いじめ
赤道付近の国々を旅したことがある人の多くが、「世界中のどこを探しても梅雨明け直後の名古屋より暑い場所はない」と、ハンカチで額の汗をふきながらキッパリと言い放つ。山中幸盛はその世界一暑い名古屋市で、東邦瓦斯の下請け工事会社に勤めている。
蒸し風呂のような炎天下での穴掘り作業から帰宅し、疲れ果てた体を横たえて冷えたビールを飲みながらテレビのプロ野球中継を見ていると、食事の支度をととのえながら妻が小声で話しかけてきた。
中二の長男は部活、中一の次男は近所の空手道場に通っているので、奥の部屋では小学三年の三男が一人でテレビゲームに夢中になっている。
「今朝、シンちゃんが教えてくれたんだけど、ノリ君がイジメにあっているみたいなの」
幸盛は意外だった。三人の息子たちはみな、いじめることはあってもいじめられることはないと思い込んでいたからだ。むろん、次男が直接母親に告げたわけではなく、長男の部活の後輩に次男と同じクラスの生徒がいて、親切心で教えてくれたらしい。
「なんでまた?」
「クラスでいじめられている子がいたのでその子をかばってイジメを注意したら、今度はノリ君をいじめるようになったんだって」
「なんだ、さすがにオレの子だな、かっこいい話じゃないか。で、どんなイジメなんだ?」
「最初は仲間と結託して口をきかなくなって、ノリ君が動じないものだから筆記用具や靴なんかを隠すようになっているみたいよ」
幸盛はため息をもらして体を起こし、あぐらをかいてタバコに火をつけた。自分の子供たちは言葉によるイジメや暴力には強いと信じていたのでその点では合点がいく話で安心したが、陰険姑息な方法で実害が及ぶとなると話は違ってくる。
「ノリのやつ、なんでボスをぶちのめさないんだ?」
妻はあきれ顔で言う。
「お父さんとちがって、ノリ君はやさしい子だから」
「それは違うぞ。そのボスの将来のために、半殺しの目にあわせるべきだ、それが本当のやさしさってもんだ」
妻はため息をついた。
「いまはお父さんの時代と違うんだから。ノリ君はその気になれば簡単に相手をやっつけられると思うよ。だけど、お父さんがことある毎に『能ある鷹は爪を隠す』だの『弱い犬ほどよく吠える』って言い聞かせているから、じっとガマンしてるのよ」
「しかし、そいつも身の程しらずな奴だなあ。ノリが空手でバットをぶち折ったり、瓦を十枚割ることを知らないんだろな」
「強いことは有名みたいだから、もしかしたら、暴力沙汰を起こすと内申にひびくことを計算した上でやってるのかもよ」
「だとすると陰険な奴だなぁ」
「いまのイジメはほとんどがそうみたい」
「困った世の中になったもんだ」
夫が中学生の時に正義心を振り回して不良どもを片っ端から病院送りにし、そのため高校進学を断念して現在の会社に就職したがゆえに安い給料で辛酸をなめている妻は遠回しにきっぱりと言う。
「暴力は絶対にダメ!」
「うーん、どうしたもんだろ」
若い頃と違い、三人の子を持つ親としての分別を弁えるようになっている幸盛は、久しぶりに単純な脳みそを駆使して思い悩んだ。そしてタバコを立て続けに十本も吸って部屋中が煙だらけになったところで名案を思いついた。ネットオークションで手に入れた防毒マスクを顔にあてた妻に提案してみると、やってみる価値はあるとの賛意を得たので、半年ぶりにパソコンに向かった。
翌朝、幸盛は仕事に行く前に、まだ寝ている次男を揺り起こした。
「おい、起きろ」
次男は生まれて初めて父親に起こされたのでいっぺんに目覚め、目をこすりながら首を傾げた。
「どうしたの?」
「この手紙を担任の先生と校長先生に持って行け。中身は同じだ」
「なんで?」
「おまえは知らなくていい。返信用の封筒に切手を貼って入れておいたから、一週間後までに返事をくれと言って渡すんだぞ」
「だから何なのさ」
幸盛は息子がとぼけているわけでもなさそうなので説明することにした。
「学校でイジメられているらしいじゃないか」
「誰が?」
「お前がだ」
「オレが? 誰に?」
「文房具や靴を隠す奴らにだ」
次男はそれでやっとつながったようだ。
「なんだ、誰に聞いたか知らないけど、あれは単なるいやがらせだよ」
こんどは幸盛が驚いた。
「そんな目にあって、お前は腹が立たないのか?」
「クツもシャーペンもちょっと探したらすぐに見つかったからね。今度やったら十倍にして返すつもりでニタニタ笑いかけたら二度としなくなったよ」
幸盛は拍子抜けした。
「おい待て、お父さんはお前がいじめられていると聞いたもんで、徹夜してこの手紙を書いたんだぞ」
「へー、いいとこあるじゃん」
「どうしてくれる」
「何て書いたの?」
「イジメをなくすための唯一の方法を先生に教えてやった」
「ふーん。だったら、せっかくだから先生に渡しとこうか?」
「そうしてくれ」
と言って手紙を渡し、出勤するまでに少し時間があるので息子に尋ねてみた。
「もし、そいつらがまた何かを隠したりしたら、どうするつもりなんだ?」
「殴りかかってくるまでしんぼう強く挑発して、顔に一発受けてやってから、正当防衛で前歯かあばら骨を二,三本折ってやるかも」
「それだとお父さんの二の舞になるぞ」
「正当防衛でもだめなの?」
「だめだろうな。お父さんが中学の時でさえ、九割方は正当防衛だったんだからな」
「アメリカなら認められているのにね」
「ここは日本だ」
「お父さんだったらどうする?」
幸盛は、近くで妻が聞き耳を立てていないかどうかを確かめてから小声で言った。
「窓の外に人がいないのを確かめてからそいつの机を窓ガラスをぶち破って投げ捨てるってのはどうだ?」
次男はあきれ顔でほほ笑み、ささやくように言った。
「考えとくわ」
幸盛は親指を次男に突き出した後、大あくびをしながら会社に向かった。
封筒の中には次の手紙が入っていた。
前略
It is never too early to try; it is never too late to talk; and it is high time that many disputes on the agenda of this Assembly were taken off the debating schedule and placed on the negotiating table.
これは、ケネディ大統領が一九六三年九月二〇日に国連総会で行った演説の一部です。翻訳するとこうなります。
「試みるのに早すぎるということはありませんし、また話し合うのに遅すぎるということもありません。いまや本総会の議題とされている幾多の紛争を、もはや討論の段階ではなく、実際の交渉の場に移すべき時であります」
私の次男、山中教和が1年2組のクラスでイジメにあっているようなので、いじめのない平和なクラスに戻していただけるよう、心からお願い申し上げます。
私は、イジメの問題は私の息子の場合に限らず、いじめる側が百パーセント悪いと強く信じています。その証拠に、私は三人の息子たちに小さいうちから、(自分の心情とは裏腹に)「イジメは最低の人間がすることだ。いじめられるのはいいが、絶対に人をイジメるんじゃないぞ」と言って育ててきました。
学校でのイジメ問題の最大の過ちは、先生方が「いじめられる側にも少しは落ち度がある」と考えている点にあると思います。これでは、イジメをやった生徒が反省することは永遠にないでしょう。
たとえば、鍵をかけ忘れた自転車があったとします。だからといって盗んでもかまわないということにはなりません。先生方は「鍵をかけ忘れた方が悪い」と言っているようなものです。
私は、イジメは国家間の戦争に匹敵する、「絶対悪」だと考えています。万が一納得できる回答が得られない場合、私はこの信念に従い、いじめの首謀者宅に押しかけていって、そのご両親と「一戦交える」覚悟を固めております(コブシひとつで充分。包丁などは持っていきませんのでご安心下さい)。
なぜならば、そのイジメの根本原因はイジメをやった生徒のねじれた性格にあるのではなく、その生徒の性格をねじれさせた親の愛情不足にこそ遠因を求めるべきだと考えるからです。あるいは、親の子どもに対する愛情が子どもに伝わっていないと思えるからです。
事なかれ主義の公務員としてではなく、教育のプロとしての先生方のご英断を期待しております。(万が一、私の息子が人をいじめているのを見かけたら、いかなる理由があろうと、遠慮容赦なくぶっ飛ばしてください。)
敬具
校長先生殿・担任先生殿
某年某月某日 山中教和の父、山中幸盛
* もちろん、幸盛はこの手紙を妻に見せてはいない。
(了)
(ブログ「妻は宇宙人」で公開中のショート・ショート『いじめ』に加筆し、掌編にしてみました)
*中部ペンクラブ事務局2009年8月20日発行 「中部ペン」第16号に掲載
*「妻は宇宙人」/ウェブリブログ http://12393912.at.webry.info/