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千年の冬  作者: やくも
16/34

第十六幕:光と闇の追憶(3)

 1


 日が沈む。

 オレンジ色の空が紺色に、紺色の空が黒へと変わり行く頃。

 最初で最後の夜が、始まった。


 気がつけばまた、冬夜はどこか懐かしさを覚える部屋の片隅に立っていた。

 部屋には明かりがついておらず、ずいぶんと薄暗い。

 足元が淡い遮光に照らされているのは、窓の外から差し込む弱々しい月明かりのせいだろう。

 その光を道標に部屋の隅々に目を配らせるが、やはりそこに人の姿は見受けられない。

「……」

 冬夜は無言で部屋の中を歩き出す。

 怖いくらいに静まり返った部屋の中では、足が踏む畳の感触がひどく心もとなく思える。

 普段なら耳にすら届かないであろう小さすぎる足音も、今だけは脳の中枢まで刺激しているかのようだった。

 数えるほどの歩数を歩んで、冬夜はふと窓の外を覗いた。

 とうに日は暮れて、頭上にはどこまでも紺と黒の織り交ざったような色の深い空が広がっている。

 不思議と雲は一つもなく、なのになぜか今にも雨が降り出しそうな雰囲気を思わせる。

 そんな中、ぽっかりと浮かぶ銀色の月。

 まるでコンパスでも使って描いたかのような、美しすぎるほどの円。

 弱々しくも美しく、それでいてどこか暖かささえ覚えさせる光を放つ天体は、ただ無言で地上を照らし出している。

 その光が祝福のものなのか、それとも全く別のものなのか。

 見上げる冬夜には分からない。

 ただ一つ、確かなことは……


 今夜、何かが起こるという、あまりにも漠然としたことだけだ。


 冬夜は部屋を出ようと、ふすまの取っ手に手を伸ばす。

 しかし、指先はするりとふすまを通り抜け、触れるという感覚さえ与えてはくれなかった。

「……そっか、ここじゃ俺は実体を持たない存在なんだっけ……」

 自分で言いくるめておきながらも、その言葉に素直に納得できない。

 だがいくら考えたところで答えが出るとも思えないので、冬夜はそのまま何もないかのようにふすまを通り抜けた。

 まるで空気になってしまったような感覚を覚える。

 いや、空気だってそこにあると認識されているわけだから、今の自分はそれ以上に希薄な存在なのだろう。

 少なくとも、存在を確認されないことは間違いない。

 その割には、こうして地面の上を歩く感覚は本物そっくりだった。

 あの暗闇の中のように、地に足がつかないような浮いている感は全くなく、しっかりと自分の意思に体が忠実に従ってくれている。

 そのギャップの差が妙に不気味で、かえって冬夜の内心を不安定にさせていく。

 しかし、歩き出した足は止まることを知らない。

 行き先を決めたわけでも、知っているわけでもない。

 ただ、足が向くままに進む。

 当てのない旅路を行くように。

 風さえも吹かぬ夜。

 どこへ行こうというのだろう?

 どこへ行けばいいのだろう?

 分かってはいたが、返事はない。


 一言で言えば、それは人の気配だった。

 玄関の扉を開けることなくすり抜け、靴も履かずに砂利道の上を歩いた。

 住まいと神社を兼用している本宅から少し歩いた場所に、それはある。

 古くからの日本風に呼べば、それは離れという場所になるだろう。

 早い話が、それほど規模の大きくない別宅のようなものだ。

 しかし天瀬家の場合、この離れはいわゆる部屋のような造りにはなっていない。

 中は小さな剣道場のようになっており、実際壁際には何本かの竹刀や木刀も立てかけられている。

 それというのも、巽は剣道の腕前だけで言えば日本国内でも十指の内に入るとまで言われる腕の持ち主だからだ。

 なので、独自に流派でも設立すればそれこそ日本各地から教えを請う人々が集まるのだと思う。

 しかしそれを巽がしないのは何か理由があるからなのだろうが、冬夜はその理由を知らない。

 人の気配を感じて、冬夜は閉ざされた扉を開けずに中に入る。

 すると案の定、そこには巽はもちろんのこと、あの夫婦の姿も見受けられた。

 しかしなぜか道場の中には明かりがついていない。

 代わりに揺れていたのが。細長いろうそくに灯っている頼りない炎だった。

 風もないのにわずかに揺れるろうそくの炎は、暗い静寂を潜ませた部屋の中では唯一の道標。

 その明かりは一つだけではなく、木造の床の上にはろうそく立ての上に置かれた何本ものろうそくがゆらゆらと炎を揺らしていた。


 その光景は、傍目から見ればひどく不気味で。

 しかしそれと同じくらいに、言い表しがたい神秘さをかもし出していた。

 そしてよく見ると、床の上に置かれたろうそくの下……つまりは床そのものの上に、何かが書き巡らされていた。

 それは筆か何かに墨汁をつけて……習字さながらに書かれたかのような、得体の知れない文字、あるいは図形の羅列だった。

 ぱっと見て分かるのは、今現在使われているような日本の漢字やひらがなの表記ではないということ。

 だがしかし、それは英語のようにも見えない。

 とはいえ、フランス語やスペイン語のような表記方法など知らない冬夜には、やはりそれは文字の羅列としか表現できなかった。

 だがよく見ると、ところどころには今の日本語の漢字やひらがなによく似た字体も見て取れる。

 確か、草書、だっただろうか。

 字体を崩して、ぱっと見落書きのように書く字体。

 全部が全部そうだというわけではないが、そういう視点で見ると他にもいくつか読めそうな、あるいは原型がどんな字か想像がつきそうなものも存在した。

 だが結局、個体の意味をところどころで理解したところで、全体を構成する意味など分かるわけもない。

 分かったところでどうというわけでもないので、冬夜はそれ以上は意味を考えることをやめた。

 だが、それ以上に気になることがある。

 その床の上に書き連ねられた文字の羅列。

 その意味は理解できないが、形が疑問を浮かばせる。

 どうしてこの文字達は……。


 ――まるで、結界のような陣を囲む形で書き記されているのだろう?


 もちろん、結界という表現はひどく曖昧なものかもしれない。

 だがこの、何かこう不規則の中に隠された規則性に従ったかのような、そんな配置。

 考えすぎか、あるいはただの妄想なのか。

 どちらにしたって気にするほどのことではないはずなのに、どうにも胸の奥のとっかかりがはずれない。

 それは、まるで。

 今から目の前で起こることがある程度予想できているのにもかかわらず、ただじっと傍観者であることを選んでいるかのような。

 そんな、ありもしない矛盾に悩まされているよう。

 だがそれを今この場で口にしたところで、この場にいる誰が気付くことができるというのだろうか。

 恐らく……いや、絶対、誰一人として気付くことはできないだろう。

 そこに存在しないはずの存在のかける声など、彼らの耳に届くはずがないのだから。

「……っ……」

 それでも。

 なんなんだろう。

 この、高揚感にも似た胸の奥のざわめきは。

 今すぐ叫んでしまいたい。

 ただ一言。


 やめろ! と。


 できるはずがないと知りながら。

 しかし高鳴る鼓動は収束を知らず。

 ただただ、虚空の中でわだかまりを募らせるだけ。

 足元がふらつく。

 支えになるはずのない壁に手をつこうとして膝が折れる。

 沈む視界の先。

 そこに。

「…………?」

 冬夜は、見た。


 今もまだ、優しい寝息を立てて眠る、幼い二つの命を。


 2


 なぜ、どうして?

 疑問ばかりが次々に溢れてくる。

「……さて」

 その思考を止めたのは、巽の声だった。

 巽はろうそくの炎が揺れる中、数メートルの距離を挟んで座る夫婦に顔を向けていた。

 その顔つきは、暗がりの中でもはっきりとわかるほどに厳しく険しい。

 その反面、恐ろしいほどに悲しみに満ちているようにも見えた。

「……では、最後にもう一度問おう」

 低い声が響く。

 言葉の矛先は、夫婦に向いている。

「本当に、よいのだな? 正直な話、命の保障はしかねる。仮にこの場で思いとどまることや逃げることを選択しても、あなた方を責める

人間はどこにもいない。それでも、やるのですね?」

 決して広くない部屋の中に、巽の言葉の残響が隅々まで浸透する。

 消えかけのやまびこのようだが、決して返ってくることはない。

 しばしの間があって、春華は口を開く。

「はい。もう、決めたことですから」

 その真っ直ぐな返答に、巽は心なしか残念そうな表情を見せた。

 しかしそれも一瞬で、すぐに向き直って雪彦へを視線を向ける。

 しかし雪彦も、ただ真っ直ぐに視線を返して首を縦に振るだけだった。

 巽はそれを確認して、静かに目を閉じる。

 この二人がこうして尋ねてきた昨日の時点で分かっていたとはいえ、巽はわずかに期待していた。

 二人が思いとどまり、決心を鈍らせてはくれないだろうかと。

 だがその思いも、今の彼らの返事で玉砕した。

 彼らの中で、もう覚悟は決まっている。

 むしろ思いとどまってくれないかなどと考えていた自分のほうが、いかに浅はかだったのかを思い知らされた。

 今この状況で、もっとも覚悟が足りていない者。

 それは間違いなく、巽だった。


 もしも彼らが、たった一言でも思いとどまるような、助けを求めるような言葉を口にすれば、巽は救われていたかもしれない。

 少なくとも、今も胸の内で抱えている罪悪感のようなものからは開放されていただろう。

 だがそれは、一時的なものでしかない。

 今夜を蹴ったところで、眼前に差し迫っている運命というものからはもはや逃れようがない。

 いつか必ず、決着をつけなくてはならない瞬間が訪れるのだ。

 それも、そう遠くない未来に。

 今夜、今から行うことはまさにその決着だ。

 待つことに飽いて、立ち向かう瞬間。

 いずれやってくると分かっている結末に、違う未来を残すため。

 彼らはやってきてくれた。

 それこそ、悩みに悩んで。

 眠れぬ夜をいくつも乗り越えて。

 死の恐怖に涙を流しながら。

 それでも、希望のある明日を一日でも多く残すために。

 こうして今、ここにいるのだ。

 それを誰が、止めることができようか。

 巽はゆっくりと目を開く。

 向かい合う彼らの瞳に、揺らぎはない。

「……分かった」

 それは、血を吐きそうになるほどに重い一言。

 折り畳んでいた膝を崩し、巽は立ち上がる。

 それに倣い、二人も立ち上がった。

 そして床の上に書き記された陣の外側に出ようと歩を進めたところで、巽は二人を背中越しに振り返らずに呼び止める。

「……約束してほしい。必ず、生き残ると」

 その言葉は重く、軽々しく返事をできるものではなかった。

 わずかだが巽の肩が震えているのを、二人は見た。

「……はい。必ず……」

「もちろんです」

 それでも二人は、限りない絶望の淵でなお微笑んでくれた。

 そのささやかな笑顔を巽は振り返ることができなかったが、二人の言葉は確かな支えになった。


 冬夜はそのやり取りを、ただ見ていることしかできない。

 彼らが交わす言葉はわずかで、とてもそれだけではこれから起こるであろうことを想像することすら叶わない。

 だがそれでも、肌で感じることがある。

 この場の空気が、物語っている。


 たった今から、ここは現実を離脱する。


 ゾクリと、何の前触れもなく背筋を寒気が駆け上った。

 肩膝をついたままの姿勢で全身が硬直し、指先一つすら動かすことがままならない。

 文字通り、体が石になってしまったかのよう。

 ヒューヒューと、掠れるほどに小さな呼吸だけが繰り返される。

 のどの奥は干上がったようにからからに乾き、吸い込む空気はどろりと重い。

 肺の奥にその塊が転がり落ちるたびに、中途半端な吐き気とめまいを覚えた。

 首筋を伝う嫌な汗。

 本来なら身も凍るほどの寒空の下にいるというのに、まるで梅雨時のような粘着質な空気。

 明らかに空気が変わっていた。

 その証拠に、さっきまで風がなくても揺れていた無数の炎が、今はその全てがぴたりと揺れを止めている。

 巽は床の上のろうそく立てを書き記した陣の上に次々と配置していく。

 全く無造作に見えるその動作にも、やはりちゃんとした意味があるのだろう。

 ろうそく立て同士の感覚も位置も一見ばらばらで、もはや適当に置いているようにしか見えない。

 だがそこには、ちゃんと意味があった。

 そうして並べられた無数のろうそくは、揺れない炎の下に文字を浮かび上がらせる。

 そのどれもが単体では意味を成さない落書きのような文字。

 しかしそれらがある法則に基づいて再配置されたとき、それらは意味を持ち、形を成し、意思を創る。

 そして今、この瞬間。

 全ての準備が整った。


「二人をこちらに」

 巽はそう言って促す。

 言われるがままに、夫婦はそれぞれに我が子を一人ずつそっと抱きかかえる。

 その幸せな眠りから、目を覚まさないように。

 何も知らず、ただ夢の中ではしゃいでいるであろう愛しい子供達。

 その幼すぎる体を、陣の中心にそっと置く。

 すぅすぅと、優しい寝息。

 どんな夢を見ているんだろうか。

 抱き上げた我が子から手を離す瞬間、その小さすぎる手にそっと指を絡ませる。

 確かに感じる体温。

 帰る場所は、ここにある。

 互いに一つ頷いて。

 そっと、手を離した。

「……始めましょう、叔父さん」

 無言で、巽は頷いた。

 煌々と吼える炎に抱かれながら、二人の子供達は眠る。

 全ては一夜限りの夢。

 悪夢は全て、私達が持っていくから。

 だから、安心して……。

「では、始めようか……」

 二人も無言で頷いた。


 はるか頭上には、輝く満月。

 白銀の光は、全ての地上を洗うように照らし出す。

 それはまるで、祝福の光のようで。

 ただ……。

 その月を囲むようにして、遠くの空から黒雲が近づいてきていることなんて、誰も知らない。


 十二月上旬。

 今年はまだ、境の市に降る雪はない。

 少なくとも、そのときは、まだ……。


 3


 冬夜はその光景を、ずっと見ていた。

 何が始まったのかは分からなかったが、それは見る限りではまるで神聖な儀式のようだった。

 巽は何やらお経のような言葉を呟き続けている。

 小声すぎて全てを聞き取ることはできないが、それは呪文のようにも聞こえた。

 かたや夫婦の二人はただじっとろうそくの炎とその中心に寝かされている我が子を凝視しているだけだった。

 こちらにもどんな意味があるのか、やはり冬夜には理解できなかった。

 だが今こうして目の前で行われていることが、少なくともおふざけや冗談の類ではないことはしっかりと理解できた。

 彼ら三人の目つきや姿勢は真剣そのものだった。

 言い方を変えれば、どこかしら追い詰められているようにも見える。

 その焦りや不安の色を無理矢理塗り潰して、表面上は冷静を取り繕っているような、そんな感じだ。

 ただ見ているだけでも、冬夜は額に汗が浮かんでいた。

 それはろうそくの炎の熱さなどではなく、張り詰めた空気に押し出されたような汗だった。

 ふと気がつけば、石のように動かなかった体は今はもうなんともなくなっている。

 冬夜は袖口で額の汗を拭い、小さく息をつく。

 のどの奥はからからに乾き、声もずいぶんと掠れている。

 小声でも話し声でも、恐らく彼らに気づかれるようなことは万に一つもないだろう。

 かといって、冬夜はこの状況で口に出す言葉はおろか思い浮かぶ言葉さえ一つもない。

 何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか。

 今はただこうして無言のまま、成り行きを見守ることが一番の選択なのではないかと思う。


 『知りたければ、まずは自分を知ることだな』


 唐突に頭の奥で響いた言葉。

 その言葉を、覚えている。

 だが、意味を汲み取れない。

「……こうしていることが、自分を知るってことなのか……?」

 冬夜は呟く。

 案の定、これだけ静まり返っているのにもかかわらず、彼らは誰一人としてこちらを振り返らない。

 しかし冬夜は、とうにそんなことなど問題にしてはいなかった。

 ひとたび思い出してしまえば、あとはもう芋づる式だ。

 あの正体不明の存在の言葉が、湧き上がるように記憶の水底から浮かんでくる。


 『知って、そして絶望しろ。知らなければよかったと、せいぜい悔いることだ……』


 その言葉と共に吐き出された哂い声。

 何がそこまで彼を愉しませているのだろう。

 いや、それ以前にそもそも彼はなんなんだ?

 考えれば考えるほど、疑問の終着点は彼に繋がる。

 彼が何者なのか。

 それがきっと、冬夜の自分自身を知るという結果に一番近いような気がしてならない。

 だが、彼はそれをよしとはしていないようだ。

 あくまでも冬夜自身に、自分という存在を知らしめようとしている。

 それによって何があるというのだろうか。

 あるいは、そうさせることによって何か別のことが……。

 などと、冬夜が考えを巡らせている中。

 異変は起きた。


 ダン、と。

 静か過ぎる部屋の中に、その物音は響き渡った。

 その音に巽が、彼女が振り返る。

「……が、あぁ……っ、あ……」

 彼女の隣。

 夫である彼は、急に片腕を床に付いたまま苦しみ始めた。

 額や首筋にはいくつもの汗が珠になって浮かび、表情は苦痛に歪ませながら歯を食いしばっている。

「ゆ、雪彦……?」

 彼女は慌てて彼の背中に手を添える。

 しかし彼は、その腕を乱暴に振り払った。

「どうしたの雪彦? ねぇ、ねぇってば!」

「あぁ……っ……が、あ……」

 どう見てもその様子は尋常ではない。

 禅を組んでいた巽も、急いで彼の傍らに歩み寄る。

「雪彦君、気をしっかりと持ちなさい。落ち着いて、集中するんだ」

 諭すように、巽は言葉をかける。

 しかし、彼の苦しさは収まるどころかますます増大していく。

「があぁぁぁぁぁっ!」

 そして彼が叫んだ、次の瞬間。

 ダン、と。

 再び衝撃の音。

 見ると、妻である彼女と巽の体は別々の方向の壁に向けて吹き飛ばされ、背中を打ち付けていた。

「……ゆ、雪……ひ、こ……」

「ま、まさか……」

 口々に言葉を呟くが、すでに彼には言葉は聞こえていない。

 立ち上がった彼は、両腕をだらんと力なく宙にぶらさげてる。

 腰は前屈みに折れ曲がり、今もなお口からは荒い呼吸を繰り返している。

 その姿は、血に飢えた獣を想像させた。

 そこにすでに、理性は欠片も残されていない。

「…………め、ろ……」

 彼が何事か呟いたが、吹き飛ばされた二人には聞き返す気力もない。

「……やめ、ろ……やめろ……」

 彼は狂いながら繰り返す。

 そして一拍の後、吼えた。


 「――俺を……俺を消そうとするなあぁぁぁぁぁっ!」


 直後、突風かと思うような風が吹き抜ける。

 いくつかのろうそくの炎はかき消され、その雄叫びのような叫びに眠っていた子供達がわずかに身をよじらせた。

 それを、彼は見た。

 目下で小さな寝息をたて、目を閉じて眠るその姿を。

「…………え、……れば……」

 その小声を、彼女は確かに聞き取った。

「雪ひ……やめ、て……」

「お前……え、……なければ……」

「やめ……」

 しかし言葉は届かず、彼は歩み出した。

 そしてそこにある、一振りの刀を握る。

 それは本来、御神刀として奉られている刀。

 だが、刀である以上は性質は全く他のものと変わらない。

 つまり。

 金属と木が擦れ合う。

 おそろしくゆっくりな抜刀の鞘走り。

 響く音色は、まるで鈴の音の残響を思わせるかのよう。

 曇り一つない白銀の刀身が露になり、ゆっくりと切っ先を覗かせる。

 カラン。

 彼は鞘を投げ捨てた。

 右手に握るのは、美しすぎるほどの白銀の刃。

 揺れる炎が、刃をよりいっそう美しく引き立てる。

 その柄を、壊れるほどに強く握り締めて。

 彼は、切っ先を向けた。


 「――お前さえ、いなければ」


 その声に、色はない。

 切っ先の向いた先。

 そこには。

 今もただ、何も知らずに眠り続ける子供の姿。

「やめてぇぇぇぇぇっ!」

 彼女の悲鳴さえ、彼には聞こえない。

 ただ、本能のままに。

 握り締めた刃を、天高くかざし。

 一気に、振り下ろすだけ。


 冬夜は頬に指を這わせた。

 そこには、ぬるりとした生暖かい感触がある。

 指先で掬い取る。

 それは。

 暗がりの中、炎が揺れた。

 その炎さえも包み込めるであろう、赤い色。

 視線を上げる。

 同時に、音が鳴る。

 ピチャン。

 落ちる雫。

 どこまでも赤く、赤く。

 美しすぎる赤い水溜りが、すぐ目の前まで広がってきている。

 むせ返るほどの鉄の匂い。

 赤い水溜りの中心で、誰かが倒れている。

 その胸の中に、小さな二つの命を抱えて。

 そうして倒れる誰かを、もう一人の誰かが見下ろしている。

 その手に。

 血塗れた白銀の刃を、握って。

「…………」

 冬夜はその光景に、声を失う。

 なんだ?

 なんだ、これは?

 何が、起こった?

 答えはない。

 ただ、一つだけ。

 かろうじて耳に届いたのは、彼女の消え入りそうな声。

 どこか懐かしい匂いのした、彼女の声。


 「……ごめ、ん……ね……」


 どうして、謝るのだろう?


 「ごめ……ん、ね……」


 どうして、泣いているのだろう?


 「……生き、て……お願い……」


 どうして、彼女は……。


 「……せつ、……な。……と、とう……や……」


「……え……?」

 誰かに、呼ばれた気がした。

 とめどなく流れる赤の向こうに、何かを見たような気がした。

「……か……」

 そこに。

 彼女は、横たわっていた。

 その胸に、二人の子供を抱きかかえて。

「かあ、さ……ん……?」

 答えは、ない。


拝読ありがとうございます。

作者のやくもです、こんにちは。

回想編もようやく区切りに向かっています。

ただ、もう少し引き伸ばしてもいいかな? と思うところもあり、次回が引き続き回想になるか、あるいは展開が変わるかと悩んでいます。

まぁ、なるようになれっていう勢いで書くんですけどね。

書き始めた当初は15話くらいで終わりかなと思っていたんですが、きてみればもう15話なんて過ぎ去ってます。

書きながら色々と追加の展開や書きたいことが浮かんでくるとキエイがないと分かってるのですが、やはりこうなってしまいました。

そんなわけで、なにやらもう少し物語りは続きそうな予感がします。

飽きがこないようにだけはしたいのですけど、なかなか難しいところです。

では、今回はこの辺で失礼します。


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