第十四幕:光と闇の追憶(1)
1
一転して、光に包まれた。
眩しすぎるほどの明るさが目を焚きつける中、冬夜はゆっくりと目を開けていく。
「……ここは……?」
霧のように広がる光が、徐々に消えていく。
そしてふと、気付く。
今の今まで体の自由さえまともにきかなかったのに、今はちゃんと地面に足がついていた。
その感覚はひどくおぼつかないものだったが、足を踏み出せばその足はちゃんと地面を踏みしめてくれた。
踏みしめた大地は、石造りの地面だった。
白や灰色の石畳が並び、途切れたそこからは小石や砂の混じる砂利の地面が広がっていた。
周囲は木々に囲まれた小さな雑木林のようになっており、さわさわと吹く冷たい風が妙に優しい。
遥か頭上には輝く太陽。
雲ひとつない青天の中、暖かい日差しを地上に降り注がせている。
ぐるりと周囲を見回して、冬夜はここに確かなデジャビュを覚えた。
自分の立つこの石畳も、周囲の林も。
それに何より目立つ、その赤い鳥居は間違いなく……。
「家、なのか……」
見上げたのは神社の鳥居。
冬夜はゆっくりとした足取りで、鳥居の真下へと歩を進める。
石畳の上に散らかった小石や砂を踏みつける音がじゃりじゃりとこだまして、歩くたびに何か大切なことを思い出しそうになる。
しかしまだ、それがなんなのかは分からない。
冬夜は鳥居の柱の片方の根元まで歩くと、そこにしゃがみこんだ。
そっと指先を伸ばし、赤い柱に触れる。
「この傷は……」
そこに、小さな傷跡があった。
傷跡というよりは、それは落書きのようなものに近かった。
いつの頃だったろうか。
ずいぶんと昔だが、石か何かでこの場所にいたずらをしたことがあったような気がする。
確かそのときは、巽にもこっぴどく叱られたような……。
「……あれ?」
また何か、妙な違和感を覚える。
そのとき、自分は一人だっただろうか?
誰か他に、隣にいたような気がする。
対馬だったっけ、それとも佐野だったっけ?
いや、どちらでもないような……。
「…………」
胸の奥にぽっかりと穴が開いてしまったような感覚。
記憶の断片が、奇麗に切り取られているようだ。
いや、しかしそれでも……。
「……いたはずだ」
確かに覚えている。
「誰か、もう一人……」
ノイズ混じりのイメージ。
面影も笑い声も思い出せない。
けれど、いつも傍にいた。
しばしの間、冬夜はうなるようにその場に屈んでいた。
すると、すぐ手前の階段の下からいくつかの足音が近づいてきていた。
それに混じって、幼い子供のはしゃぐような声も聞こえる。
なんだろうと思い、冬夜は腰を上げる。
そして数歩ほど歩み寄り、遥か階下へと続く長い長い階段を覗き込んだ。
その、ちょうど中腹の辺りに。
――まるで、絵に描いたような理想の家族があった。
両親と思われる父親と母親のそれぞれの腕の中には、一人ずつの幼い子供が抱きかかえられていた。
隣り合い、寄り添うように石段を登る夫婦。
ゼロに限りなく近いその距離の狭間で、二人の幼い子供がじゃれあうように小さな手を振り回していた。
「え…………」
そう呟いた冬夜の声は、吹きぬけた風にあっさりと攫われた。
そして立ち尽くし、石段を登ってくるその家族から目が離せなくなっていた。
彼らが石段を一つ、また一つの登るたび、冬夜の胸の奥で心臓の鼓動が跳ね上がった。
それは緊張とか、衝動とか、慟哭とか。
そういう、言葉ではとてもじゃないけど表現できない感覚。
それでも無理矢理に言葉で表すとしたら、それは恐らく。
――追憶。
ドクン。
また心臓が大きく跳ね上がる。
瞬きすら忘れて、目の前に広がる光景に見入っている。
彼らの笑い声。
次第に近づいてくる足音。
垣間見える、笑顔。
父親の方は、人目で若いという印象を受けた。
外見だけで判断するならば、その表情や仕草は成人したばかりと言っても通じるくらいだと思う。
顔立ちも整っており、一言で言ってしまえば美男子だった。
彼が小さく笑うたびに、腕の中の子供と彼に寄り添う母親から笑い声が零れた。
母親は長く黒い髪を風に揺らし、同じように腕の中にもう一人の子供を抱いていた。
黒は闇に最も近い色なのに、この女性の黒い髪の毛はどこまでも透き通っているように見えた。
腰の辺りまであるであろうその長い黒髪が、左右の林の奥から吹く風に揺られるたびにさらさらと音が聞こえてくるかのようだった。
女性は少しだけ鬱陶しそうに、自分の長い髪を手の甲で掬った。
そこに見えた、微笑んだままの横顔。
ドクン。
再び心臓の鼓動が高鳴る。
もはや瞬きどころか、呼吸する暇さえも忘れてその光景から目が離せなくなっている。
一段ずつ、石段を登る彼ら。
その場で立ち尽くす冬夜。
互いの距離はどんどん縮まっていく。
彼らの足は、もうあと数段ほど石段を登りきれば、冬夜の立つ石畳と同じ高さの地面だ。
だが、そんな近距離にやってきても。
――彼らの視界の中に、冬夜は決して映らない。
やがて、彼らが長い長い石段を上り終える。
そして、袖口さえ触れ合ってしまうほどの距離まで近づきながらも。
彼らはそのまま、立ち尽くす冬夜の横を静かに素通りしていった。
瞬間、また穏やかな風が凪いだ。
照りつける太陽の暑さは届かないのに、その風だけはどこか温もりによく似た暖かさを含んでいた。
過ぎ去った彼らと立ち尽くす冬夜の背中が、少しずつ離れていく。
だけど冬夜は、後ろを振り返ることができない。
今も微かに残る、残滓のような残り香。
ふわりと香る、懐かしい匂い。
言葉には出せない。
だから、何度も何度も胸の内で呟いた。
たった一言。
答えは返ってこないと、分かっていたけれど。
――貴方は、誰ですか?
通り過ぎた背中に、その声は届かない。
2
「ご無沙汰してます、叔父さん」
彼は腰を折り、深々とその頭を下げた。
それに倣って、彼女も小さくお辞儀をした。
「お久しぶりです、叔父様」
二人が揃って顔を上げると、正面に構えた巽は笑みを浮かべた顔で答えた。
「わざわざ遠路はるばる、二人ともよく来てくれたね」
互いに以前会ったときのことを思い出しているのだろうか、一拍の間が流れる。
「さぁ、立ち話もなんだろう。小汚いところだが、上がってくれ」
二人は一度だけ顔を見合わせて、互いに小さく頷いた。
「それじゃあ、失礼します」
「お邪魔します」
それほど広くもない玄関で、二人は揃って靴を脱いだ。
そして家の中に上がると、今度はそれぞれの腕に抱えた子供達の靴を脱がせた。
相変わらずはしゃいだままの子供達は。両親の腕から逃れると廊下を一目散に走り出した。
少し先に歩き出していた巽の足元をすばしっこくかいくぐり、笑い声を出しながら追い抜いた。
その光景に、巽も思わず笑みを零す。
「元気がいいじゃないか」
振り返り、両親の二人に告げる。
「はは、よすぎて困ってますよ。本当に」
「あら、夜泣きを繰り返していた時期に比べれば、ずいぶん大人しいと思うわよ?」
「まぁ、それもそうか」
二人は互いに笑いあった。
巽は視線を戻し、廊下の上で転がりじゃれあう子供達の姿を見た。
その様子はまるで産まれたての子犬や子猫にそっくりで、この子供たちがもう今年で三歳を迎えるなどとは信じられなかった。
「……早いもので、もう三年近くになるのだな」
スリッパに履き替えた二人が廊下を歩き、巽の隣で立ち止まる。
「……そうですね」
「光陰矢のごとし、とはよくいったものだ。前に会ったのが、まるで昨日のように思えてくる」
「あら? 叔父様、その歳であんまりしみじみと言わないでくださいよ」
彼女は苦笑いをしながらそう言った。
「そうですよ叔父さん。まだ四十にもなってないじゃないですか。今のセリフは、少なくとも還暦してからにしてくださいよ」
「む……それもそうかもしれんな」
三人は揃って小さく笑い合った。
その笑い声の理由がなんだか分からない二人の子供達は、きょとんとした表情でその光景を眺めていた。
二人の子供は、和室の片隅で積み木遊びを始めていた。
カチャカチャと積み重なる音に、ガラガラと崩れる音が交じり合う。
しかし幼い二人の子供は、崩すことの方がまるで楽しみのようだ。
ある程度まで積み木をくみ上げると、我先にと手足を伸ばして作り上げた謎のオブジェを崩壊させた。
「さて、と……」
目の前に差し出された茶を一口含み、巽は湯呑みを机の上に置いた。
コトリ。
そのなんでもないただの物音が、やけに長く大きく響く。
「君達がこうして再び私の元を訪れてきたということは、決心は固まったようだね?」
机を挟んで反対側に膝を折って座る二人に、巽は問いかけた。
二人は一度だけ互いに視線を合わせると、同時に巽を向き直って答えた。
「はい」
その言葉に、迷いはない。
もしも迷いがあったなら、二人はこうして巽の前にいることはなかっただろう。
前に出会ったのは、今から二年と九ヶ月ほど前。
そして同時に、そのときが最初の出会いでもあった。
「……そうか……」
二人の真っ直ぐな答えに、巽は正直後ろめたさや自責の念さえ覚えていた。
本来なら自分は、この二人から恨まれ、罵られ、あまつさえ殺されたって何も文句をいえない立場なのだから。
「……すまない。こんなとき一体、どういう言葉がもっとも適切なのか、今の私には判断しかねる」
巽は座ったまま、深々とその頭を下げた。
それこそ、机の上に額をこすりつけてしまうのではないかというほどに。
「頭を上げてください、叔父様」
彼女は慌てて膝を崩し、巽の肩に手を添える。
「そうですよ叔父さん。これでも僕達は、長い時間話し合って、それで決めたことなんですから」
その言葉に救われたわけではない。
だが、彼らの言葉に対していつまでもこうして頭を下げ続けているというのは、逆に無礼な態度なのではないだろうか。
巽はそう思うと、ゆっくりとその頭を上げた。
しかし、もう次に続ける言葉を巽は持ち合わせていない。
たとえどんな言葉を探し、口にしても、それが詭弁にしかならないと自分で分かっていた。
それでも、目の前に移る二人の顔がこうした笑顔だと、救われたと思いたくもなってしまう。
間違いだと分かっているのに。
それを正すことも、止めることもできずにいたあの日の自分。
今日まで、どれだけの後悔を繰り返しただろう。
眠れぬ夜を過ごしただろう。
だがそれはきっと、目の前の二人も同じ。
自分一人だけに悲しむ権利はない。
「……すまん」
結局、それしか言い出せなかった。
その後三人は、これまでの互いのことについて話を始めた。
とはいっても、巽のこれまでの二年九ヶ月の時間など、言葉にすればものの数分で語り終えてしまう。
なので、話題はもっぱら新婚家庭でもある二人のものだった。
「でも本当に、見れば見るほどそっくりよね」
部屋の隅で未だに積み木遊びを続けている子供達を見て、彼女は言った。
そこで騒ぎあう二人の子供の姿。
なるほど、確かに。
「いくら双子でも、あれは親でも見分けつかなくても仕方ないんじゃないかって」
続けて彼が笑いながら言った。
無邪気に積み木細工を手にする二人の子供は、まるで鏡映しそのものだった。
世界中に双子の存在は吐いて捨てるほどいるし、その中にはそっくりな双子なんてごまんといるだろう。
むしろ、外見があまりに似通っていない双子の方が珍しいくらいだ。
しかし、見た目はもちろんのこと、性格や好みまで全く同じとなれば、数も限られてくるのではないだろうか。
今こうして積み木遊びに夢中になっている二人もまさにそれで、見た目はもちろん性格も何もかもが全く同じ。
それこそ、まるで鏡の中から抜け出してきたんじゃないかと思うくらいだった。
着ている服も同じ、髪型も瞳の色も同じ。
日常の中でふと見せる何気ない仕草や素振り、クセまでそっくりそのまま。
なので、親である二人も見分けがつかなくなることが一回や二回じゃなかったという。
「まぁ、結局のところは名前で判別してるんですけどね」
彼はやや苦笑いを浮かべながら、二人の子供を見やる。
「もしもこれで、漢字だけ違う同じ名前をつけていたら、大変なことになってたかも」
そう言って彼女は笑った。
「おいおい、勘弁してくれよ……」
彼は彼女のその発言に、飲みかけたお茶を噴き出しそうになってゲホゲホと咳き込んでいた。
そんな二人の会話を、巽も笑みを浮かべて聞いたいた。
そうやって表面上は笑っていることができるだけ、今の自分は幸せなのかもしれない。
果たして、明日の夜にもこうして同じ笑みを浮かべることができるだろうか?
そう思うと、胸の内が締め付けられる思いだった。
「――恨んではいないか? 私のことを……」
巽の声は低く小さく、しかし向かい合って座る二人の耳にしっかりと届いた。
その言葉に、二人の間の談笑が消え、わずかな静寂が訪れる。
たがて二人は崩した足を組み直し、静かに巽に向き直った。
「最初はね……」
口を開いたのは彼女だった。
「最初は、叔父様のことをどう考えても理解できなかった。本当に正気の沙汰の人間の言葉なのかなって、思ったこともあった……」
目を閉じて、巽はただその言葉に耳を傾ける。
「育てていくに連れて、愛しさだけが膨れ上がっていった。血の繋がりも何もない、偽りだらけの親子だったけど……それでも、やっぱり愛情は芽生えちゃったもの。一度芽生えたら、もうあとは止まらないよ。誰がなんと言おうと、あの子達は私達の子供だった」
彼女の言葉の一つ一つが巽の胸を刺す。
痛みとは違った何か別の感覚が、胸の奥でくすぶった。
「それがたとえ、限りなく残酷な運命を背負わされたものだとしても。その運命を背負って、これから生きていかなくちゃならないんだとしても。それでもあの子達は、こうして呼吸をしている。笑ってくれる。私達の手を握ってくれる。だから、だからね……」
彼女は一度目を伏せた。
そしてその垂れた長い黒髪を大きく掻き分けながら、言った。
「――あの子達は、私達の希望。絶望は、明日でおしまい。全部、私達が持っていくから」
その言葉に。
やはり、巽は……。
「…………すまない」
そうとしか、返すことができなかった。
3
その話を。
冬夜もずっと、そこで聞いていた。
巽のすぐ後ろに、立ち尽くしたまま。
こんなにも近くにいるのに、巽はおろかあの夫婦さえも冬夜の存在に気がついていない。
まるで冬夜自身が背景の一部として溶け込んでしまったか、あるいは……。
本当に、彼らの目には映っていないかのように。
そして冬夜の中で、すでに答えは出されていた。
恐らく後者であろう、と。
そうであれば、先ほど境内のところですれ違ったはずの彼らが自分の存在に全く気付かなかったことにも説明がつくからだ。
ではなぜ、そんなことが起こるのか。
それはなかなかに信じられないことではあったが、そうとしか考えることができなかった。
――少なくともこの場所で、冬夜は存在を認識されていない。
もっと分かりやすく言ってしまえば、存在していないのだ。
なぜならここは恐らく、冬夜がこれまで生きてきた世界とは全く違う時間軸の世界だから。
そのもっとも分かりやすい証拠が、今こうして目の前にいる叔父の巽の姿だった。
その姿はまだ若々しく、体格や口調、表情一つとってもすぐに分かる。
今しがた聞いていた彼らの会話が正しいのなら、目の前の巽は十年以上も前の姿ということになる。
むしろ全くの別人ではないのかと疑いも持ち始めるが、会話の中でもこの人の名前は巽だった。
加えて、独特なこの口調。
年齢こそ違うものの、十年間を共に過ごして見てきた雰囲気や仕草などが、この人も巽であると言っている。
つまり、だ。
ここは、十年以上も前の世界ということになる。
じゃあどうして、そんな時間軸のずれた場所に自分はいるのだろう?
冬夜が今更になってそんなことを考え始めたとき、頭のどこかで何かが囁いた。
『――俺が掘り起こしてやるよ』
「……え?」
それはどこかで聞いた声。
けれど、懐かしさなどは全く感じられず。
むしろ、深く暗い声色で。
『――全てを明かしてやるよ』
聞き覚えはあった。
だが、思い出そうとすると記憶が混濁し始める。
「あ、れ……? お前、は…………」
『――お前のこと、俺のこと、俺達のこと』
「……そう、だ……お前は、俺の……中、の……」
足元がふらつく。
割れるように痛み出す頭を両手で抱え、冬夜は音もなく崩れ落ちて膝をついた。
まるで、逃れられない運命に跪くかのように。
『――そして、全ての始まりをな……』
「……これ、が……?」
薄く開く視界の先。
若かりし頃の巽と、一組の夫婦。
そして、双子の子供。
「全ての……始まり…………」
そして、意識は途切れた。
視界の先の景色が徐々に薄れていく。
闇に、覆われる。
全ての光が闇に閉ざされようという、その瞬間。
「――や、――き……」
冬夜はその、女性の声を聞いた。
直後に、ガラガラと何かが崩れ落ちる音。
そこに、なぜか。
――ふいに、誰かに呼ばれたような……そんな気がした。
拝読ありがとうございます。
作者のやくもです、こんにちは。
久しぶりに早い段階で更新を遂げることができました。
とはいえ、実を言うとちょっと風邪気味です。
寝ながら過ごす一日が退屈で仕方なく、体に負担がかからないことといったら執筆活動くらいでした。
今回の更新がやけに早いのはそのせいです。
さて、再び回想編です。
今回は主人公である冬夜の視点がメインで物語が進んでいくのですが、これまたホラーとはかけ離れた内容になりそうで今から不安です。
ですので、読者の皆さんはもはやこれをホラーとして読まず、完結を迎えたときにそれぞれにジャンルを勝手に決め付けていただいた方がよろしいかもしれません。
今頃になって反省すべき点がいくつもでてきます。
とまぁ、そんなこんなではありますが、私としてはがんばっているつもりですので、今後もお付き合いいただければと思います。
少し長くなりましたが、それではまた次回で。