008:第5章「結婚という名の現実」①
「…………え? 父様、今なんて?」
公爵邸での夕食の後、父の書斎に呼び出されたシルフィーナは告げられた内容をもう一度確認した。
聞き間違い。いや、自分に関することだと脳が理解できなかったからだ。
「今日、王様に謁見してね。その時に、そろそろクレムウェル王子とお前の結婚式の日取りを決めてはどうかと言われたんだよ」
「結婚……」
婚約しているのだから延長線上に結婚があるのは当然だったのだが、婚約期間が長すぎたせいか、まるで実感が湧かない。
(王子は……クレルはどう思っているのかしら)
クレムウェル王子からは一度もそんな話をされたことがない。
婚約はウィルフレッドを苛める目的が主だっただろうし、てっきり縁談避けも兼ねたものだと思っていたから、そのうち破棄されるだろうという予想の方が強かった。なのに、まさか式を勧められる事態になるなんて。
もちろん、貴族として、政略結婚としては申し分ない状況だけれど。
「父様、その……王子にも直接意見をいただいてから考えてみたいのですが」
「もちろんだよ。当人たちでしっかり話し合って決めなさい」
王族からの話なのだから辞退するという選択肢はあり得ないが、それでも納得できる形になるようにとの父の配慮が有り難かった。
「あと……ウィル兄様にはしばらく内密にお願いします」
◇◇◇
王城の舞踏会では今宵も周囲から感嘆の息があふれていた。
緩やかな弦楽器の調べの中、広間の中央で踊っているのは第一王子クレムウェルと、婚約者である公爵令嬢のシルフィーナだ。
とくにシルフィーナのドレスは王子の髪色である銀の布地に瞳の蒼で細やかな刺繍が施されており、婚約者にしか纏うことが許されない特別な装いだ。
その上、王子の銀髪にエメリス家特有である翠玉色の長い髪が美しく映えて、二人が共に並び立つ姿だけでも目にした人々は息を漏らさずにはいられなかった。
しかも、今夜はさらに称賛の端に噂話が付け足されていく。
「今宵も素敵なお二人ですこと」
「そういえば、ご結婚が間近だという話は本当なのかしら」
「学園もご卒業されたことですし、妃教育も進んでいるそうですしね」
「半年後の建国祭の頃かしら? 私たちも参列用のドレスを新調しなくては」
「でも、シルフィーナ様がご結婚されたら、ウィルフレッド様はお寂しくなるでしょうね」
エメリス公爵家の嫡男ウィルフレッドが双子の妹をとても大切にしているのは昔から有名だ。
だから、彼の心を慰めて差し上げねばと考える女性たちは多かった。
「ウィルフレッド様、次の曲ではわたくしと踊っていただけませんこと?」
踊るシルフィーナたちの光景を苦々しく見据えていたウィルフレッドに、紅き髪の女性が申し出る。
学生時代に同級生だったローズ・ルヴィリア公爵令嬢だ。
彼女の後ろには何人も他の男性たちが控えている。
おそらく彼女にダンスの申し込みをする機会を窺っているのだろう。
それなのに、彼らを視界には入れずにウィルフレッドへ申し出たのは、彼女が幼い頃からウィルフレッドを慕っているからだ。
だが、そんな美しき令嬢を前にしてもウィルフレッドの心は揺るがない。
「申し訳ないが、その次の曲でもいいだろうか」
先約があると告げるウィルフレッドは、令嬢を置いて広間の中央へと進んだ。ちょうど円舞曲が切り替わる。
「シルフィ、次は俺と」
「ウィル兄様」
王子と踊り終えたばかりのシルフィーナに間髪入れずにダンスを申し込むのは毎回の流れといえる。
「相変わらず、余裕がなさ過ぎではないのか?」
呆れ顔の王子にウィルフレッドは宿敵への眼差しを激しくぶつける。
「一曲目は譲ってやったんだから四の五の言うな、陰険魔王が」
「兄様、公式の場なんですからそんな口の利き方は……」
だが、注意したところで聞くウィルフレッドではない。
「さぁ、シルフィ。踊ろう」
「はぁ、本当に仕方のない兄様ですね」
手を組んで踊り始める寸前、シルフィーナは明らかな敵意の視線を壁側から察知した。
その厳しい視線の主は紅色の髪が美しい公爵令嬢。
(ローズ、ごめんね。そんなに睨まないでよ)
同じ学園に通っていた頃からローズに憎まれているのは知っている。
ウィルフレッドを慕う者たちからすれば、過保護にされる妹の存在など邪魔でしかないのだ。
シルフィーナ自身はローズとも仲良くなりたいと思っていたのだが、学園生活の中では結局それは果たせなかった。
他にもきっと同じように恨みを買っているのだろう自覚はあるが、ウィルフレッドがいつまで経ってもこの調子では、女性たちからの嫉妬の視線は減るどころか増えるばかりだ。
王子と婚約すれば少しは兄妹としての距離感を正せるかも、なんて期待をしていたけれど、効果が無いどころか悪化しているような気さえしてしまう。
「クレルお兄様、こちらも兄妹で踊りましょう?」
「リリム」
双子が踊っている間、クレムウェル王子が次のパートナーに選んだのは、二つ年下の妹であるリリムウェル王女だった。
淡い金色の髪がゆるやかにたなびく、とても愛らしい少女だ。
鈴が鳴るような声で語られれば、男性ならば一瞬で彼女に心を預けたくなる。
そんな王女を前にして表情が揺るがないのは、笑顔など見せたことがない常に冷静な実の兄クレムウェルと、双子の妹しか目に入らないウィルフレッドくらいのものだ。
だが、表情こそは崩さないものの、クレムウェルもそれなりに妹姫を大切に扱っているのは明らかだった。
「……まったく。ただし、次の曲からは他の少年たちと踊ってやりなさい」
ダンスを通しての交流も王族としての役目だからな、とクレムウェルが諭すと王女は素直に頷きながらも、組んだ手のぬくもりと踏むステップの拍子に意識を預けた。
「はい、クレルお兄様」