第4章
チーム結成から三日後の昼下がり。
俺たちは、エリナが受けた新たな依頼書を片手に、王都近郊の森の中を歩いていた。
「えーっと、依頼内容は『記憶を失い、森をさまよう騎士の保護及び治療』。患者は、王国騎士団第三部隊隊長、ガルス様。三十代男性、と」
エリナが依頼書を読み上げる。
「記憶喪失、か。また厄介そうなケースだな」
「ええ。目撃情報によると、ここ数日、森の奥で木に向かって剣を振り続けているとか……」
エリナの案内に従って森の奥へ進むと、空気がひんやりと重くなっていくのを感じる。
やがて、開けた場所にたどり着いた。
そこに、一人の騎士がいた。
立派な白銀の鎧を身に着けている。
だが、その姿はひどく痛々しかった。
虚ろな目で、ただ黙々と、目の前にある大木に剣を振り下ろしている。
カツン、カツン、と、乾いた音が響くだけだ。
「あの人が、ガルスさん……」
リリィが、心配そうに呟く。
俺たちが近づくと、騎士はハッとしたように振り返り、剣先をこちらに向けた。
「誰だ! それ以上、近づくな! 俺は……俺は……」
ガルスさんの声は、ひどく混乱している。
「俺は、部下たちを見殺しにした……! あの戦場で、俺は……逃げたんだ……! 俺は、卑怯者だ……!」
彼は頭を抱えてうずくまる。
その瞬間、彼の全身から、黒い霧のようなものが立ち上った。
「来たな、心の壁が……!」
俺は右手に意識を集中し、分析眼を起動する。
だが――俺は目を見開いた。
見えない。トムスさんやリリィの時に見えたような、明確な「壁」が存在しないのだ。
あるのはただ、彼の心の中心にぽっかりと空いた、底なしの「穴」。絶望と罪悪感でできた、暗く、冷たい虚無の空間だ。
「これは……心の壁じゃない。心に、穴が開いちまってる」
「穴、ですって?」
リリィが驚きの声を上げる。
「ああ。記憶と感情が、ごっそり抜け落ちてるんだ。これじゃあ、爆破する対象がねえ……!」
俺は試しに《精神爆破》を放ってみる。
しかし、光る拳は、何の抵抗もなくガルスさんの体をすり抜け、空を切った。
「くそっ……! 俺の力じゃ、どうしようもねえのかよ……!」
初めての、完全な行き詰まり。
自分のスキルの限界を突きつけられ、俺は歯噛みする。
その時だった。
リリィが、俺の前にすっと進み出た。
「レオ、あなた一人で戦っているわけではないのよ」
「だが、俺の爆破が効かないんじゃ……」
「なら、話は簡単じゃない」
リリィは、いたずらっぽく微笑んだ。
「私がこの人の心の穴を埋めて、あなたがそれを爆破すればいい。それだけのことよ」
「そんなことができのか!?」
リリィはガルスさんの前に立つと、そっと目を閉じて、杖を構えた。
「――《情動魔法》!」
彼女の体から、昨日までのどす黒い闇の魔力とは違う、温かく、優しい光の魔力が溢れ出す。
光は、ガルスさんの胸にある「心の穴」へと、ゆっくりと注ぎ込まれていく。
すると、どうだ。
空っぽだったはずの穴が、光で満たされると同時に、彼の罪悪感が形を成し、再び巨大な黒い壁として彼の前に再構築されていく。
「今よ、レオ!」
「ああ、任せろ!」
俺はリリィの隣に並び、光る右手を突き出す。
俺とリリィの力が、一つに合わさる。
「「《合体技・虹翼爆破》ッ!!」」
……今、リリィが勝手に技名を叫ばなかったか?
俺たちの渾身の一撃が、再構築された黒い壁を粉砕する。
闇が晴れ、ガルスさんの瞳に、確かな光が戻った。
「……そうだ。俺は、部下を救おうとして……最後まで、戦って……。間に合わなかったが……逃げたわけじゃ、なかったんだ……!」
記憶を取り戻したガルスさんは、その場に崩れ落ち、静かに涙を流した。
俺とリリィは、顔を見合わせて、ぐっと拳を突き合わせる。
「私たち、最強のコンビね!」
「ああ。あんたがいてくれて、助かったぜ」
その感動的な光景を、エリナが冷静に記録していた。
「森への被害、軽微。樹木数本の損傷に留まる。よし、これなら保険適用範囲内ですね」
……俺たちのチームは、どうやらこういうバランスで成り立っていくらしい。
◇
チーム結成から一週間。
俺たちは、エリナが持ってきた一つの噂に、首を傾げていた。
「完璧な治療を行う、聖人のような治療師がいる?」
「はい。辺境の街、セレニタウンで、心の病に苦しむ人々を次々と救っているとか……」
俺たちの治療法とは違う、全く新しいアプローチだという。
完璧な治療、ねえ。
俺とリリィは顔を見合わせる。
自分たちのやり方に自信はあるが、プロとして、ライバルの存在は気になるところだ。
「よし、行ってみるか」
「ええ、私も興味がありますわ!」
「予算なら、なんとか……!」
こうして俺たちは、噂の街、セレニタウンへと馬車を走らせた。
そして――俺たちは、到着してすぐに、この街の異常さに気づいた。
その街は、完璧すぎた。
道にはゴミ一つ落ちていない。家々の壁は綺麗に塗り直され、人々はまるで軍隊のように、整然と列をなして歩いている。
だが、おかしい。
この街には、「生活」の音が一切ないのだ。
子供のはしゃぐ声も、夫婦の喧嘩する声も、商人の呼び込みの声も。
笑い声も、泣き声も、怒鳴り声も。何も聞こえない。
ただ、無数の足音だけが、不気味なほど正確なリズムを刻んでいる。
「……なに、これ」
リリィが、自分の腕をさすりながら呟く。
「人形の街、みたいだわ……」
俺たちは、街の中央広場へと足を進めた。
そこで、異様な光景の震源地を発見する。
広場の中心にある噴水の前で、白いローブを纏った一人の老人が、集まった住民たちに穏やかな声で語りかけていた。
「見なさい。これが、真の平穏です。嫉妬も、憎しみも、悲しみもない。苦しみから解放された、完璧な世界なのです」
その老人――堕導師ノヴァがこちらに気づき、慈愛に満ちた笑みを向けた。
「おや、旅の方々ですかな。ようこそ、セレニタウンへ」
「あんたが、この街を治療したのか?」
俺の問いに、ノヴァはゆっくりと頷く。
「ええ。私がこの街を救いました。全ての感情を、その根源から除去することでね」
「感情を、除去ですって……!?」
リリィが激昂する。
「そんなもの、治療とは言えないわ! それでは、生きているとは言えないじゃない!」
「愚かなお嬢さんだ。感情こそが、全ての苦痛の源泉。人間を不幸にする病そのもの。これを断つことこそが、真の治療なのですよ」
ふざけるな。
俺は右手に意識を集中し、分析眼で住民たちを見る。
だが――絶句した。
見えない。心の壁も、心の穴も、何もない。
あるのはただ、つるりとした、感情の起伏が一切ない、完璧で、空っぽな魂だけ。
俺は試しに《精神爆破》を放つ。
だが、光は住民たちの体を、まるで幻のようにすり抜けて消えた。
感情がないから、爆破する対象すらない。
「無駄ですよ」
ノヴァが、憐れむような目で俺を見る。
リリィが杖を構え、《情動魔法》を放つ。
住民たちに、強制的に感情を注ぎ込もうとする。
しかし、彼女の放った温かい光は、住民たちの体に届いた瞬間、まるで穴の開いたバケツに水を注ぐように、そのまま流れ出て、霧散してしまった。
「そん……な……」
リリィが、膝から崩れ落ちる。
「私たちの力が……全く、通じない……」
隣でエリナが、恐怖に顔を青くして震えている。
「君たちの治療は、所詮、対症療法にすぎない。壁を壊し、穴を埋めても、感情がある限り、また新たな壁や穴が生まれるだけ。いたちごっこです」
ノヴァは、ゆっくりと俺たちに歩み寄る。
「私の治療こそが、根治療法。二度と心が病むことのない、永遠の平穏を与える、唯一の救済なのです」
その言葉に呼応するように、広場にいた全ての住民が、一斉にこちらを振り返った。
その、何の光も宿さない、感情のない瞳で。
じっと、俺たちを見つめている。
圧倒的な、敗北感。
俺たちがこれまで培ってきた自信も、仲間との絆も、この絶対的な「正しさ」の前では、何の意味もなさない。
俺たちは、自分たちの治療法とは次元が違う、途方もない絶望の真実を、ただ突きつけられていた。