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その婚約破棄、慰謝料が発生します。 ――王立調停官は、公開断罪の嘘を記録板に刻む  作者: 平八


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21/21

第21話 記録確定:沈黙は同意ではない

朝、調停局に二つの速報が届いた。


ひとつは、王都医師会から。


もうひとつは、監査院からだった。


ミリア・ベルナは、封書を開き、内容を確認する。


一枚目。


オスカー・レナート医師の初回聴取速報。


二枚目。


静養館への予備監査記録。


三枚目。


いずれの記録も、まだ正式確定ではない。


だが、今日の説明聴取に添付するには十分だった。


ミリアは紙束を揃え、エレナ・ヴァイスの机へ置いた。


「医師会と監査院、それぞれから届きました」


「内容は」


「失言と事実です」


エレナは、ミリアを見る。


ミリアは一拍置いて、言い直した。


「失礼しました。初回聴取における関係者発言、および予備監査における物理的確認事項です」


「確認します」


エレナは一枚目を手に取った。


オスカー・レナート医師は、医師会の聴取でこう述べていた。


「私は、侯爵家の意向に従っただけです」


「令嬢本人の強い拒否は確認していません」


「静養が婚約継続意思を示すものかどうかは、医師の判断範囲ではありません」


エレナは、読み終えて紙を置いた。


「医師判断の独立性欠如」


ミリアが書く。


「本人意思確認の不存在」


「静養状態と婚約継続意思の切り離し」


「加えて」


エレナは、二枚目を確認する。


「静養館予備監査。外側施錠確認。面会制限台帳に本人署名なし。訪問者取次記録に、令嬢本人への確認欄なし」


ミリアのペンが止まらない。


「外側施錠による物理的拘束」


「本人確認を経ない面会制限」


「静養館側の管理記録不備」


「本日の記録に統合してください」


「承知しました」


ミリアは、紙束の端を整える。


「医師は保身のつもりで話したのでしょうが、かなり丁寧に土台を崩してくれました」


「ミリア」


「はい。業務表現に戻します」


ミリアは淡々と続けた。


「ラウル・エインズワース侯爵令息が、医師の判断や静養の正当性を説明根拠とする場合、反証として提示可能です」


「提示ではなく、照合します」


「承知しました。照合資料として添付します」


エレナは記録板を開いた。


白銀の文字が、淡く浮かび上がる。


本日実施予定、ラウル・エインズワース侯爵令息説明聴取。


添付資料。


一、王都医師会初回聴取速報。


二、静養館予備監査記録。


三、名誉回復公告掲示記録。


四、本人欠席届。


五、公告後説明文写し。


ミリアは、その文字を見つめた。


それは、これから誰かを糾弾するための刃物には見えなかった。


ただの準備だった。


書類を揃える。


番号を振る。


順番に並べる。


必要な場所へ挟み込む。


その事務作業が、そのまま逃げ道を塞いでいく。


ミリアは小さく息を吐いた。


「準備完了です」


「はい」


エレナは記録板を閉じなかった。


「説明聴取を開始します」


説明の場は、調停局第二記録室で行われることになった。


エインズワース侯爵家は、当初、自邸の応接間を指定してきた。


だが、エレナは受理しなかった。


理由は簡潔だった。


「当事者への心理的圧力が発生する場所です」


次に、侯爵家は王宮内の小広間を提案した。


それも却下された。


「社交空間に近く、説明行為が名誉回復ではなく弁明の演出へ転化する可能性があります」


最終的に選ばれたのが、調停局第二記録室だった。


窓は小さい。


装飾は少ない。


壁際には記録棚。


中央には、長机が一つ。


花も、紋章旗も、家門を示す飾りもない。


誰かの物語を美しく見せるためのものは、何も置かれていなかった。


あるのは、机と椅子と記録用紙。


そして、発言を逃さないための記録板だけだった。


記録板は、机の中央に置かれていた。


薄い銀を流し込んだような表面は、まだ何も映していない。


けれどその静けさは、何も聞かない静けさではなかった。


これから発せられる言葉を、すべて逃さず受け止めるための静けさだった。


ラウル・エインズワースは、時間通りに現れた。


薄い灰色の上着。


白い手袋。


穏やかな微笑。


彼は、この無機質な部屋に入っても、姿勢を崩さなかった。


後ろにはダリオ家令が控えている。


ダリオの顔色は悪い。


だが、家令としての礼は崩していなかった。


「ずいぶん簡素な部屋ですね」


ラウルは言った。


「はい」


エレナは答えた。


「説明内容の記録に不要な装飾を排除しました」


ラウルは、少しだけ笑った。


「装飾は、不要ですか」


「本件には」


「なるほど」


ラウルは椅子に腰を下ろした。


その動作は優雅だった。


だが、彼の前に置かれた紙束だけは、その優雅さを許さなかった。


名誉回復公告写し。


警告文写し。


ラウル・エインズワース作成の説明文。


王都医師会初回聴取速報。


静養館予備監査記録。


そして、イレーネ・カーディル本人意思確認記録。


ミリアは、机の端で公定記録用紙を広げている。


ペン先は、すでに紙へ向いていた。


「まず確認します」


エレナが言った。


「本日の場は、ラウル・エインズワース侯爵令息による説明申出に基づく記録聴取です」


「はい」


ラウルが答える。


その声に合わせて、記録板の表面が淡く光った。


柔らかな声。


穏やかな微笑。


丁寧な返答。


それらは空気に溶けず、白銀の文字となって板の奥へ沈んでいく。


この部屋では、言葉は余韻にならない。


すべて、記録になる。


「名誉回復公告の撤回審理ではありません」


「承知しています」


「イレーネ・カーディル伯爵令嬢の本人意思を、第三者が代替説明する場でもありません」


ラウルの微笑みは崩れない。


「私は、彼女の気持ちを代弁するつもりはありません」


記録板が、また淡く光った。


ミリアのペン先が、ぴたりと止まる。


エレナはラウルを見た。


「では、説明文の該当箇所を確認します」


ミリアが紙を一枚差し出す。


エレナは読み上げた。


「彼女はまだ、自由という言葉の冷たさに耐えられない幼子なのです。だから私は、彼女が凍えないよう、風を遮っていただけなのです」


記録室の空気が、冷えた。


ダリオが目を伏せる。


ラウルは、穏やかに頷いた。


「ええ。私が書きました」


「これは、イレーネ令嬢の能力評価ですか」


「能力評価という言い方は、少し寂しいですね」


「では、何ですか」


「愛する者としての理解です」


エレナは記録板へ視線を落とす。


「本人意思代替の再発可能性あり」


ミリアのペンが動く。


ラウルは、初めてわずかに首を傾げた。


「再発」


「はい」


「私は、彼女の気持ちを代弁しているのではありません」


「本人を幼子と定義し、自由への耐性を第三者が評価しています」


エレナの声は平らだった。


「本人の判断能力を低く見積もる表現です」


「彼女を守るための表現です」


「保護を理由とした意思能力の低評価、と記録します」


ミリアのペンが止まらない。


ラウルは、少しだけ笑った。


「どんな言葉も、あなたの手にかかると硬くなる」


「柔らかい言葉で包まれているため、分類を明確にしています」


「分類」


ラウルは、その言葉をゆっくり繰り返した。


「あなた方は、本当にそれが好きですね」


「本件では必要です」


「愛は分類できますか」


「愛は本件の判定項目ではありません」


記録室が静まり返る。


その台詞は、以前にも似た形で告げられた。


けれど、今回は違う。


ラウルの愛は、すでに公告文になり、照会番号になり、閲覧記録になっている。


その上で、もう一度切り捨てられた。


「愛は判定項目ではない」


ラウルは微笑む。


「では、何が判定項目ですか」


「本人意思」


エレナは即答した。


「発言の自由。面会制限の根拠。診断書の正当性。隔離状態の有無。第三者による意思代替の有無」


「そこに、心はありませんね」


「心を持ち込んだ結果、本人の言葉が消えたためです」


ダリオの肩が、ほんの少し動いた。


ラウルは、エレナを見ていた。


微笑みはある。


だが、その奥に、うすい硬さが生まれていた。


「イレーネは、本日こちらに?」


「出席しません」


「なぜ」


「本人が、出席を望まない旨を提出しました」


ラウルの目が静かになる。


「彼女が」


「はい」


「直接、ですか」


「はい」


エレナは一枚の記録を示した。


「本人署名済み。立会記録あり」


ラウルは、その紙を見た。


そこには短い文が書かれていた。


本日の説明の場に出席しません。

私の意思は、すでに公告文および本人確認記録に記載された通りです。

私の不在を、同意・迷い・保留として扱わないでください。


イレーネ・カーディル。


ラウルは、その署名を見つめた。


筆跡は震えている。


完璧ではない。


整ってもいない。


だが、筆圧があった。


迷いの跡ではない。


力を入れなければ紙に残らなかった文字だった。


ラウルは、しばらくその字を見つめていた。


震えている。


美しくはない。


けれど、彼の知っているイレーネの文字ではなかった。


いや、正確には、彼が知っていると思っていたイレーネではなかった。


彼の腕の中で震えるだけだったはずの少女が、震えたまま、自分の不在に名前を付けている。


その瞬間、ラウルは奇妙な寂しさを覚えた。


自分の知っているイレーネが、どこかで静かに死んだような気がした。


「……これは」


ラウルは静かに言った。


「彼女の字ですね」


「はい」


「随分、強く書いた」


「はい」


「誰かに、そう書くよう促されたのかな」


ミリアのペンが止まる。


エレナは答えた。


「その発言は、本人署名への誘導疑義の提示として記録します」


「疑義ではなく、心配です」


「本人意思確認記録への不当な疑義付与としても記録します」


ラウルは口を閉じた。


短い沈黙。


彼が黙ったのは、負けを認めたからではなかった。


自分の言葉が、また別の項目に収められるのを見たからだった。


エレナは続けた。


「補足します」


ラウルの視線が、わずかに動く。


「筆圧の強弱、インクの滲み、筆跡の揺れ。いずれも、本人の強い緊張と意思集中を示しています」


「……意思集中」


「はい」


エレナは紙面を見た。


「筆跡に乱れはありますが、文意の途中放棄はありません。署名にも筆圧があります。少なくとも、この書面は、本人が強い緊張状態の中で最後まで書き切ったものとして扱います」


ラウルは、もう一度署名を見た。


彼が「震えていて可哀想」と見た文字を。


エレナは「緊張状態の中で書き切った本人意思」と読んだ。


自分だけが知っていると思っていたイレーネの震えが、目の前で淡々と解析され、彼の知らない意味を与えられていく。


それは、ラウルにとってひどく不愉快なことだった。


「では、彼女は本当に来ないのですね」


「はい」


「私に会わない」


「はい」


「私の説明を聞かない」


「聞かない意思を提出しています」


ラウルは、ほんの少しだけ視線を落とした。


そして、微笑んだ。


「冷たいですね」


「本人の拒否です」


「いいえ」


ラウルは首を振る。


「拒否という言葉は、少し強い」


エレナは、すぐに答えた。


「本人記録では、拒否に分類されます」


ミリアのペンが紙を削る。


ガリッ。


その音が、記録室に響いた。


「ラウル様」


ダリオが低く言った。


「これ以上は」


ラウルは、手で制した。


「分かっているよ」


だが、分かっていなかった。


少なくとも、エレナにはそう見えた。


彼は、まだ言葉で取り戻せると思っている。


拒否を、強すぎる表現だと言い換えれば。


不在を、迷いだと解釈すれば。


沈黙を、優しさだと名づければ。


まだ世界は、自分の知っている形に戻ると信じている。


「では、私から説明します」


ラウルは言った。


「許可します」


エレナが答える。


「ただし、本人意思に関する第三者説明、能力評価、感情推定、公告文への異議は、それぞれ分類して記録します」


「分かっています」


ラウルは、机の上に手を置いた。


「イレーネは、優しい人です」


ミリアのペンが構える。


「彼女は、自分よりも周囲を優先する。だから私は、彼女が自分で選んだように見える苦しみから、彼女を遠ざけたかった」


「本人意思への介入理由として記録」


「違います」


「説明を続けてください」


ラウルは一拍置いた。


「彼女は、自由を望んでいるのではありません」


ミリアのペンが、紙に沈む。


「彼女は、自由という言葉を与えられて、そう思い込んでいるだけです」


ダリオが目を閉じた。


エレナは言った。


「本人意思の否定。第三者による内心の再定義」


「彼女は怖がっていた」


「恐怖の存在は、本人意思の無効理由にはなりません」


「彼女は震えていた」


「震えは、本人発言の無効要件ではありません」


「彼女は一人では判断できない」


「判断能力の否定。根拠資料は」


ラウルは止まった。


根拠。


また、その言葉だった。


彼の知っている愛の中に、根拠など要らなかった。


彼が見てきたイレーネ。


彼が感じてきた彼女の弱さ。


彼女の沈黙。


彼女の手の冷たさ。


それらが、彼にとっては十分な根拠だった。


だが、この部屋では足りない。


紙にならないものは、根拠として扱われない。


ラウルは、そこで別の棚へ視線を向けた。


「医師も、静養が必要だと認めていたはずです」


エレナは、机の上の一枚を取った。


王都医師会初回聴取速報。


「確認します」


ミリアのペンが止まる。


エレナは読み上げた。


「オスカー・レナート医師、初回聴取における発言」


ラウルの表情は変わらない。


「『私は、侯爵家の意向に従っただけです』」


ダリオの喉が動いた。


「『令嬢本人の強い拒否は確認していません』」


ラウルの指が、机の上で止まる。


「『静養が婚約継続意思を示すものかどうかは、医師の判断範囲ではありません』」


記録室は静かだった。


エレナは紙を置く。


「以上により、医師所見は婚約継続意思の根拠にはなりません」


ラウルは、ゆっくり目を細めた。


「オスカー医師は、保身のためにそう言ったのでしょう」


「保身発言である可能性はあります」


「では」


「ですが、発言内容は記録対象です」


エレナは続ける。


「医師判断の独立性欠如。本人意思確認の不存在。静養状態と婚約継続意思の切り離し。三点が確認されています」


「彼女には静養が必要だった」


「静養の必要性と、婚約継続意思は別項目です」


「彼女を守るためだった」


エレナは、次の紙を取った。


「静養館予備監査記録」


ミリアが公定記録用紙を一枚めくる。


「外側施錠確認。面会制限台帳に本人署名なし。訪問者取次記録に、令嬢本人への確認欄なし」


エレナはラウルを見た。


「物理的拘束および本人確認を経ない面会制限が、予備監査上確認されています」


「言葉が強いですね」


「外側から施錠されています」


「彼女のために」


「本人署名はありません」


「彼女は、署名できる状態ではなかった」


「それを示す医師所見は、現時点で提出されていません」


ラウルは沈黙した。


エレナは問い直す。


「したがって、医学的根拠を欠いた個人的判断として扱います」


「個人的判断」


「はい」


「私の愛が、個人的判断ですか」


「本件の手続き上は」


エレナは淡々と言った。


ミリアのペンが動く。


『ラウル・エインズワース侯爵令息、静養および面会制限の必要性を主張。医師会聴取および監査記録との照合により、医学的根拠を欠く個人的判断として分類』


その文字を見て、ラウルは少しだけ息を吸った。


愛。


保護。


理解。


彼が積み上げてきた言葉が、外側から届いた紙によって順に剥がされていく。


医師は保身で崩れた。


静養館は物理で崩れた。


ダリオは手続きの側へ立ち始めている。


そしてイレーネは来ない。


ラウルは、自分が思っていたよりずっと一人でこの部屋に座っていることに気づいた。


「根拠資料はありません」


ダリオが、代わりに言った。


ラウルが彼を見る。


ダリオは深く頭を下げる。


「現時点で、侯爵家より提出可能な客観資料はございません」


記録室が静かになった。


ラウルは、ダリオを見ている。


「君が答えるのか」


「家令として」


「私の愛に、資料はないと」


「本件の手続き上は、客観資料はございません」


ダリオの声は震えていなかった。


ミリアのペン先が、一瞬だけ止まった。


ラウルは、その目を見た。


忠誠でも、反抗でもなかった。


そこに一瞬だけ、憐れみがあった。


自分の愛が、家令の目にはもう守るべき美しい物語ではなく、提出不能な根拠として見えている。


その理解が、ラウルの内側へ静かに落ちた。


ラウルは、微笑んだ。


形だけなら、いつも通りだった。


だが、その奥で何かが鳴った。


完璧な陶器に、目に見えないほど細いひびが入るような音だった。


怒りではない。


悲しみでもない。


自分の物語を支えていたはずの家令が、初めて物語の外側から言葉を返した。


その事実だけが、ラウルの中に静かに残った。


同時に、彼の内側にあった整えられた庭園へ、土のついた靴で踏み込まれたような感覚があった。


花壇は乱れていない。


噴水も壊れていない。


けれど、踏み込まれた。


その一歩の跡だけが、どうしても目に残る。


ひどく不快だった。


吐き気にも似た屈辱だった。


「そうか」


それだけだった。


エレナは記録板を確認する。


「ラウル・エインズワース侯爵令息による説明内容、以下の通り分類」


ミリアが新しい欄を開く。


「一、本人意思に対する第三者解釈」


「二、本人判断能力の低評価」


「三、震えおよび恐怖を理由とする発言効力の否定」


「四、公告文への実質的異議」


「五、医師会聴取および静養館監査記録との不一致」


「六、客観資料なし」


ラウルは、黙って聞いていた。


その顔に怒りはない。


ただ、自分の言葉が一行ずつ細かく切り分けられていく様子を見ていた。


愛ではなく。


説明でもなく。


項目として。


分類として。


記録として。


「以上により」


エレナは言った。


「本説明は、名誉回復公告の撤回理由には該当しません」


「撤回を求めたわけではありません」


ラウルが言う。


「では、何を求めましたか」


ラウルは答えなかった。


初めて、答えなかった。


ミリアのペン先が、紙から離れない。


「対象者、沈黙。回答不能として記録」


「待ちなさい」


ラウルは静かに言った。


「私は今、言葉を選んでいるだけです」


エレナは記録板を見たまま答えた。


「所定の回答時間は経過しました。これ以降の追加発言は、後付けの弁明として注釈付きで記録します」


ラウルの微笑みが、ほんのわずかに薄くなる。


「……ずいぶん、親切ですね」


「はい。発言の扱いを事前に説明しています」


ラウルは、しばらくエレナを見ていた。


沈黙。


以前なら、その沈黙には意味をつけられただろう。


傷ついている。


迷っている。


本当は分かっている。


あるいは、まだ愛している。


だが、この部屋では違う。


エレナは言った。


「回答なし」


ミリアが続けて記す。


「沈黙は、同意として扱いません」


ラウルが、ゆっくり顔を上げた。


「……何ですか」


「いまの沈黙についてです」


エレナは淡々と答える。


「回答拒否または回答不能として記録します。同意としては扱いません」


それは、ラウルに向けられた言葉だった。


同時に、この案件すべてに向けられた言葉でもあった。


沈黙は、同意ではない。


イレーネの沈黙も。


ラウルの沈黙も。


カーディル家の沈黙も。


周囲の沈黙も。


それぞれ、別々に記録される。


勝手に、美しい意味を与えられない。


勝手に、都合よく使われない。


ラウルは、しばらくエレナを見ていた。


その微笑みは、まだある。


だが、もう部屋全体を包むほどの力はなかった。


「あなたは」


彼は静かに言った。


「本当に、何も救わないのですね」


「救済は、私の管轄ではありません」


エレナは答えた。


「私は、記録を確定します」


ミリアのペンが止まる。


エレナは、記録板に指を置いた。


白銀の文字が浮かび上がる。


本件、本人意思確認、名誉回復公告、公告後説明聴取を経て、以下を確定する。


イレーネ・カーディル伯爵令嬢の沈黙、静養、面会制限状態は、婚約継続意思の証明として扱わない。


同令嬢は、婚約継続を望まない旨を本人発言した。


同令嬢は、説明の場への不出席を本人意思として提出した。


第三者による同令嬢の本意説明は、本人意思代替の再発可能性を含むものとして記録する。


静養および面会制限は、医師会聴取および静養館予備監査により、婚約継続意思の根拠としては扱わない。


沈黙は、同意ではない。


記録室の空気が、動かなかった。


ラウルは、その文字を見た。


ダリオも見た。


ミリアは、紙に写した。


最後の一文で、ペン先が少しだけ深く沈んだ。


沈黙は、同意ではない。


その一文は、長くなかった。


飾りもなかった。


けれど、すべての紙を束ねるような重さがあった。


ラウルは席を立った。


「もう、よろしいですか」


「はい」


「私の説明は」


「記録しました」


「彼女には」


「必要範囲を通知します」


「全部ではなく?」


「本人安全および心理的負荷を考慮し、必要範囲に制限します」


ラウルは、また笑った。


「最後まで、あなた方の紙に守られるのですね」


「本人が望んだ保護範囲です」


「そうですか」


ラウルは、何かを言いかけた。


だが、言わなかった。


その沈黙も、ミリアは記録しなかった。


発言ではなかったからだ。


ラウルは部屋を出ていく。


ダリオが深く礼をし、その後に続いた。


扉が閉まる。


記録室には、紙の匂いだけが残った。


ミリアは、長く息を吐いた。


「終わりましたね」


「案件処理としては」


エレナは答えた。


「完全終了ではありません。医師会、監査院、静養館、関連証言者の処理が残っています」


「……余韻がありませんね」


「余韻は記録対象ですか」


「いえ」


ミリアは少しだけ笑った。


「業務に戻ります」


「お願いします」


その日の夕方。


イレーネ・カーディルは、調停局の別室で通知を受け取った。


全文ではない。


必要な部分だけ。


自分の不在が同意にも迷いにもされなかったこと。


ラウルの説明が、本人意思の代替可能性として記録されたこと。


医師の聴取と静養館の予備監査によって、静養や面会制限が婚約継続意思の根拠にはならないと確認されたこと。


そして、最後に確定された一文。


沈黙は、同意ではない。


イレーネは、その紙を見つめた。


長い間、彼女の沈黙には、他人が意味をつけてきた。


優しいから。


弱いから。


迷っているから。


本当は望んでいるから。


家のために耐えているから。


愛されているから。


そうやって、沈黙の上に、いくつもの言葉を置かれてきた。


けれど、今は違う。


沈黙は、同意ではない。


ただ、それだけ。


それだけの文が、彼女の胸の奥にゆっくり沈んでいく。


救われた、とはまだ思えなかった。


明日から自由に笑えるとも思わなかった。


公告は残り、噂も残る。


カーディル家へ戻るのか、別の場所へ移るのか、これから決めなければならないことも多い。


それでも。


自分の黙っていた時間が、勝手に誰かの証拠にされなくなった。


それだけで、呼吸が少しだけ深くなった。


彼女は紙を胸元に抱かなかった。


泣きもしなかった。


ただ、机の上に置いた。


そして、自分の震える指で、その一文を一度だけなぞった。


乾いたインクのわずかな凹凸が、指先に触れる。


かつて優しい声で愛を囁かれた時よりも、その無機質な文字の方が、ずっと確かな温度を持っていた。


それは、自分の沈黙をもう誰かに渡さないための、小さく硬い証拠だった。


沈黙は、同意ではない。


その頃、調停局の廊下で、エレナはローレン・アシュフォードと向かい合っていた。


彼は、いつもの穏やかな顔をしていた。


だが、その目は少し疲れている。


「終わりましたか」


「本件の本人意思確認および公告後説明聴取は終了しました」


「救済とは言いませんか」


「言いません」


ローレンは小さく笑った。


「でしょうね」


彼は窓の外を見る。


王都の空は、夕方の色に沈み始めていた。


「君がやったのは救済ではない」


ローレンは言った。


「均衡の破壊だ」


エレナは黙っている。


「侯爵家の体面。カーディル家の沈黙。静養館の運用。医師の裁量。王宮記録院の曖昧な処理。全部、少しずつ釘を打たれた」


彼はエレナを見る。


「この一件で、今後の婚約調停は変わりますよ」


「必要なら」


「必要かどうかではありません。変わるのです」


ローレンの声は静かだった。


「沈黙を同意として扱えなくなる。静養を本人意思の証明に使いにくくなる。家同士の合意だけでは足りなくなる。本人の言葉が必要になる」


「良いことです」


「王宮にとっては、必ずしも」


ローレンは、少しだけ声を低くした。


「王宮にとっての正義は、真実よりも平穏なんだよ、エレナ」


エレナは、ようやく彼を見た。


「どれほど正しい記録でも、国を揺らすなら危険物になる」


「均衡を保つために嘘を記録するのは、私の職務ではありません」


「真実だけでは、国は回りません」


「真実を殺して均衡を保つなら、それは記録官の敗北です」


ローレンは、しばらく黙った。


廊下の向こうで、誰かの足音が通り過ぎる。


やがて彼は、深く息を吐いた。


「本当に、君を敵に回したくなかった」


「私は敵ですか」


「まだ、分類中です」


エレナは頷いた。


「承知しました」


ローレンは笑った。


「そういうところです」


彼は一歩下がる。


「第2の案件が来ますよ」


「案件は常に来ます」


「そうではありません」


ローレンの目が、少しだけ細くなる。


「今回の公告を見た者たちが、自分の沈黙について話し始めます」


廊下の空気が、少し冷えた。


「そして、話されると困る者たちも動きます」


エレナは、記録板を抱え直した。


「記録します」


「でしょうね」


ローレンは背を向けた。


「だから、危険なのです」


足音が遠ざかる。


エレナはしばらく、その背中を見送った。


勝利の感覚はなかった。


誰かを救った実感もない。


ただ、ひとつの記録が確定しただけだった。


沈黙は、同意ではない。


その一文は、今日から王都のどこかで勝手に歩き出す。


誰かを助けるかもしれない。


誰かを追い詰めるかもしれない。


誰かの家の扉を叩くかもしれない。


けれど、それはもう、無かったことにはできない。


エレナは記録板を閉じた。


「本件、一次処理完了」


白銀の文字が、最後に一度だけ光った。


その光は、すぐに消えた。


だが、記録は残った。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第21話をもって、第1章は一旦完了となります。


第1章では、イレーネの沈黙が「同意」として扱われていた状況を、エレナたちが記録と手続きによって一つずつ解体していきました。


感情で救うのではなく、

怒鳴って断罪するのでもなく、

ただ事実を分類し、記録し、確定させる。


その結果として、最後に残ったのが、


「沈黙は、同意ではない」


という一文でした。


ラウルにとっては断罪。

イレーネにとっては盾。

エレナにとっては、ただの確定記録。


この形で第1章を締められてよかったと思っています。


第2章については現在構想中です。

方向性が固まり次第、続きを掲載していく予定です。


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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