめる方法もない。

 だけど。

 たとえ、そうだとしても。


 「――俺の名前を、呼んでくれたんだ……」


 たった一言。

 とうや、と。

 紡いでくれたその言葉の温かさと懐かしさは、忘れられるわけがない。

 幼い頃の記憶なんて、ほとんど持ち合わせていない。

 今だって、両親の顔も全然思い出すことはできない。

 それでも。

 記憶の奥深く。

 覚めない眠りについた、いつかの日々。

 そこにあった、確かな声。

 まだ、自分の足で歩くこともできなかった頃。

 よたよたとした足取りで、ようやく大地を踏みしめて。

 おぼつかない足取りで、わずかな距離を歩んで。

 前のめりになって倒れそうなその体を、支えてくれた人がいた。

 その人の顔は、今でも蜃気楼のように霞んでしまっているけれど。

 きっと、微笑んでくれていたんだろうと思う。

 そう、信じられる。

 そして、その腕で。

 小さなこの体を、目一杯抱き上げて。

 優しく、包み込んでくれたのだろう。

 その温もりを。

 その優しさを。

 その微笑みを。

 忘れることなんで、できない。

 例えこの記憶が偽りのものでも。

 誰かに書き換えられて、作られたものだとしても。


 ――そのときの気持ちは、本物だったと思うから。


「あの人が……俺の、母さんだった。俺は、母さんに守られて生きてきたんだ。そのことをずっと、ずっと忘れてた。忘れられるはずがないのに……」

 もう、涙を堪える必要はない。

 いや、堪えることはできなさそうだ。

 頬を伝う一滴が、言葉よりもはるかに正直で。

 何年振りだろうか。

 こうして、人前で涙を流すことは。

「…………っ!」


 人前ではいつも、本当の自分を表に出さないようにしてきた。

 心を許さないようにしてきたと言い換えてもいい。

 本当の自分をさらけ出してしまえば、どんなに楽だろうと思ったことは何度もある。

 だけど同時に、それは自分の最も弱い部分であることを知っていた。

 弱さを見せることは、自分の弱さに繋がることだと思っていた。

 表向きは普通を装っていた。

 学校生活でも私生活でも、そういう自分を作っていた。

 いつしかそれが自分にとっての当たり前になった。

 それを変えようとも思うこともなかった。

 冷たさすら感じさせない氷の中に、本当の自分を閉じ込めて。

 だけどその氷は、恐ろしいほどの薄氷。

 その反面、研ぎ澄まされた刃のように鋭い。

 迂闊に手を触れれば、痛みさえ感じさせないほどの傷を負わせる。

 全てを拒み、近づけさせない。

 氷の結界。

 歳月を経るほどに、鋭さは増す。

 だけど。

 そんな氷の刃も、ついには跡形もなく消え去る。

 何ら難しいことはない。

 触れることもままならない薄氷の刃でも、所詮は氷。


 ――温もりに包まれれば、音もなく溶けて消えるだけだ。


 3


 流れる涙を、冬夜は袖口で拭う。

 頬を伝ったのは、わずかに一滴だけ。

 言葉にできない感情が行き場を失って、どうしようもなく流れたためらいの涙。

 だけど今は、これだけでいい。

 これ以上涙を流してしまうと、決心が鈍ってしまいそうな気がするから。

「……そうか。もう、何も隠しておく必要もないのだな……」

 腕組みしたままの姿勢で、巽はゆっくりと口を開いた。

 その表情からは、諦めのようなものと罪悪感のようなものが見て取れた。

「……すまなかったな、冬夜。謝って済む問題ではないことくらいは分かっているが、私にはこれくらいの言葉しか見つからない」

「……そんなことはないよ。俺は、叔父さんには感謝してる。親戚からも厄介者としてしか扱われてなかった俺を引き取って、こうして育ててくれた。俺から言わせれば、叔父さんだって俺の父親みたいなもんだよ」

「……もっと早くに、真実を告げるべきだったのではないかと。そう考えた日は少なくはなかった。だが、そのたびに踏みとどまってしまった。最初はそれを、お前の歳で考えていた。過酷な過去を受け入れるには、幼すぎるのではないだろうかと……」

 両親を失った当時の冬夜は、わずか二歳半。

 物心さえつきはじめたかどうかという年頃で、支えとなる両親を失った。

 その事実は、簡単に告げることができるものではなかった。

 苦肉の策で考えたことといえば、結局は偽りの事実を伝えることだけだった。

 嘘もばれなければいつかは真実になる。

 そんないい加減な言葉に頼った、最初で最後の瞬間だ。


「……私にとって唯一救いだったのは、お前が自分の両親に関してそれほど関心や疑問を抱かなかったことだ。体の成長に比べて、心の成長の方が早かったお前は、私の嘘を特に疑いもせずに信じ込んでいた。無関心といえばそこまでだが、親の問題ともなれば問い詰められてもおかしくはない。そうされていたのなら、もっと早い段階で私は真実を告げていたかもしれんな……」

「俺の場合、叔父さんに引き取られる前までの記憶があやふやだったからね。親戚中をたらい回しにされて、どこへ行っても邪魔者扱い。味方になってくれる人間なんて、それこそどこを探してもいなかった。今思えば、その時点で普通なら親のことに対して疑問のひとつやふたつを口に出してもおかしくなかったんだろうけど……当時の俺は、歳の割にはずいぶんと荒んでいたのかもしれない。いつも一人でいることが、俺の小さな世界の中では当たり前のことだったから……」

「そうかもしれんな……こう言うのもおかしな話だが、私が通夜でお前と出会ったとき、とても五歳の子供には見えなかった。目つきや仕草のどれをとっても、お前はすでに自分という人間を完成させていた。世間一般に言うところの子供らしさなど、それこそ微塵も感じ取ることはなかった。いい意味で大人びていて、悪い意味で死んでいた」

 五歳の子供といえば、それこそ遊び盛りで何にでも興味を示すような年頃だ。

 そこに男女の境のようなものはなく、好奇心の塊といっても過言ではない。

 そんな歳にもかかわらず、冬夜の人間性、あるいは人格と言い換えるべきだろうか。

 それはすでに、ひとつの個体として完成しつつあった。

 天涯孤独とも言うべく境遇と、他人と関わらない生活環境がそうさせたのだろう。

 陽のあたる場所は確かに与えられたのに、それを感じることができない。

 それは、冬夜自身が他でもない日陰の存在だったから。

 光があれば影がある。

 それはつまり、光がなくては影も存在できないということ。

 光がなくなれば、一面は真っ黒に塗り潰されるだろう。

 だったら、それは影であるとは言えないのか?

 否。

 それは影にあらず。

 それは、闇。

 全てを呑み込む、闇。

 光も影も関係ない。

 等しく呑まれて、やがて無に還るだろう。


 当時の冬夜は、いわばその一歩手前だった。

 一目見て、巽もそれに気がついたのだろう。

 いや、それは少し行き過ぎた表現かもしれない。

 曖昧な言葉を使うようだが、そのときはあくまでも予感だった。

 冬夜の放つ独特の雰囲気が、まるでブラックホールのようだった。

 全てを呑み込んで、しかるのちに自らも消える。

 厳密に言えば、ひどく不安定な存在だったのだ。

 差し伸べる手の方向によっては、いとも簡単に崩壊の道を歩み始める。

 タイマーのない時限爆弾のようなものだ。

 爆発のタイミングは誰にも分からない。

 だが、放っておけば間違いなく爆発する。

 だから巽は、賭けに出た。

 自分がこの幼い子供の抱えた爆弾を、止めてやることはできないだろうかと。

 巽は冬夜に対して面識がある。

 しかし、対する冬夜は巽のことなど全く覚えていなかった。

 だから引き取り手として名乗ったとき、拒絶されることも大いにありうることだった。

 親族の家は厄介払いができるとのことでためらいはしなかった。

 あまりにいい加減な態度に巽も怒りを覚えたが、そんなことに構っている余裕などはなかった。

 そのときはただ、無我夢中で。


 ――ただ、目の前の一人の子供を救いたい。


 ただ、それだけの思いだった。

 もしかしたらそれは、巽なりの罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。

 冬夜の両親が不幸にも他界し、行く当てがなくなった冬夜を特に考えもなしに親戚に預けたのは、他ならぬ巽だった。

 そのときは、まさか冬夜が厄介者扱いされるなどとは夢にも思っていなかった。

 しかしこうして再会してみると、まだ親の腕の中に抱かれていた頃の面影はほとんど消え失せつつあった。

 冬夜という名前だけが、かろうじて巽の記憶と目の前の現実を繋ぎとめていた。

 冬夜の両親は、巽の目の前で死んだ。

 その悲惨な光景は、今でも忘れることはできない。

 今更許しを請うつもりは毛頭ない。

 だけど、この数奇な巡り合わせをただの偶然と吐き捨てることなどもできない。

 巽は言った。


 「――私と一緒に来ないか?」


 そっと、手を差し伸べて。

 拒絶されることも、覚悟の上で。

 五歳の冬夜は、少しの間そんな巽の表情と手を交互に見つめ返していた。

 そして、小さな声で言ったのだ。


 「――うん」


 そのときは、手を取ってはくれなかったけど。

 幼いその一言で、巽は確かに救われた気がした。


 あの日、守ることができなかった命がある。

 あの日、守ることのできなかった命が守り通した命がここにある。

 今度は、自分が守る番だ。


「……叔父さん」

「……冬夜」

 二人の声は同時だった。

 互いに先を譲り合ったせいで、わずかな沈黙が流れる。

 咳払いをひとつして、まず巽が言葉を続けた。


 「――私を、憎んでいるか? 恨んでいるか?」


「……」

 冬夜は答えない。

 ただ、わずかばかりに視線をずらす。

 言葉を探すように、目を伏せる。

 時計の秒針が時を刻む。

 永遠のような数秒が流れ、冬夜は顔を上げる。

 そして、告げる。


 「――ありがとう、叔父さん」


 その一言だけで。

 互いの気持ちは、しっかりと伝わっていた。

 だが、冬夜は知らない。

 その何気ない、当たり前のようなありふれた一言が。

 今一度、巽の心を救っていたということ。

「……馬鹿者が」

「……」


 「――私が言うべき言葉を、お前が先に言ってどうする……」


 そう言って、巽は柔らかく笑みを見せた。

 だから冬夜も、笑って見せた。


 小さな世界しか知らなかった少年がいた。

 少年はいつもそこにいて、だけど世界のどこにも居場所なんてものはなかった。

 少年はそれを知っていた。

 だから、何かに対して笑うことも、泣くこともなかった。

 一人と独り。

 同じ言葉なのに、意味はこんなにも違う。

 少年はいつも一人で、独りだった。

 そんな少年の前に、一人の男がやってきて、言った。


 「――私と一緒に来ないか?」


 少年は初めて、別の世界を見たような気がした。


 ずっと、一人だった。

 きっと、独りだった。

 だけど、今は違う。

 十年という歳月は長くもなく、かといって短くもないけれど。

 その時間を常に共にした人は、いつも優しかったから。

 失ったはずの温もりとよく似た暖かさ。

 本当の世界を見せてくれた人。


 ――少年は、もう。


 ――ひとりじゃ、ない。



拝読ありがとうございます。

作者のやくもです、こんにちは。

少しずつではありますが、執筆活動の方を再開できるようになってきました。

以前に比べて更新のペースは遅いですが、とりあえずはなんとかやっていけそうです。

それと、話は変わるのですが、同時連載をしていたもうひとつの作品、「無条件幸福」のほうはまだ更新が途切れたままになってしまいそうです。

目を通してくださった方々には、とても申し訳なく思っています。

連載中止というわけではないんですが、まずはこの「千年の冬」の完結を優先することになりそうです。

そんなわけですが、どうかこれからもよろしくお願いできればともいます。

最期の今回の二十一幕についてですが……何度も言いますが、これはすでにホラーの域ではないような気がしてきました。

怖さ期待の読者様、本当にごめんなさい。

ではまた、次回の後書きで。


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