第十八幕:舞台裏のささやかな抵抗(1)
1
明けて翌日。
佐野が目を覚ましたとき、対馬はすでに起き上がっていた。
布団の上であぐらをかきながら、ぼんやりと視線を泳がせている。
その視線が、ふと佐野のほうに向く。
「なんだ、起きてたのか」
どこか乾いた声。
言葉そのものに、生命力のようなものがほとんど感じ取ることができない。
「今起きたところ」
佐野も似たような声で言葉を返す。
たった一回のやり取りで、会話はぴたりと中断してしまう。
水を打ったような静けさが、早朝の室内の中に広がった。
その部屋の真ん中で、冬夜はまだ目を覚ますことなく眠りの中にいた。
遠目からではよく見えないが、ベッドの上に横になった冬夜の胸は確かに上下運動を繰り返している。
それは紛れもなく、冬夜が呼吸し、生きている証拠で。
今でも昨夜の一件が半信半疑な対馬と佐野にとって、それは唯一の救いといってもいいことだった。
「有紀、お前今日どうする?」
対馬は唐突に言葉を投げた。
一瞬だけたじろいだが、佐野は落ち着いた口調で聞き返す。
「どうするって、何が?」
「俺もお前も、昨日は親とかに連絡しないでここに泊まっちまっただろ。さすがに向こうも心配してるとは思うしさ」
「あ……」
言われて、佐野も今更ながらに気がついた。
昨日は夕方頃から休む間もなく動き続けていたので、家に連絡を入れるということをすっかり忘れていた。
まぁ、高校生にもなっているのだから外泊くらいでさほど大きく騒がれることはないかもしれないが、連絡を入れなかったのはこちらとしても反省するべき点だろう。
「俺は一応、起きてからだけど親の携帯にメールはしておいた。昨日は友達の家に泊まったからって」
「そうだね。私もちょっと、家の方に電話してくる」
言うなり、佐野は立ち上がって静かに部屋を出た。
電話の話し声で冬夜を起こしては悪いと思ったのだろう。
カチャリと音を立てて閉まる扉を視界の端で捉えながら、対馬はまた視線を元の方向に戻した。
冬夜は生きている。
目に映る現実の景色は、ただそれだけだった。
それは結果としては、最高のものだった。
まさしく、夢のような物語だった。
昨日までの全てが一夜限りの悪夢だと言わんばかりに、今日という新しい日の幕開けは当たり前のように平凡に訪れている。
だから対馬は、それを喜ぶべきなのだ。
口にしたい疑問がどれほど胸の奥底でくすぶり続けているとしても。
日常から乖離した、非現実極まりない一夜はもう終わったのだと。
嵐の夜は去ったのだと。
自分に言い聞かせなくてはいけない。
自分を納得させ、頷かせなくてはいけない。
――そうすることで、他でもない自分自身がどれだけ許せなくなるとしても。
そんなちっぽけな自尊心なんて、簡単に投げ捨ててしまえばいい。
たとえどれだけ、握り締める拳に行き場のない怒りを詰め込んだとしても。
砕けそうなほどに噛み締めた奥歯が、ギリギリと音を立てて軋んでも。
それらの痛みを受け流すように、今日も当たり前の日常を歩いていかなくてはならない。
何度でも言おう。
全ては終わった。
もう、出る幕はない。
自分は最初から、この舞台に関する役割など何一つ持ち合わせていないのだ。
キャストはすでに配置され、あとは開演の合図を待つばかり。
飛び入り参加などもってのほか。
観客は観客らしく、黙って客席で舞台を眺めていればいい。
野次も飛ばさず、さじも投げず。
ただただ、傍観者のあるがままに。
劇中の喜劇も、悲劇も、何もかも。
全ては予め作られた、脚本どおりのシナリオに沿って動く。
そこに、狂いはない。
配役もセリフも、全てがこの一瞬に寸分の狂いもないように作り上げられ、配置された。
そして彼らは、舞台の上で予め決められた未来、結末に向かって役割を演じるのだ。
その口から出る言葉も、動作の一つ一つまでもが。
全ては誰かの手によって、思うがままに操られる。
観客はその喜劇を見ては高らかに笑い、悲劇を見ては静かに涙すればそれでいい。
舞台と客席の距離なんて、ものの数歩でゼロに縮めることができるというのに。
誰一人として、その距離を踏み越えることは許されない。
ゼロに限りなく近い、けど決してゼロにすることのできない距離。
対馬は昨夜の一件で、その距離の高さ、深さ、遠さを思い知らされた。
結局のところ、一番踊らされていたピエロは観客の自分であるということ。
「……何が親友だ……」
俯いて、声を殺しながら叫ぶ。
「……何が、仲間だ……」
低く、遠く。
細く、長く。
紡がれる言葉は、自分の弱さ。
見えない雨に打たれながら。
冷たい雪が舞い降りて。
濡れ、凍る、翼。
もう、自由に羽ばたける空はないと知って。
凍てついたその羽を、静かに折り畳んだ。
カチャリ。
再び部屋の扉が開く。
対馬は振り向かなくても、それが電話を終えた佐野が戻ってきたのだと分かった。
「電話してきた。結構心配かけてたみたいだけど、友達の家でテスト勉強してたって言ったらすぐに納得してたよ」
「……そうか」
「……圭一、どうかした?」
先ほどにも増して何の感情も読み取れないその言葉に、佐野は思わずそう言った。
「……なんでもねぇ」
「なんでもないって、圭一……」
「……ねんでもねぇよ」
「……」
「なんでもねぇ……なんでもねぇんだ……」
まるで壊れかけのカセットテープのように繰り返す。
どこまでも低く、どこまでも遠い声。
聞いている佐野のほうが、その言葉の冷たさに身震いしてしまうほどだ。
「……今日、どうする?」
「……何が?」
「このまま今日は、冬夜が心配だから学校休む? それとも、叔父さんに任せて普通に学校行く?」
「…………」
対馬は顔を上げる。
冬夜は静かに眠っている。
いつ目覚めるかも分からない、深い眠りの中にいる。
その目が開いたとき、どんな言葉をかけてやれるのだろう?
どんな言葉をかけるべきなのだろう?
かけるべき言葉を、持ち合わせているのだろうか?
「……行こう」
「え?」
所詮、観客は観客。
「行こうぜ、学校……」
「……いいの?」
シナリオはもう、覆らない。
「ああ。行こう」
「……」
今頃になって気付くなよ。
バカらしい……。
「あとは、叔父さんに任せようぜ。俺らがいても、邪魔になるだけだ……」
「……うん」
何もできないなら、何もしない方がいいさ。
そうすればきっと、舞台は喜劇で幕が下りる。
それをただ、見ていればいい。
――それだけで、いいんだ……。
パタン。
扉が閉まる。
壁一枚隔てたその距離が、舞台と客席。
二人の観客は、静かに劇場をあとにした。
2
「…………」
神楽は無言で起き上がった。
まだどこか頭がくらくらして、抜けきっていない疲れがあることを嫌でも実感させられる。
「ああ、すまない。起こしてしまったかな」
ふと聞こえてきたそんな声に、神楽はゆっくりと振り返った。
そこには畳んだ布団を押入れにしまいこむ巽の姿があり、逆のカルマの姿が見えなくなっていた。
「……おはようございます」
「おはよう。どうかな? 少しは眠れたかな?」
「はい、おかげさまで……」
神楽は立ち上がると、自分の使っていた布団を畳み始める。
「ああ、気にしなくても私がやろう」
「いえ、これくらいはさせてください。何から何までお世話になるわけにもいきませんから」
巽の言葉を半ば押し切るような形で、神楽は手早く布団を畳んでいく。
「そこの押入れに入れればいいですか?」
「ん? ああ」
開け放されたままの押入れの上段に、持ち上げた布団の一式を入れる。
「すまないね」
「え? あ、いえ、別に……」
「向こうの居間に、朝食を用意してある。こんなときに食欲など沸かないかもしれないが、私の目から見てもまだ君は本調子ではないだろ
う。無理にとは言わないが、少しでも体力を戻すために食べた方がいい」
「あ、でも……」
「それに、私も君と少し話がしたい。付き合ってはもらえないだろうか」
「……」
神楽はしばし考えた結果、やはり特に断る理由がなかったので首を縦に振った。
テーブルの上にはまだ暖かさを保ったままの朝食が並べられていた。
巽と神楽はそれぞれが向かい合うような形で座り、どちらからともなく朝食に手をつけていた。
正直なところ、やはり神楽には食欲はあまりなかった。
だが成り行きとはいえ、こうして食卓を囲む以上は残したりするのも失礼だと思う。
最初は遠慮がちにしていたが、見た目にも彩りのいい料理は自然と食欲を誘った。
多くの料理は和食で、ご飯に味噌汁、漬物に惣菜といった日本伝統の食卓そのものだった。
箸の進む勢いは遅かったが、それでも神楽は少しずつ料理を口にしていった。
もちろん、いやいやではなく自分から進んで料理に箸を伸ばしている。
しばらくは互いに無言のままで、食事の時間だけが緩やかに流れていった。
神楽も口にする料理がどこか懐かしいことに、喋ることを忘れていた。
時間にすればそれほど長いこともないが、ある程度食事の手が止まりかけたところで巽は口を開いた。
「さて……」
その言葉を聞いて、神楽は丁寧に揃えた箸をテーブルの上に置いた。
互いの間に、短い沈黙が流れる。
「何から話せばいいものか……」
巽は腕を組み、やや考える素振りを見せる。
対する神楽は、正座した膝の上に両手を揃えて次の言葉を待った。
「……月並みな言葉かもしれないが、あまり自分を責めないようにしてほしい」
神楽は答えなかった。
かといって、否定もしない。
まるで見透かされているかのように、今の自分の心境を言い当てられてしまい、内心で驚いていたからだ。
「そうやって自分を追い詰めていれば、最終的に誰よりも傷付くのは君自身だ。違うかな?」
「……それは」
巽の言葉は、多分正しい。
実際、今の神楽は自分を責めることでしか罪を償う方法を知らない。
謝ってすむ問題のレベルなど、とっくに通り越してしまっているのだ。
犯罪に当てはめれば、傷害罪、もしくは殺人罪。
方の名の下に裁かれれば、決して無罪ではすまない。
何かしら判決を受け、罪を償わなくてはならないのだから。
「私は君を裁くことはない。だが、許すことも容易なことではないかもしれない。だが、それによって君が苦しむようになることも、私が望むところではないのだ」
言い終えて、巽はお茶を一口含む。
一方、神楽は表情こそは申し訳なさそうなものだが、目は真っ直ぐに巽を見据えている。
本来なら、憎しみの言葉をいくらぶつけても物足りないはずなのに。
巽はこうして互いに落ち着いて話し合う場を設け、さらに神楽を間違った道に進まないように導いている。
それは、もしかしたら知らずに湧き上がっていた親心のようなものなのかもしれない。
血の繋がりがない冬夜という息子を抱えているからこそ、巽には分かるのだ。
目の前の神楽が、冬夜ととてもよく似ているということに。
時折見せる悲しい目は、もっとも身近にいたはずの大切な存在を失っている証拠。
そして今、自分のもっとも近い場所にいる存在を中傷されたときの静かな怒り。
巽は冬夜と過ごしたこの十年の間に、似たような瞬間を幾度となく目にしてきた。
それはかけがえのない思い出であり、同時に誇りでもある。
巽はすでに、歳を取っている。
だが極端な話、いつ死んでもおかしくないほどに歳を食っているわけではなく、かといって若さを発揮できるほどに若くはない。
人間の一生は、寿命で終わることを前提で考えれば平均して八十前後といったところだろう。
巽は今、その折り返し地点のまだ序盤にいるに過ぎない。
無論、今日明日に死んでやるつもりなどは毛頭ないし、かといっていつまでも長生きできるという保障はどこにもない。
だがそれは、歳の差などに関係なく、人として命を与えられて生まれ持ったからには誰にも等しく訪れることだ。
十歳の子供でも、七十歳の老人でも。
いつ死んでしまうかなんて、そんなのは誰にも分からない。
十歳の子供がある日突然不幸な事故で死を遂げれば、多くの人はその十年という生涯を短すぎると言うだろう。
七十歳の老人がある日寿命を迎えても、多くの人はまだまだこれからだっただろうと言うだろう。
そこに、差などというものは最初から存在しないのではないか?
誰だってそうだ。
仮に自分が、いつ、どこで、どういう風に命を落とすか。
それを知ることができたとしよう。
それによって、自分の終わりが限りなく近い未来にあることを知ったとしよう。
生きることを諦める人もいるだろう。
抗ってやろうという人もいるだろう。
しかしどれだけ諦めがよくても、勇ましく抗っても。
決められた終わりの日は、絶対に狂わない。
それはまさしく、運命だ。
潔く死んでも。
戦って死んでも。
死ねば等しく、そこに差は生まれない。
だが同時に、自分の終わりを知ったとき。
誰もが必ず思うはずだ。
――死にたくない、と。
必ず思うはずだ。
真っ白な紙切れの上に書かれた、預言者の戯言を。
ふざけるなと、笑い飛ばしたいはずなのだ。
たとえその結果、どうがんばっても同じ結末しか迎えられないとしても。
そういう、終わりに向けて生きている時間の生き方一つで、あらゆるものが変わって見えてくる。
そうした残された時間の過ごし方一つでも、結末は微妙に違ったものになるのだ。
それができたのなら。
誰一人として、無意味な結末を迎えることはないだろう。
そして目の前の神楽には、それだけの強い意志がある。
だからこそ、こんなところで道を踏み外してはいけない。
崩れかけたバランスを、支えてやらなくてはならない。
もしもその役目を担うことができるのならば、巽は臆することなく前へ踏み出すだろう。
「……これは、私の勝手な想像だが……」
巽の言葉が詰まる。
しかし、それも一瞬。
「恐らくはまだ、冬夜に関する問題は何一つとして解決はしていないのだと思う。そしてその問題が、ようやく解決に向かおうとしているのだろう。……場合によっては、君や死神の彼の力を借りることにもなるだろう。いや、力を貸してほしい」
そして巽は、静かに頭を下げた。
全く非のない巽が。
逆に協力を強制させることだってできる立場にもかかわらず。
想いはきっと、同じなのだろう。
ただ、冬夜を救いたい。
それだけのことなのだ。
「……もちろんです」
神楽は答える。
真っ直ぐな瞳で、告げる。
「――今度こそ私は、彼を救う力になって見せます」
弄ばれている運命。
さて。
そろそろ、脚本通りに動くのにはいささか飽きてくる頃じゃないか?
それは、小さな反撃の狼煙。
やがて、炎になると信じて。
天高く、昇る。
拝読ありがとうございます。
作者のやくもです、こんにちは。
分かっていたこととはいえ、同時に連載を抱えてしまうと片方の更新がおろそかになってしまいそうな現況です。
それを覚悟で投稿したんですから、まぁまさしく自業自得というやつなのでしょう。
背伸びはしないものだなぁと、実感させられました。
そんなこんなで、やや更新が遅れた十八話でした。
次回は遅れないように……できればいいかなと思ってます。
それでは、また次回で。