012:第7章「過去の想いと兄妹の絆」①
「ウィル兄様、そこ間違ってます。詳しい資料は三番目の書棚にありますから」
「え、自分で調べろっていうのか!? お前が教えてくれれば、それで済むんじゃ……」
「それをしたら兄様のためにならないでしょう!? 分からないことでも自分で見つけられるようにしてください!」
ここ一ヶ月は領地の邸でウィルフレッドに対する勉強会だ。
シルフィーナが覚えた領地に関する仕事をウィルフレッドに引き継ぐのが目的である。
父はまだまだ現役なので今後も父から直接学べばいいのだが、
「シルフィーナに任せておけば安心だね~。ウィルフレッドの教育よろしく」
と丸投げされてしまった。
せめて父から学ぶための下地知識だけは習得させておく必要があるだろう。
「大体、なんで今更ここの領地のことなんか……」
毎年、社交界での交流が下火になる季節には領地に戻るようにしている。
だから当然領地には馴染み深いのだが、それと経営知識はまた違う。
「そうですね、本当に今更ですわ。兄様が毎年毎年、領地へ来るたびに邸を抜け出して放浪しなければ」
「っ、そ、それは……」
領地では王城のしがらみやクレムウェル王子と顔を合わせない開放感からなのか、ウィルフレッドは邸をふらりと抜け出しては市井に混じって気楽に遊び歩いていた。
べつに酒を飲んだり迷惑をかけたりなどの放蕩ではなく、街の人々と一緒に市の手伝いをしたり、祭りを盛り上げたり、人助けをして回っていたのを知っているから両親も黙認していたのだ。領民の生活を知り、領民に次期領主の人柄を知ってもらうことも大切なことだから。
けれど、ウィルフレッドが遊び歩いている間、父の仕事を手伝っていたのはシルフィーナだった。
手伝いをしながら領地経営の知識を得たのはシルフィーナだけだから、それをウィルフレッドへ引き継がねばならないのだ。王家へ嫁ぐ前に。
「あと、ルヴィリア公爵家や他の伯爵家から招待状が届いていましたから、その返事も書いておいてくださいね」
「え、いや、俺って、そういうのを書くのは苦手で……」
「知ってます。だから練習させてるんじゃないですか」
学生時代には苦手な作法や勉学も王子と張り合うために懸命にこなしていたが、机仕事よりも身体を動かすことが好きな兄だ。多少強引にでも仕事を振っていかないと自分からは絶対に取り組まないだろう。
「テキバキ頑張ってください。仕事はまだまだ残っているんですから」
「…………わ、わかった」
厳しい眼差しの監督官たる妹に見張られて、ウィルフレッドは渋々と書類の山から一束を手に取るのだった。
◇◇◇
「ふぅ、また明日からは王都の生活なのね」
就寝前、自室の窓辺から外を眺めていたシルフィーナは、疲労のため息で窓ガラスを一瞬だけ曇らせる。
なんとかこの一ヶ月でウィルフレッドに知識を詰め込めさせる日程を終了できた。
その知識を本当に活かせるかは分からないが、まだ当分は父が現役で頑張ってくれるだろうから今後は少しずつ次期領主として成長してもらえばいい。
「本当はもっとゆっくりしたかったけれど」
でも、王都に戻ってからもやらなくてはいけないことが山積みだから仕方がない。
「そういえば、クレルも忙しいのかしら?」」
シルフィーナほど急激に仕事量が増えたとは思えないが、でも、平時の仕事量からして相当のものだろうから結局は同じくらい多忙なのかもしれない。
疲れていないだろうかと心配がよぎったものの、いつ声をかけても「問題ない」「些事だ」「支障はない」などとしか返してくれず、書類ばかりに目を向けるから困る。
「もうちょっと顔に出してくれたら分かりやすいのに」
出逢った頃も、彼は表情が表に出ない子どもだった。
むしろ、ウィルフレッドと喧嘩している時が一番感情が出ているような気さえする。
だとしても、これからは自分がクレムウェルの隣で彼の考えを察し、同じ立場で物事に取り組まないといけない。
これまでも可能な限り時間は取るようにしていたが、より一層彼との時間を密にしていかないといけないだろう。
「…………会いたい……かも」
ふと口を突いてあふれた自分の言葉に、シルフィーナは驚いてしまう。
(な、なに言ってるんだろう、私っ)
ガラス窓に映った自分の頬が赤くなっていくのを目にできなくて、思わずそばにあったカーテンに顔を埋めた。
一ヶ月離れていたとはいえ、王都に戻ればすぐに会うことになるだろうに、どうして今そんなことを思ってしまったのか。それに、幼い頃から婚約者としてずっと頻繁に顔を突き合わせてきたのに、本当に今更すぎる。あえてそんなことを口にするなんて。
「……少しおかしいかも、私」
たぶん、あの舞踏会の夜から。
彼の心がほんの少し垣間見えた、あの瞬間。
自分の心も何かが変わった。
(こんな気持ち、昔とは違う)
前世でウィルを想っていた時はもっと真っ直ぐなものだった。
素直に嬉しくて、些細なことで喜んで、「好きだ」と言えば「好きだよ」と返ってくる。
互いに同じだけの想いを抱え、分かち合える。そんな恋だった。
逆に今は迷路の中で迷い子になっているかのようだ。
「…………もう就寝しないと」
考えすぎはよくないと寝台へ向かおうとしたのだが。
コツン、と扉にノックが響いた。
「シルフィ、もう寝たのか?」
「兄様……?」
こんな夜更けに珍しいと少し戸惑ったが、ウィルフレッドを部屋へ招き入れ、二人掛けの長椅子へと座らせた。
普段よりも言葉が少ない様子に、誰か呼んであたたかいお茶でも淹れてもらおうかと思ったが、それはウィルフレッドに手首を掴まれて止められた。
「あ、いや……その、茶はいらない。代わりに水をもらえるか?」
一度掴んだ手をすぐにパッと離してくれたものの、なんだか少しいつもと様子が違う。
水を注いだ杯を渡して隣に座ると、大きくごくりと喉を潤す音がした。
(なにか話したいことでもあるのかしら)
普段なら考える間もなく声に出すのがウィルフレッドの性分なのに、今はとても言いづらそうに何かを飲み込んでいるかのようだ。
それでも、手の中にある杯の水を迷いのままに幾度か揺らし、大きく一つ息を肺から出し切ってから、ようやく口を開いてくれた。




