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【アップ✨】2026年5月3日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります☕️

初めまして、天川裕司です。

ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。

また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。

どうぞよろしくお願い致します。

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


【アメーバブログ】

https://blog.ameba.jp/ucs/top.do


【男山教会ホームページ】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【YouTube】(ユメノ記)

https://www.youtube.com/@%E6%98%9F%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%B1%E3%83%A9-v5x/videos


【ノート】

https://note.com/unique_panda3782



【YouTubeドラマにつきまして】

無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、

お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。

基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。

創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪

出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬

でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、

どうぞよろしくお願いします(^^♪


【本日のメッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MW4h3HZiOy0


聖書


『イザヤ書』(第四三章一~七節)

『ペトロの手紙一』(第一章三〜一二節)

(参考)

『マタイによる福音書』(第六章二四節)

『ヨハネによる福音書』(第一三章二六〜三八節)

『ヨハネによる福音書』(第一五章一二〜一七節)

『ヨハネによる福音書』(第二一章一〜九節)

『ヨハネによる福音書』(第二一章一五〜一九節)



讃美歌〜♫


讃美歌191番

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=g2Uju0V11MI&pp=ygUM6K6D576O5q2MMTkx


讃美歌270番

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=ineqbdDEfrI



2026年5月3日 礼拝説教 聖書箇所


あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

ペトロの手紙一1章7節


水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。

イザヤ書43章2節


はじめに

わたしたちは「何ゆえに」生き、悩み、「何者かに」変わりたいとも、願うのか。

「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいる」。この手紙における一つの特徴は、尊い御方から目をそらないこと。それは、ペトロ自身、「金や銀はないが」(使徒3章6節)、「金や銀のような」(ペトロ一1章18節)と言うように、貴金属に優って尊い御方を明らかにする。しかし、同時にそれは、この御方を人間の満足とすることではなく、この御方を喜ぶ「真の」信仰において証しする。ここにある「喜び」は「飛び上がって喜び」、世の最上(もろもろの「天」)にまさる「この上ない喜び」。何ゆえか? 復活の主イエスによる「新しい命」(新生(と「生ける希望」を与えられ、大いなる「救い」(ヘブライ1章14節)を受け継ぐ「キリストと共同の相続人」(ローマ8章17節)とされたゆえ。あの十字架刑が執行された日には、失意と絶望と悲しみの中にいながら、復活の日には、主を歓喜する者に変えられた(ヨハネ16章20節)。使徒たちは、彼らを「祝福しながら」「天に上げられた」「イエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえいた」(ルカ23章51~53節)。

「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」。この「悩む」とは、「深く悲しむほどに悩む」こと。この上ない喜びも、深く悲しむほどに悩むことも、矛盾することなく、一つの贖われた魂の中に生じ得ること。使徒パウロは「悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有している」(コリント二6章10節)と、本当の富のあるところ、霊的な知恵、キリストの内にある救いの実質的価値を証しした。しかも、この試練の時は、この「終わりの時」における、「今しばらくの間」、今このわずかな時間、として示される。主イエスは、使徒(弟子)たちの悲しみが喜びに変わると約束された時、「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」と言われ、「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16章22節)と「その日」の来ることを約束された。今や、わたしたちは、永遠の安息と平安の日を与えられた。主を喜びつつ、「神の力」(御父の摂理と御子の福音と聖霊の救い)を信じて、今日を生きることに導かれている。

「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され」る。「それゆえ(神の本性は、無から何をお造りになること)に、神は見捨てられた者のほかに誰もお迎えになさらず、病人のほか誰も健康になさらず、目の見えない者のほか誰も見えるようになさらず、死人のほか誰も生かされず、罪人のほか誰も義となさらず、愚か者のほか誰も賢くなさらない。結局、哀れな者だけを憐れまれ、見離されている者だけに恵みをお与えになる。だから、傲慢な者や、聖者、賢者、義人は、神のものとなることができず、神の行いを自分の中に得ることができず、自分自身の行いの中に居続け、でっちあげの、見せかけの、偽りの、装った聖者を自分で造り上げる。それが『偽善者』である」(『慰めと励ましの言葉』マルチン・ルターによる一日一章:5月3日 ヘブライ11章3節)

「火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて」「イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらす」。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」「だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリント一13章12節)。

おわりに

「ヤコブよ」「イスラエルよ」と、御自身が創造し、贖われた民の名を呼ばれる。試練によって練り清められた群れは「主」の名によって呼ばれ神の栄光を現す。ただ、主の栄光のみ。



(Mynote)


二〇二六年五月三日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『スコットランド教会新カテキズム』

「第四の戒めでは、何が命じられて居ますか。」

「安息日を、神様に礼拝と奉仕を捧げる事に於いて、正しい厳粛さを以て、時を費やす事が命じられて居ます。」

厳粛さとは、神様に畏れを抱く事である。『出エジプト記』の時のエピソードが語られた。モーセは神様に導かれて大勢の奴隷だった人々を引き連れ、奴隷の地・エジプトを出て、神様が予め約束された解放と救いの地に導かれた。しかしその途中でモーセを含め人々は、その過酷な環境と自分達の状況から「まだエジプトに留まった方がましだった。食べ物はあったし、住む処があったし…」と。すると神様はモーセを通して天からマナ(パン)を降らし、与えて、彼等の命と健康と信仰を支え、その信仰を更に強めて下さった。しかしこの時また人々の中には、更に不信仰から「目に見えて縋り付く物(神)」を欲しがり、金の像(偶像)を造り上げ、品行も乱す者が現れた。この様に人は信仰に於いて弱く、常に神様の導きに依らねば、正しい信仰の途を歩めない者である。この事を常に自分に知らねば成らない。

(公同礼拝)

『ペトロの手紙一』(第一章三〜一二節)

『イザヤ書』(第四三章一~七節)

我々クリスチャンは、信仰の試練について、注意深く聞き、知り、今がどう言う時なのか、神様はイエス様を通して我々に罪からの救いを確約して下さる上で、この試練と今のこの時は、どう言う意味を持つのか、等の事を考え、自分の信仰と神様と自分の間の救いについて、考える。この事は全ての人にとって試される事・試練としてやって来るのであり、ノンクリスチャンであっても関係無く、神様から命を受けてこの地に誕生させられた上、その心に於いて、感覚に於いて、細胞レベルにより神様の事、イエス様の事を知って居る上で、やはり「今自分に訪れて居る試練」について深く考え、この試練が今と今後の自分にとって、また自分に関係する人達にとってもどの様な意味(信仰に於ける目的)があるのか?…を考える。

「私達のしゅイエス・キリストの父なる神。神は、その豊かな憐れみに依り、イエス・キリストを死人の中から甦らせ、それに依り、私達を新たに生まれさせて生ける望みをいだかせ、あなた方の為に天に蓄えて在る、朽ちずけがれず、萎む事の無い資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなた方は、終わりの時に啓示されるべき救いに与る為に、信仰に依り神の御力みちからに守られて居るのである。その事を思って、今暫くの間は、様々な試練で悩まねばならないかも知れないが、あなた方は大いに喜んで居る。こうして、あなた方の信仰は試されて、火で精錬されても朽ちるほかないきんよりも遥かに尊い事が明らかにされ、イエス・キリストの現れる時、賛美と栄光と誉れに変わるであろう。あなた方は、イエス・キリストを見た事はないが、彼を愛して居る。現在、見ては居ないけれども、信じて、言葉に尽せない、輝きに満ちた喜びに溢れて居る。それは、信仰の結果なる魂の救いを得て居るからである。この救いについては、あなた方に対する恵みの事を預言した預言者達も、尋ね求め、且つ、つぶさに調べた。彼等は、自分達の内に居ますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、予め証した時、それは、いつの時、どんな場合を指したのかを、調べたのである。そして、それ等について調べたのは、自分達の為ではなくて、あなた方の為の奉仕である事を示された。それ等の事は、天から遣わされた聖霊に感じて福音をあなた方に宣べ伝えた人々によって、今や、あなた方に告げ知らされたのであるが、これは、御使みつかい達も、窺い見たいと願って居る事である。」(『ペテロの第一の手紙』第一章三〜一二節)

牧師にしても、教会に長老が居る場合、その長老の働きに真に頼る事がある。これは「隣人を愛する事」に於いて決して間違いでない。けれど、イエス・キリストを忘れて離れた上で、人である長老の働き(目に見える働き)に全面的に頼る事は間違いである。飽くまで信仰に於いてイエス・キリストに依る救いに基づき、神様のもとで隣人を愛し、交わりを持ち、教会の働きを守る上で信仰に生かされる事、この事が何より大事になる。

しかし人は弱い者で、時に於いて信仰を離れ、現実のもの・見えるもの・触れるものに頼り(人や金や物)、それを第一にして信仰に生かされようとし、神様ともう一つの救いを天秤に持ち、神様に従おうとする。

「あなた方は、神と富とに兼ね仕える事は出来ない(二人の主人に仕える事は出来ない)」(『マタイによる福音書』第六章二四節)

この様に在り、この通りであり、この地のものと天のものを両手に保ち、そのまま信仰のみちを歩く事は誰にも出来ないのである。

人は弱い者であり、ペテロでさえイエス様が捕えられ、十字架に付けられる時、その捕えられた際にペテロはイエス様の近くに居たが、他人から「イエス様との関係」を問われた時に、そのイエス様を「知らない」と三度否んだ。そして後悔し、号泣した。それからイエス様が十字架に付けられ死にて葬られ、陰府よみに下り、三日目に死人の内より甦り、天に上り、全能の父なる神の右に座し給えた後、湖畔で弟子達共に甦られたイエス様と再会し、そこでイエス様からペテロは、

「ヨハネの子シモンよ、私を愛するか」

と三度尋ねられ、三度も尋ねられた事でそれまでの事(イエス様を三度否んで見捨てた事)を思い出す上、悲しくなって、

「主よ、あなたは全てをご存知です。私があなたを愛して居る事は、お分かりになって居ます」

と悲しみの内に応えた。イエス様はペテロに、

「私の羊を養いなさい。よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯を締めて、思いの儘に歩き回って居た。しかし年を取ってからは、自分の手を伸ばす事になろう。そして、他の人があなたに帯を結び付け、行きたくない所へ連れて行くであろう」(『ヨハネによる福音書』第二一章一五〜一九節参照)

と言われ、ペテロを嗜め、励まし、イエス様のあとに従うその先の事が示された(イエス様に依って教えられたのである)。

全ての人にはこのペテロの様に、信仰に於いて苦しみ・不安・恐怖を試練から覚えさせられ、イエス様を否定し、自ら信仰を捨てようとする事があり、そしてまた悔い改め、信仰に立ち返り、イエス様の元に戻ろうとする時がある。イエス様は三度(この三度とは多い数を指す)イエス様を否んだペテロを逆に励まし、嗜め、自分のあとに従う様にと、そのペテロの信仰を更に成長させた。その後ペテロは更に信仰が強められ、福音の途に就いた。

「私の戒めは、これである。私があなた方を愛した様に、あなた方も互いに愛し合いなさい。人がその友の為に自分の命を捨てる事、これよりも大きな愛は無い。あなた方に私が命じる事を行うならば、あなた方は私の友である。私はもう、あなた方をしもべとは呼ばない。しもべは主人のして居る事を知らないからである。私はあなた方を友と呼んだ。私の父から聞いた事を皆、あなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである。そして、あなた方を立てた。それは、あなた方が行ってを結び、その実がいつまでも残る為であり、又、あなた方が私の名に依って父に求めるものは何でも、父が与えて下さる為である。これ等の事を命じるのは、あなた方が互いに愛し合う為である。」(『ヨハネによる福音書』第一五章一二〜一七節)

人は、特にクリスチャンの中には、「自分の信仰はまだまだだ。まだ未熟だ…」として、その未熟・発展途上だと自分の事を決め、そこに甘んじる処(傾向)がある。この儘では成らず、必ず神様がイエス様を通して示された信仰へのみちを歩まねば成らず(信仰が成らず)、この事が全ての人にとって、同じく神様の導きに就く契機に成る様に。

ヨハネとペテロとは信仰に於いてイエス様に従う点に於いて関係無く、イエス様と自分との一対一の関係に於いて、ただ信仰に生かされる事が大事にあろう。ペテロはその時イエス様に「主よ、この人(ヨハネの事)はどうなのですか」と尋ねた。イエス様はペテロに言った、

「たとい、私の来る時まで彼が生き残って居る事を、私が望んだとしても、あなたには何の係わりがあるか。あなたは、私に従って来なさい」(『ヨハネによる福音書』第二一章二一〜二二節)

信仰に立ち返り、イエス様に従う時は今である。その事が出来る今である。この事を覚え、実践したい。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Caffe〜


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?v=MCyjy8BuIIw


「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは」

https://www.youtube.com/watch?v=lbm8N7ZZRMY


スペシャルWEB配信 無観客ライフ・ライン、世の光のつどい

https://www.youtube.com/watch?v=WtWo_wXvLAI


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin


ユメノ記

https://www.youtube.com/@%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%A6%E3%83%A1-v5x/videos


(お暇な時にぜひどうぞ)

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


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