キチガイ語教室
「ん? キチガイ……?」
夕暮れ時、仕事帰りの道を歩いていたおれは、ふとした思いつきで、いつもとは違う曲がり角を曲がった。この町には最近引っ越してきたのだ。まだ知らない道も多い。もしかしたら近道かもしれない――そんな軽い好奇心だった。
しばらく歩くと、古びたトタン張りの平屋が現れた。町の集会所を思わせる小さな建物で、表の壁に掲げられた木の看板がやけに目を引いた。薄汚れて角の欠けたその板には、赤いペンキで大きくこう書かれていた。
【キチガイ語教室】
灯りがついており、声が聞こえてくる。窓が開いているらしい。妙な好奇心に突き動かされて、おれは建物の横手にそっと回り込んだ。窓の下でしゃがみ込み、耳を澄ます。
「ンデンナー! ンデンナー! パッキャス! アイアイ!」
「ンデンナー!」「ンデンナー!」「ンデンナー!」「ンデンナー!」
どうやら講師が叫んだ言葉を、生徒たちが復唱しているらしい。意味は皆目わからないが、声の調子からして子供が多いようだ。
おれはそっと窓から覗き込んだ。
中は折り畳み机とパイプ椅子が整然と並び、十五人ほどの生徒が座っていた。ほとんどは小学生くらいの年頃だが、大人の姿もちらほらと混じっている。ただ、どこか幼く見えた。
教壇に立つのは痩せた初老の男。紫がかった髪に金縁の眼鏡をかけている。
壁には紙が何枚も貼られているが、そこに書かれているのは文字というより記号の羅列で、まるで暗号のようだ。黒板にも何か書かれているが、やはり解読不能。唯一読めた貼り紙には、こう書かれていた。
【キチガイ語は、言葉の枠を超えたコミュニケーション。心の声をそのまま伝えることができる】
「ジュールボ! ジュールボ!」
「ジュルーボ!」「ジュルーボ!」「ジュルーボ!」「ジュルーボ!」
講師は目を見開いて、唾を飛ばして叫んだ。心の声をそのまま伝える――意味不明だが、この熱気と奇妙な迫力は、確かに何かをぶつけられているような気がしなくもない。何を言っているのかはまるでわからないが。
「ここで一度基本に立ちカエルゥ! さあ、腹から声を出して、『こんにちは』!」
「アーギャン!」「アーギャン!」「アーギャン!」
なるほど、『アーギャン』は『こんにちは』らしい。
「『興奮する』! クレッッッツッペリン!」
「クレッッッツッペリン!」「クレッッッツッペリン!」「クレッッッツッペリン!」
発音に合わせて腕を振るなど体を使う場合もあるようだ。熱量は伝わってくるが……。
「『お腹が空いた』! 宇宙が叫ぶ!」
「宇宙が叫ぶ!」「宇宙が叫ぶ!」「宇宙が叫ぶ!」
なるほど、そういう比喩表現もあるのか。ますますわからなくなってきたな。
「『今日はいい天気ですね』! 光のぉう、エッ! センス!」
「光のエッセンス!」「光のエッセンス!」「光のエッセンス!」
「『コーヒー』! マメジー!」
「マメジー!」「マメジー!」「マメジー!」
「ラメンー! チャーラメンチャー!」
「チャーラメンチャー!」「チャーラメンチャー!」「チャーラメンチャー!」
「ミマウ! トモノジア! クドッ!」
「トモノジア! クドッ!」「トモノジア! クドッ!」「トモノジア! クドッ!」
「ヤクノウ! ンガッ!」
「ヤクノウ! ンガッ!」「ヤクノウ! ンガッ!」「ヤクノウ! ンガッ!」
「ロスナコ! クマ!」
「ロスナコ! クマ!」「ロスナコ! クマ!」「ロスナコ! クマ!」
「私はソロモン王の末裔だ」
「私はソロモン王の末裔だ」「私はソロモン王の末裔だ」「私はソロモン王の末裔だ」
「スクソオ! セイキョオオオオ!」
「スクソオ! セイキョオオオオ!」「スクソオ! セイキョオオオオ!」「スクソオ! セイキョオオオオ!」
「エイ! シャカシャカ、ビガッビガガガッ!」
「エイ! シャカシャカ、ビガッビガガガッ!」「エイ! シャカシャカ、ビガッビガガガッ!」「エイ! シャカシャカ、ビガッビガガガッ!」
「ダンシ! カーストー!」
「ダンシ! カーストー!」「ダンシ! カーストー!」「ダンシ! カーストー!」
「ンハ! ジンデ! ウコキゲエエエエ!」
「ンハ! ジンデ! ウコキゲエエエエ!」「ンハ! ジンデ! ウコキゲエエエエ!」「ンハ! ジンデ! ウコキゲエエエエ!」
いつの間にか生徒たちは全員立ち上がっていた。叫ぶたびに体を揺らし、椅子がガタガタと揺れる。室内の熱気はどんどん濃くなり、額に汗を浮かべた生徒たちの目は異様な輝きを放っている。
おれは息を呑んだ。目が離せない。
講義は二十分ほど続いた。講師は汗を拭い、深く息を吸い込み、最後の締めくくりの言葉を口にし始めた。
「世の中には、様々な言語があります。英語、中国語、フランス語……しかし、それらとはまったく異なる、一部の者だけが使う秘密の言語。それが、キチガイ語です。キチガイ語は、自分の気持ちを相手の心に真っ直ぐぶつけることができる、もっとも誠実な言語です。たとえ相手が外国人であろうと、壁は存在しません。いずれは、この言語が世界の共通語となるでしょう。みなさん、その日まで決してキチガイ語を絶やしてはいけませんよ」
「はい! 先生、ありがとうございました!」
意外にも、きちんとした挨拶だった。生徒たちは腰を折り、講師に深々と頭を下げた。さっきまで奇声のような言葉を叫んでいたのが嘘のようだ。講義は静謐な空気に包まれて終了した。それぞれが淡々と、けれども満ち足りた表情を浮かべて帰り支度を始めた。
……さて、おれも帰るとするか。しかし、思わぬ見世物だった。家に帰ったら彼女に話してやろう……おっと。
立ち上がりかけたその瞬間、生徒たちが勢いよく一斉に教室を飛び出してきた。おれは慌てて身を屈め、物陰に隠れた。
「ご興味がおありですか?」
「あっ、その……」
生徒たちを見送った講師が、くるりとこちらを振り返った。どうやら最初から気づかれていたらしい。おれはばつが悪くなって頭を掻き、軽く会釈した。
「さぞ驚かれたでしょう。最初は皆さんそうなんですよ」
「ええ、まあ……衝撃的でしたね。看板も……」
「ふふっ。実はこの『キチガイ』という言葉、あなたが思っている意味とは違うんですよ」
「え? その……頭がおかしい人のことじゃ……」
「ええ、確かに世間ではそう使われてますね。しかし、こちらでは別の意味を持つ言葉なんです。『繋ぐ』とね」
「繋ぐ……」
「そうです。ちなみに、マンコとは?」
「は!? それはその、女性の……」
「インカ帝国初代皇帝の名前ですよ。マンコ・カパック」
「あ、ああ、そうでしたか……ははは……」
「それに、スペイン語圏の姓としても使われています。勝手に卑猥な言葉として蔑んだり、規制したり、排除する。それは言葉そのものに対して、とても失礼なことだとは思いませんか?」
「ま、まあ……」
「『キチガイ』という言葉も、上書きされてしまっただけで本来は素晴らしい意味なのです」
「はあ、なるほど……」
「おっと、説教臭くなってしまいましたね。申し訳ない、年寄りなもので」
「あ、いえ。貴重なお話をどうも……あ、すみません、授業をタダで聞いちゃって」
おれは再び頭を下げた。
「いえいえ」と講師は軽く手を振って微笑んだ。
「あなたもぜひ、キチガイ語を愛してください。では、私はそろそろ駅のホームに行かねばなりませんので」
「あ、はい。お気をつけてお帰りください」
「いえ、帰るのではなく、キチガイ語の布教に、ですよ。では、ディアオス」
「ふふっ、さよなら」
講師と握手を交わしたその手は、温かく長く余韻が残った。家路につくも、胸の奥に残る熱は妙に感情を昂らせた。早く誰かと話したい――その思いが自然と歩を速めた。
アパートに帰り着くと、廊下の奥から彼女が顔を覗かせた。
「おかえりー」
「ただいま! なあ聞いてくれよ、さっきすごい体験をしたんだ!」
「んー? ふふふ、なに? 酔ってんの?」
「はははっ、キチガイ語っていうのがあってさあ」
「うわ、ちょっとやめて。声大きいし、呂律回ってないし、何? どうしたの? 怖いんだけど……」
おれは、さっき見聞きしたことを順を追って説明した。教室の熱気、奇妙な言葉、講師の話。だが彼女は終始、哀れみと蔑み、そしてどこか怯えを含んだ眼差しでこちらを見つめていた。
どうやら、彼女にはおれが何を言っているか、まったくわからないようだ。
そのことに気づいたのは、おれ自身が、彼女の口から出る言葉を一つも理解できなくなっていたからだった。