第6話 否定しない女
「……なんだこれ」
俺はスマホの画面を見つめたまま、眉をひそめた。
動画のコメント欄。
いつもは軽い感想ばかりなのに、その中に一つだけ、妙に引っかかるものがある。
《その検証、間違ってます》
「……は?」
思わず声が漏れる。
さらに下。
《それ、外からじゃなくて“中”から来てますよ》
一瞬、意味が分からなかった。
「……中から?」
ありえない。そう思ったはずなのに、指が止まる。
《見えてないだけです》
—
数日後。
俺は大学の中庭にいた。
昼下がりで人はそこそこいるのに、不思議とこのベンチの周りだけ静かだった。
その理由は、目の前にいる。
「……神谷理玖さんですよね」
落ち着いた声。
俺は顔を上げる。
「……誰だよ」
「阿部果林です」
名乗るだけで、それ以上は何も言わない。
感情の起伏がほとんど見えない顔だった。
「コメントしたの、お前か」
「はい」
短い返事。
逃げる気も、誤魔化す気もない。
「……で?」
俺は腕を組む。
「何が間違ってるって?」
少しだけ間があく。
阿部は俺を見たまま、静かに言った。
「全部です」
「は?」
思わず声が強くなる。
「あなたの仮説」
阿部は淡々と続ける。
「外から入ってくる前提ですよね」
「当たり前だろ。実際そう見える」
「違います」
即答だった。
迷いがない。
「“最初から中にいる”」
「……は?」
言っている意味が分からない。
「外から来てるんじゃないです」
「最初から、そこにある」
「……意味分かんねえよ」
阿部は少しだけ首を傾げる。
考えているようで、考えていないような仕草だった。
「じゃあ聞きます」
静かな声。
「なんで、外の足跡は“途中で消えてる”んですか?」
「それは説明しただろ」
「粉の濃淡で見えなくなっただけだ」
「そうです」
あっさり肯定される。
「なら」
一拍置く。
「中の足跡は、どこから来たんですか?」
—
言葉が詰まる。
「……それは」
すぐに答えが出ない。
頭の中で、あの映像を思い返す。
外からの跡は途中で消える。
なのに、背後には“新しく”足跡があった。
繋がっていない。
「……」
「外から続いてるなら、繋がるはずですよね」
阿部は静かに言う。
「でも繋がってない」
「つまり」
視線が、ほんの少しだけ強くなる。
「別です」
「……は?」
「外の現象と、中の現象」
「同じに見えて、違います」
否定しようとして、言葉が出ない。
「いや、そんなわけ——」
途中で止まる。
確かに、違和感はあった。
気づかないふりをしていただけだ。
「気づいてますよね」
阿部が言う。
「あなたも」
「……仮にそうだとして」
俺は無理やり言葉を繋ぐ。
「じゃあ何だよそれ」
「説明しろよ」
少しだけ沈黙が落ちる。
風の音だけが聞こえる。
阿部は目を逸らさずに答えた。
「分かりません」
「は?」
思わず聞き返す。
「分かりませんけど」
少しだけ間を置く。
「そういうものは、あります」
思わず笑いそうになる。
「それで納得しろって?」
「納得する必要はないです」
「ただ」
言葉が一瞬だけ途切れる。
「間違ったまま進むと、危ないです」
「……脅しか?」
「違います」
即答だった。
「事実です」
その目は、冗談を言っているものじゃなかった。
—
「……いいよ」
俺は立ち上がる。
「じゃあ証明してみろ」
「お前の言ってることが正しいなら、次で分かる」
阿部は小さく頷いた。
「はい」
「分かります」
—
その日の夜。
新しい依頼。
また“音”がする部屋だった。
—
「いつも通りやるぞ」
俺は機材をセットする。
カメラ。粉。配置。
いつも通り、再現性を取る。
「それ、意味ないです」
後ろから声がした。
「……は?」
振り向く。
「今回、それ出ません」
「なんで分かる」
「違うからです」
イラつく。
だが、無視する。
—
録画開始。
時刻は0:11。
—
数分後。
何も起きない。
予想通りだ。
「ほらな」
そう言いかけた、そのとき。
カタ。
小さな音。
振り向く。
棚の上。
置いてあったコップが、ゆっくりと横に滑った。
「……は?」
粉は動いていない。
足跡もない。
ただ、“物だけが動いている”。
理解が追いつかない。
今までの前提が、崩れる。
後ろで、阿部が静かに言う。
「だから言ったじゃないですか」
「それ、違います」
「“歩くやつ”じゃないです」
俺は初めて、何も言えなかった。




