007:第4章「歪な三角関係」②
「まったく、そなたの兄は元気が過ぎるな」
書斎机で山ほどの書類に目を通しながら、クレムウェルは呆れた様子で息を吐いた。
つい先ほどまで喧嘩としか思えないほどウィルフレッドと意見をぶつけ合っていたのだが、少し頭を冷やさせるためにシルフィーナからの提案で書庫への遣いを頼み、ようやく席を外したのだ。
「ふふっ、でも、あなたもウィル兄様もちょっとだけ楽しそう」
王子に対して歯に衣を着せないのはウィルフレッドくらいだ。
そして、どれほど辛辣な言葉を浴びせようとも彼が心折らずに何度でも立ち向かってくるのを知っているから王子も遠慮がない。
「……楽しくなどない。ただ、何年経っても分からないことだらけだ。あの男も。そして、人間という生き物も」
「人間も?」
シルフィーナが先を促しがてら茶器で紅茶を淹れて差し出すと、一口喉を潤してから続きが疑問として連なった。
「どうして人間は我の命令をすんなりと聞くのだ。強大な力を示したわけでもないのに」
魔族は力が強いか弱いかだけが物事の基準だ。
力が強かったから自分は魔王となり、他の魔族は恐怖により命令に従った。
弱いものは淘汰されて生きてはいけない世界だ。以前はそれが普通だった。
「確かに、そう言われると不思議かもしれないわね。でも、たぶん……みんながあなたを信じているからよ」
「信じる?」
魔王クレヅェクルだった頃には聞くことも、使うことすらしなかった言葉。
「そう。あなたが自分たちを……この国をより良くしてくれると信じているから、みんなが従ってくれるんだと思うわ」
もちろん権力を振りかざすだけの愚か者もいるけれど、そんなことをしていれば反感を買って結果的に滅びていく。
民が命令に従うのは、一人一人が上に立つ者を信じているから成り立つのだ。
「だから、あなたが示すのは力ではなくて信念。民が望み、安心して暮らせるための希望。それが王族の責務じゃない?」
幸いなことにこの二百年、王族たちはその責務をこなしてきた。
だからこそ、勇者がもたらした平和が今日まで保ち続けられているのだ。
「信じるだけで行動できるとは……本当におめでたい種族だ。そんな気楽な生き物だから、家族だのきょうだいだの弱きもののために生きられるのか?」
「まぁ、ウィル兄様はちょっと特殊だけどね」
子どもの頃から求婚してくる愛情の重たさには困るが、それでも兄として信じているし大切な片割れだ。
でも、人間なら誰だって、大切な人のために生きていける。そういう種族だ。
「クレル。あなただって相当だと思うわ。今だって、手にしている書類は民のための治水工事へ送る兵派遣の案件でしょう?」
「……っ、仕事をするのは力で押さえつけるより楽だからだ!」
珍しくちょっとだけムキになった冷静な王子様にシルフィーナはクスクスと笑う。
(――――なんか、こういうところは可愛いんだよね)
監視するために婚約した、元・魔王の王子様。
だけど、少年時代、学生時代と経て、彼が人間として日々学んでいく姿はシルフィーナにとって微笑ましかった。
兄と喧嘩ばかりする毎日は本当に困ったものだけれど。
「……っ、資料を持ってきたぞ!」
ドタドタと貴族らしからぬ足音をさせて部屋に戻ってきたウィルフレッドは、机の上に両腕いっぱいに抱えた書物をドサッと置いた。
ぜぇぜぇと肩で息をしているところをみると、よほど急いだのだろう。
「大丈夫か、シルフィ!? こいつに変なことをされていないだろうな!?」
両手で妹の手を掴んでくるウィルフレッドの眼差しは真剣そのものだ。
心配してくれるのは悪い気はしないが、この短時間で変なことをされるのは無理だと思う。
そもそも自分は名ばかりの婚約者。今までクレムウェルとそういう仲になったことはない。
「もう、ただ話をしていただけですよ。そうだ、兄様もお茶を飲みますか?」
手を離してもらう口実にお茶を淹れて手渡すと、ゴクゴクゴクと三口で飲み干してしまった。よほど書庫との行き来に全力疾走をしたのだろう。
「おい、資料が足りないぞ。地図も持ってこい。あと地層調査の資料が古すぎる」
書物を確認していたクレムウェルが下した追加命令に、たった今戻ってきたばかりのウィルフレッドはさすがに苛立ちが先だった。
「……王子殿下はお目を悪くされましたか? 地図なら持ってきたはずですが?」
「愚か者。お前が持ってきたのは地表の地図だ。案件を見ていたのなら必要なのが河川地図だと分かりそうなものだがな」
「っ、必要ならお前が自分で取りに行けよ! 陰険魔王が!」
「その間に処理できる案件がいくつあると思っているんだ? 効率すら考えられないのか、馬鹿勇者が」
「なんだとっ!」
ああ、また始まった……と、シルフィーナはため息を吐くと、こっそり扉を開けて廊下にいた兵士を一人呼ぶ。
「すみません、書庫から河川地図と地層調査の最新のものをお願いします」
王子の依頼だと言うと兵士は快く書庫へと向かってくれた。
(これで喧嘩が少し落ち着く頃には資料が届くかしら)
本当に、昔から二人の反りの合わなさは最悪だ。
これからもこの二人、そして自分を加えた三人の歪な関係はずっと続くのだろう。
と、シルフィーナは思っていた。