第十幕:相容れぬ夜に踊れば
1
まず初めに感じたのは、むせ返るような鉄の匂いだった。
視覚よりも聴覚よりも、真っ先に嗅覚が働いた。
その、あまりの腐臭……異臭、悪臭と言い換えてもいいだろうか。
とにかく、今まで感じたことのないほどの恐ろしく吐き気を誘う匂いに、冬夜は反射的に口元を手で覆った。
「う、げほっ……」
胃液が逆流するかのような不快感。
口から直接手を突っ込まれて、ぐちゃぐちゃと直に胃の中を掻き回されているようだ。
あまりの異臭に、冬夜の体はわずかに後ろへとよろめいた。
倒れるのを堪えるように、どうにか片方の足で体を支えるが……。
――パシャ。
半歩ほど引いた足が、そんな音を立てる。
まるで、小さな水溜りの中に足を踏み入れてしまったかのような音だった。
その音に、冬夜は口元を押さえながら視線をゆっくりと地面に向ける。
暗がりでよく見て取ることはできないが、確かに冬夜の靴は水溜りのような場所に踏み込んでいた。
真っ黒な液体の表面に、小さな波紋が揺れるのが微かに見て取れた。
だが。
それは、水溜りなどではなく。
なぜだか分からないが、妙に鮮明と伝わる感覚があった。
それは、靴を履いた足の裏から。
ぬるりと、何かこう、浅く溶かした絵の具を踏みつけてしまったような。
そして冬夜は、ようやく気付いた。
口元を覆っている左手ではなく、もう片方の右手に。
そこに、あの日拾った白銀の刃がしっかりと握り締められていることに。
「な……」
驚愕と混乱が一気に押し寄せた。
どうして自分は、この刃を握り締めているんだ?
他でもない、自分自身に問いかけた。
しかしどれだけ迷い、足掻いても、記憶の一部分がすっぽりと抜け落ちてしまっているかのように、何一つ思い出せない。
かろうじて思い出せるのは、あの日の夜。
その、握り締めた刃を手にした、その日の夜のことまで。
だがその日は、ちゃんと自分の足で家まで歩いて帰ったはずだ。
そしてこの剣も、ベッドの下に隠すようにしまい込んだはず。
それが、なぜ。
どうして、今。
ここにこうして、握っている?
どれだけ自分に問いかけても、やはり答えは分からない。
ここがどこなのかも、どうしてここにいるのかも、どうやってここにきたのかも。
「なん、だよ……これは……なんなんだよ!」
力任せに、冬夜は手に握った刃を地面に叩きつけようと振り上げて。
その刃の切っ先から中ほどにかけてまでが、黒一色に塗り潰されているのを見た。
それは白銀の色を放つ刃の色とは極めて対照的な漆黒の色。
だが、それはどうやらまだ闇になりきれていない中途半端な黒のよう。
「……」
振り上げかけた刃を引き戻し、食い入るように見つめる。
だが視界は暗く、まともに視力が働かない。
ちょうど、そんなときだった。
まるで見せてやろうと言わんばかりに、頭上の暗雲の中に隠れていた半月が、今更になってゆっくりとその姿を下界に晒し出した。
一筋の光。
閃光と言ってもいい。
一本の線のように降り注いだその光の中で、白銀の刀身は妖しく輝いた。
そしてその刃が、切っ先に向かうに連れて。
刃は黒く、変色していた。
だがそれはやはり、完全な黒ではなくて。
冬夜は刃先で指を切らないように注意しながら、その黒く付着したものに触れた。
その瞬間。
ついさきほど、靴底を貫いて足の裏から感じたのと全く同じ、ぬるりという気味の悪い感触が伝わった。
親指と人差し指のはらの上で、液体から固体へと変わる途中の黒いそれは蠢いた。
そしてそこから香るのは、周囲一面にむせるように広がる鉄の匂い。
「これ、まさか……」
指の上で踊る黒。
しかしすでに、それは黒にあらず。
それは、赤から黒へと成り変わる途中の褐色。
そして、命の色を示す真紅。
「血……なのか……?」
疑問にはしてみたものの、答えはとっくにはじき出されている。
この吐き気さえ覚えそうになる異臭が、最初から全てを物語っていた。
まだ固まっていない血が、刃の切っ先からぽつりと落ちる。
その先には、黒い……いや、赤い水溜り。
ぴちゃんと音を立て、赤に赤が混じり合う。
ようやく、分かった。
足元から感じるそれは血溜まりで、刃に付着したそれも血で。
でもそれらは決して、自分の体から流れ出したものなどではなくて。
「俺は……何を……」
震える言葉。
もはや自分の声さえも耳の奥にまでは届かない。
ただ、心臓の鼓動だけがいやに高まっていく。
足元から徐々に、視線を上に。
血溜まり。
刃。
壁。
空。
月。
そこに、異物が混じりこむ。
壁と空の間。
確かに目は捉えた。
そこに転がる、すでに生物としての原型など当の昔に失ってしまった何かを。
「う……あ……」
声が出ない。
声を出すなと、声にならない声で叫ぶ。
それは、見てはならない。
だからもう、その月を見上げた視線を再び地平に戻してはならない。
だが、それは理解不能の誘惑。
無意識のうちに、視線が落ちる。
見てはならないと、本能は訴えるのに。
好奇心か、それとも恐怖を逸した別の感覚か。
唯一つ確実なのは、動き出した衝動はもう、止まることを知らないということ。
「あ、ああ……」
そこに、それはまるで背景の一部のように佇んでいた。
たとえるなら、人形の四肢をナイフでバラバラにし、残った首と胴体を滅多刺しにしたような……。
――それは確かに、かつて人間だった者の変わり果てた姿だった。
「ああぁああああぁぁぁああぁぁあぁっ!」
半月が世界を照らす夜。
世界のどこかで、誰かが叫んだ。
それがこちら側の世界なのか、あちら側の世界なのか。
その誰かには、まだ分からない。
2
「叔父さん!」
その声に、巽は振り返った。
見ると、向こうから全速力で対馬が駆けてきていた。
そのやや後方に、同じく駆けてくる佐野の姿も見受けられる。
二人は互いに真っ白な息を吐き出しながら、すでに陽の落ちた夜の始まりの時間をやってきた。
「おお、圭一君。それに、有紀君」
久しぶりに見たその顔に、巽はどこか安心感のようなものを覚えてしまう。
冬夜が幼い頃から、この二人は良き友達であったことを巽はよく理解している。
だが、こうして顔をあわせるとなると実に何年ぶりだろうか。
そう広くはない市内ではあるが、小学校を卒業する頃にもなるとめっきり顔をあわせる機会もなくなっていた。
だが、そうしていつまでも懐かしさに顔をほころばせている暇はない。
駆けつけてきた二人の目も、息は上がってこそいるものの真剣な眼差しだった。
「どういう、ことですか……?」
まだ整わない呼吸の最中、対馬は腹の奥から声を絞り出した。
「分からん、としか言えん」
しかし巽は、困り果てたような顔で言葉を返す。
「私が対馬君からの電話を取ったとき、すでに冬夜はいなくなっていた。部屋の窓だけが開いていて、靴も玄関に残ったままだ」
「何か、書置きみたいなものはなかったんですか?」
佐野が口を挟む。
しかし巽は、否定する意味合いで首を左右に振った。
「あのバカ、どこで何してやがるんだ。病み上がりの体のクセして……」
不安と焦りから、対馬は怒声を吐き出す。
だが今は、そうしている時間さえも無駄にはできない。
ありえないと信じたいが、今だけは最悪の展開さえ容易に予想できる。
「とにかく、私はもう少しこの近辺を探してみる。すまないが君達は、市の中心を探してみてくれ」
「はい」
「分かったよ」
互いに返事を交わすと、それぞれに背中を向けて走り出す。
その三つの背中のどれもが、執拗なほどに焦っている。
間に合わないと分かっている待ち合わせに、無理矢理滑り込むかのように。
それは全て、冬と言う季節が織り成すもの。
この土地に生まれ育った人間なら、誰もが知っている昔話。
――冬になるたびに、この土地で誰かが消える。
それは、鼻で笑い飛ばせるようなことで。
同時に、知らぬ間に誰もが心のどこかで恐れていること。
そんな季節に、何の前触れもなく誰かが消えたとしたら。
それは、もしかすると……。
「ふざけんな、冗談じゃねーぞ!」
ぐんぐんと景色が流れていく。
全力疾走に近い速度で走りながら、対馬は何度となく口の中で毒づいた。
時刻は夜の七時を少し過ぎていた。
この時間ともなると、駅前の通りは会社帰りのOLやサラリーマン、部活帰りの学生などでごった返しになる。
だからこうして人探しをしている立場の対馬と佐野にしては、これらの人ごみなどいい迷惑にしかならなかった。
どれだけ足を急がせても、目の前の人波を容赦なく掻き分けて突き進むわけには行かない。
自然、走る速度もやがて歩く速度へと変わっていく。
「有紀、お前中央後援のほう頼む。俺はアーケード一通り見てくるから」
「分かった」
「何かあったら、携帯鳴らしてくれ」
「オッケー」
互いに一つ頷くと、二人はそれぞれ別々の方向に向けて走り出した。
とはいえ、駅前だけではなくアーケードの中もこの時間帯はかなりの混み具合を見せる。
多くの店がタイムサービスやら何やらで客引きを始め、路上にはビラ配りなどの姿も多く見られる。
これでは仮にこの中に冬夜がいたとしても、その姿を見つけて近くに行くことは難しいだろう。
「ちくしょ、これじゃキリがねぇ……」
走り続けたことで、正直言って体力も相当落ちている。
加えて夜の冷え込みは徐々に体温を奪い、息の上がった体を木枯らしがあっという間に凍らせていく。
だが立ち止まってはいけない。
こちらが立ち止まっていても、向こうは遠ざかっているのかもしれないのだ。
進む方向が正しいのか、それとも間違っているのかさえ確かめるすべはないが、それでも立ち止まるわけにはいかない。
待てば待った分、その人は遠くへ行ってしまうのだ。
「……冬夜、どこだ……」
その名を呼ぶ。
大切な友人の名前を。
「どこにいる……」
歩き出す。
とにかく、前へ前へ。
もう、これ以上。
失うことに慣れるのは、嫌なんだ……。
なんだかんだで、圭一のああいうなんでもないような気遣いは今も変わっていなかった。
走りながら、佐野はそんなことを思う。
今の時間、どう考えたって中央公園方面には人数は少ない。
対して、アーケードの中はそれこそ人の波で大変な混雑になっているだろう。
女としての体力を考慮した上で、対馬は互いの分担を決めていた。
こういう事態でもそういう配慮が行き届いているのは、相変わらずというかなんというか。
正直な意見として、あのチャラけた外見からはあまり想像もできない。
だけど、佐野は知っている。
対馬が見た目なんかよりもずっと、友人と言う存在をだれだけ大切で特別なものとして扱っているかを。
それは他人の目から見れば青臭い友情程度にしか映らないのかもしれないけれど。
佐野は少しだけ……ほんの少しだけど、そういう友情に嫉妬する。
「……何考えてるのよ、私」
小声で言い聞かせながら、走る足はそのままに気持ちを切り替える。
自転車やバイクがそこら中に駐輪されている歩道を駆け抜けると、大通りを渡る信号に引っかかる。
目の前を横切る道路のほうが交通量が多いため、ここの信号機は時差式で待ち時間がやたらと長いことでも有名だ。
こうして気持ちが焦っている状況だと、こうした何気ない待ち時間でさえも苛立ちを覚えてしまう。
絶対にそうだとは思いたくはないのだが、心のどこかでやはり最悪の場合を想定してしまう自分がいる。
それは、とても嫌なことだった。
ぎゅっと奥歯を噛み締める。
最悪はない。
あってたまるか。
何度も自分に言い聞かせる。
しかしそれでも、心の霧は晴れない。
消えかけの炎ほど、勢いよく煙を立ち上らせるのと同じ。
透明な不安が熱を持ち、やがて灰色に。
焦りが形となって、黒ずんでいく。
嫌だ。
こんな感覚は、嫌だ。
「……っ!」
音もなく舌打ちをしたその瞬間、信号は赤から青へと変わった。
それをきっかけにスイッチが入ったかのように、一瞬の間を置いて佐野は横断歩道を横切った。
向かいの歩道に足を踏み入れたとき、ふいに何かが遠ざかるような錯覚を覚える。
「え……」
自分の周りの空間だけが時間軸をずれ、まるで切り取られたように。
やけにゆっくりと動く世界の中に、見慣れたその背中を見過ごしたような気がして。
「冬夜!」
叫んで、振り返る。
近くを歩いていた通行人が、何事かと顔を上げて佐野の姿を凝視した。
しかし。
佐野の視界の中に、もうその姿は映っていない。
「あ、れ……」
立ち尽くす。
やがて驚いて振り返った人々も、それぞれの足で遠ざかっていった。
「何よ、今の……」
某立ちする佐野の体を、冷えた空気が切り裂いた。
痛みはない。
だが、胸の奥にちくりと残る拭えない痛みが一つ。
「……嫌だ、なんなのよ、これ……」
その正体不明の感覚を振り払って、再び走り出す。
公園の敷地は目の前に迫っていた。
大丈夫。
何もない、何もないから……。
けれど、不安は徐々に色を濃くしていくだけ。
パレットの上の虹の色。
全部混ぜた。
もう、黒にしか近づけない……。
3
頭上から襲い掛かるのは、間違いなく一撃で致命傷を与えられる斬撃。
それを体で受けるわけにはいかず、かといって彼の手に握られたのと同じ白銀の刃で受けるわけでもない。
神楽はただ、ギリギリで身をかわしている。
「くっ……!」
しかし、物事には何でも限界というものがある。
こと今の状況に当てはめて言うならば、それは体力。
「はぁ、はぁっ……」
防戦一方の神楽は、すでに荒い呼吸を繰り返している。
いや、鞘から刀そのものを抜いてすらいないのだから、防戦ですらないのかもしれない。
一方、同じように動き続けているというにもかかわらず、対する相手はわずかな呼吸さえ乱れてはいない。
それどころか、まるでこちらが紙一重で避けれることを予め計算しているかのような太刀筋で攻撃を加えてくる。
最初は髪の毛一本。
次は服一枚。
そして皮一枚。
もはや、一方的に弄ばれているとしか思えない。
「どうした? まだ剣を抜かないのか?」
彼は嘲るような、罵るような、そんな乾いた声で言った。
しかし神楽は答えられない。
答える暇があったら、少しでもこの過度な呼吸を沈めなくては、次の一撃に備えられないからだ。
そんな沈黙を続ける神楽に対し、彼は容赦なくその白銀の刃を構える。
そこに剣術などにおける基本的な型は存在しない。
彼の持つ刃は、ただ単純に目の前の生を跡形もなく奪い去るためだけに存在する。
それも、一撃では仕留めず、じわじわとなぶるようにして相手を追い詰めていくものだ。
彼の口元が薄く笑って見えるのは、恐らくそのせいだろう。
「……がっかりだな」
彼が言う。
「前の夜、言ったはずだ。せめて次に出会うときまでには、人を殺せるくらいにはなっておけと」
「……」
しかし神楽は答えない。
呼吸もようやく落ち着いて、なんとか次の一撃に対して回避行動を取ることくらいはできそうだ。
そんなこととはお構いなしに、彼は続ける。
「やらなければやられる。それくらいは分かるだろ?」
「っ……」
それでも神楽は、その手に握った刃を鞘から抜かない。
その様子に、彼は嘆息する。
まるで興ざめしたとでも言わんばかりの、つまらない溜め息。
「これが最後だ」
明らかに空気が変わる。
数メートル離れた距離なのに、威圧だけで押し潰されそうになる。
「抜かないのか? それとも……」
瞬間、神楽の視界の中から彼の姿が消える。
「な……」
その予想もできなかった動きに、一瞬だけ体は硬直する。
そして何か、風のようなものが頬をかすめて過ぎ去ったように感じた、次の瞬間。
「――抜けないのか?」
悪魔のような囁き。
首から上だけが、反射的に背後を振り返る。
そこに。
間違いなく、一つの命を絶命することのできる白銀の刃が迫っていた。
その刃。
生き物の体に触れれば、肉を裂き、骨まで断つ。
まるで映画のワンシーンのように。
永遠のような一瞬が流れ、その刃が神楽の服を、皮膚を、肉を、骨を、神経までもを確実に切り裂ける間合いで……。
「……ん?」
彼はうなった。
素直に疑問を抱いたと言うべきかもしれない。
彼が切り裂いた刃の通り道には、何もなかった。
それは文字通り、ただの空白、空間しか存在しなかったということだ。
確かに、切り裂いたはずだ。
肉を、骨を。
だが、手応えはおろか、そこにあるはずの標的の姿さえも見つからない。
「……」
訝しげな表情を浮かべる彼。
だが、その視線はすでにある一点を見据えている。
「……何をした?」
投げかける問い。
その先に。
「……」
未だに沈黙を守り続ける、神楽の姿があった。
だが、表情からはかなりの疲労困憊が見て取られ、立っているその体も壁についた片手がなくては支えきれないほどだ。
静まりかけていた呼吸が、再び大きくなる。
「…………ない」
「……何?」
その小さな呟きに、彼は耳を傾けた。
「……戦えない」
「……」
彼は答えなかった。
その先に、まだ言葉が続くことを知っていたから。
「――あなたとは、戦えない……」
強い意志を帯びた目で、神楽は言い放った。
しかしそれは、停戦の合図にはならず。
「……フン」
幕間の語りを終えて、なお続くであろう……。
「すぐに心変わりさせてやる」
再戦の合図に、他ならなかった。
月下に、二つの影が踊ってる。
その美しくも危険な円舞曲を、誰も聞けない。
なぜかって?
それはすでに、あちら側の世界で起こっていることだから。
いつも拝読ありがとうございます。
作者のやくもです。
気がつけばこれでもう10話目にもなるんですね。
期間にしてみれば連載開始からまだそれほど時間も経っていないのですが、なんとなく満足感のようなものを味わえるようにはなってきました。
とはいえ、まだまだ先が長そうなことには変わりありません。
ストーチーの展開は書き手も読み手も集中するところであり、ここからが正念場かなと思っています。
そんな作品ではありますが、今後とも見守ってくだされば幸いです。
ではまた、次回の後書きで。