第3章
村での一件から一夜明け、俺とエリナは王都行きの馬車に揺られていた。
トムスさんの治療の噂はあっという間に広まり、俺はエリナを通じて、正式に王家から次の依頼を受けることになったのだ。
「次の患者さんは、この国の王女様です。……少々、いえ、かなり手強いかと」
「王女様、ねえ」
エリナの憂鬱そうな顔に、俺はあまり気負わずに応じる。
相手が誰だろうと、やることは同じだ。
心の壁が見えるなら、それをぶっ壊す。
ただ、それだけ。
馬車が止まったのは、王城……ではなく、王都の郊外にぽつんと立つ、古びた石造りの塔の前だった。
夕暮れの赤い光が、塔を不気味に染め上げている。
「え、ここ?」
「はい。リリィ様は、半年ほど前からこの塔に引きこもっておいでで……」
エリナが説明している最中、塔の最上階の窓から、どす黒い紫色の光が漏れ、空にまで響き渡るような、甲高い笑い声が降ってきた。
「ククククク……フハハハハハ! また来たか、我が深淵を覗きに来た、愚かなる虫けらが!」
俺とエリナが顔を見合わせる。
なんだ、この中二病なセリフは。
見上げると、塔のてっぺんに、黒いドレスを纏った一人の美少女が立っていた。
銀色の髪を風になびかせ、片手には禍々しいオーラを放つ魔法の杖。
もう片方の手には、やけに分厚い『禁断魔法大全』と書かれた本を持っている。
「我が名はリリィ・ファルメリア! この世界に混沌の夜をもたらす、黒翼の姫なり!」
彼女はビシッと決めポーズを取る。
その勢いで、背負っていたマントが派手にはためく。
が、運悪く風の向きが変わり、バサッとマントが彼女自身の顔に張り付いた。
「げほっ……ごほっ……んぐっ……!」
「だ、大丈夫ですかー?」
俺が思わず叫ぶと、彼女は慌ててマントを顔から引き剥がし、咳き込みながらもキッとこちらを睨みつけた。
「き、気にするな、愚者よ! 我が身に宿る闇の力は、時に制御が困難になるのだ!」
言うが早いか、彼女の背後に、どす黒いオーラが渦を巻き、巨大な闇の竜の姿となって具現化する。
竜は天に向かって咆哮し、その威圧感にエリナが「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
確かに、すごい迫力だ。
トムスさんの時とは比べ物にならない。
だが――俺の目には、はっきりと見えていた。
あの巨大な闇の竜の、その大きな瞳が。
涙でウルウルに潤んでいるのが。
そして、竜を従えているはずのリリィ自身の顔にも、尊大な笑みの下に、一瞬だけ「どうしよう」という戸惑いと怯えの色が浮かんだのを。
「……なるほどな」
どうやら次の相手は、トムスさんとはまた違う意味で、かなり厄介な心の壁をお持ちのようだ。
俺は口の端を吊り上げ、塔の上の「黒翼の姫」様に向かって、不敵な笑みを返してやった。
闇の竜は、その巨体に似合わず、どこか悲しげに「きゅうん」と鳴き、口からしょっぱい涙のブレスを吐き出した。
「うわっ!?」
「きゃっ! レオさん、危ない!」
間一髪で避ける俺の後ろで、エリナが悲鳴を上げる。
見ると、涙のブレスが着弾した地面が、塩分過多で白く変色していた。
物理的な攻撃力も普通にあるのかよ、厄介だな!
「ククク……見たか、我が僕の、悲嘆の吐息を! これに触れた者は、心が塩漬けにされてしまうのだ!」
「いや、どう見てもただの涙だろ! しかもお前の竜、さっきからずっと泣いてんぞ!」
「なっ……こ、これは、我が強大すぎる魔力に、空間そのものが涙しているのだ!」
「無茶苦茶な理屈をこねるな!」
軽口を叩きながら、俺は塔の壁を蹴って一気に最上階の部屋へと飛び込む。
リリィの目の前に着地すると、彼女は一瞬、素で驚いた顔をした。
「な、なぜ我が聖域に……!」
「あんたを治療しに来たんだよ、黒翼の姫様」
「なっ……!?」
俺がニヤニヤと笑いかけると、リリィは顔を真っ赤にして後ずさる。
その瞬間、俺の分析眼が、彼女の心の核心を捉えた。
見えた。彼女の心の壁が。
それは、トムスさんの時のような、黒く分厚い壁じゃなかった。
彼女の心を守っているのは、数え切れないほどの傷が刻まれた、透明なガラスの城。
城壁には、「孤独」「プレッシャー」「愛されたい」……そんな、悲痛な願いがびっしりと刻まれている。
脆くて、儚くて、だけど――どうしようもなく、綺麗だった。
「……あんた、本当は寂しいんだろ?」
俺の言葉に、リリィの肩がびくりと震えた。
「な……何を言うか! 我は闇に抱かれし孤高の存在! 孤独など知らぬ!」
「その割には、心の壁がガラス細工みたいに脆そうだな。……でも、すげえ綺麗だ」
「――え?」
綺麗。
その一言が、彼女の意表を突いたらしい。
リリィは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、俺をまじまじと見つめている。
「き、貴様……我を、愚弄する気か……」
「馬鹿になんかしてないさ。重圧も、誰にも分かってもらえない孤独も、全部抱えて、それでもあんたは気高くあろうとしてる。その心は、俺にはちゃんと、綺麗に見えるよ」
俺は一歩、彼女に近づく。
「『みんなに愛されたい』『立派な王女になりたい』『一人は嫌だ』……全部、当たり前の気持ちじゃないか。そんなもんで出来た壁で、自分を隠すなよ」
リリィの翠色の瞳から、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。
彼女の心の壁に、ピシッと、綺麗な亀裂が走る。
「でも……私は、失敗ばかりで……民は、きっと失望して……」
「失敗したって、あんたはあんたじゃないか。大丈夫だ」
俺は、光を纏った右手を、そっと彼女の胸に当てる。
「あんたの孤独、俺が吹っ飛ばしてやる!」
共鳴する、彼女の心と、俺の魂。
《精神爆破・共鳴Ver》――発動!
パリンッ!
ガラスの壁が砕ける、澄んだ音が響き渡る。
それは、暴力的な破壊じゃなかった。
砕け散ったガラスの破片は、一つ一つが虹色の光を放ち、部屋中を乱反射しながら、万華鏡のようにきらめく。
降り注ぐ光の粒子が、リリィの涙を優しく拭っていく。
やがて光が収まった時、彼女は――人生で一番綺麗なんじゃないかと思うくらい、晴れやかな笑顔を見せた。
「あ……あれ? 胸が……なんだか、すごく軽い……」
「それが、本当のあんただよ」
俺がそう言うと、彼女は少しだけはにかんで、それからコホンと一つ咳払いをした。
「ふ、ふん……まあ、感謝してやらんでもない。我が闇の力は、どうやら光の力と交わることで、真の調和に至ったようだからな」
「……は?」
「これより我は『黒翼の姫』の名を改め、『光と闇の調和を司る、虹翼の姫』として、この世界を導いていくとしよう!」
ビシッと、新たな決めポーズを取るリリィ。
……治ったけど、厨二病は治ってない!
塔の下から、様子を見ていたエリナが駆け上がってくる。
「レオさん! リリィ様! ご無事で……!」
エリナは、部屋がほとんど無傷なことと、晴れやかな顔のリリィを見て、心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「よかった……修繕費が、ほとんどかからずに済みました……!」
「そっち!?」
「あ、いえ! それに、今の爆破……すごく、綺麗でした」
エリナが頬を染めて言う。
まあ、何はともあれ、一件落着、か。
俺は、新しい決めポーズの練習を始めたリリィと、帳簿をつけ始めるエリナを見て、思わず笑ってしまった。
◇
翌朝、俺とエリナが塔の入り口で待っていると、リリィが軽やかな足取りで階段を降りてきた。
その姿を見て、俺は思わず二度見する。
「……誰だ?」
「失礼ね、私よ。リリィ・ファルメリアよ」
そこにいたのは、昨日までの黒一色のドレスではなく、光を象徴する白と、闇を象徴する黒のツートンカラーでデザインされた、斬新なドレス姿の王女様だった。
髪型も、どこか昨日より凝っている。
「ふん。昨日の爆破で、我が内なる闇と光は完全なる調和を果たしたわ。今の私は、混沌の闇夜を照らす一筋の光明……いや、漆黒の夜空に輝く希望の暁星……」
「はいはい、分かったから。行こうぜ」
「む……もう! もう少し私の新しい設定に興味を持ちなさいよ!」
口では文句を言っているが、彼女の表情は昨日までとは比べ物にならないくらい、明るく晴れやかだ。
厨二病は悪化、いや、進化したみたいだが、心の壁がなくなったのは間違いないらしい。
三人で王都の目抜き通りを歩く。
活気のある街並み、行き交う人々の楽しげな声。
異世界も、なかなか悪くない。
俺がそんなことを考えていると、隣を歩くリリィが、おずおずと、しかし嬉しそうに街の人々に手を振った。
最初は、王女の突然の登場に驚き、遠巻きに見ていた市民たちも、彼女の自然で屈託のない笑顔に気づくと、一人、また一人と、笑顔で手を振り返してくれる。
「リリィ様……!」
「お元気そうで、何よりです!」
口々に寄せられる温かい声に、リリィの瞳がみるみる潤んでいく。
「みんな……私のこと、受け入れてくれるのね……」
「当たり前だろ。あんたが勝手に心を閉ざしてただけなんだからさ」
俺がぶっきらぼうに言うと、リリィは「そう……そうだったのね」と、本当に嬉しそうに微笑んだ。
その光景を、エリナが母親のような優しい目で見守っている。
そして、ふと何かを思いついたように、パンっと手を叩いた。
「決めました! 私たち、正式に治療チームを結成しましょう!」
「チーム?」
「はい! 今後の活動を円滑に進め、予算を効率的に配分するためにも、チーム化は必須です!」
エリナが、また経理っぽいことを言い始めた。
彼女は、俺たち二人に向き直って、にこやかに提案する。
「まず、レオさんが心の壁を破壊するメインアタッカー兼、私たちのリーダーです!」
「俺がリーダーかよ」
「そして、リリィ様が強力な魔法でレオさんを援護する、魔法サポート!」
「まあ、この『虹翼の姫』の力、存分に貸してあげるわ!」
リリィが再びビシッとポーズを決める。
「そして私は、依頼の管理から予算の配分、被害状況の確認と保険申請まで、全ての雑務……いえ、サポートを担当します!」
エリナが胸を張る。それが一番大変そうだ。
「よし、決まりだな!」
俺は、右手をすっと前に突き出した。
それを見て、リリィが少し照れながらも、俺の手に自分の手を重ねる。
最後に、エリナが「えへへ」と笑いながら、そっと二人の手に自分の手を乗せた。