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第2章

 俺の体は無重力空間から、今度は強烈な重力に引かれて真っ逆さまに落ちていく。

 俺が固く目をつぶった、その時。

 

 ふわり、と。

 

 想像していた衝撃は一切なく、代わりに俺の体は、信じられないほど柔らかい何かに優しく受け止められた。

 恐る恐る目を開けると、そこには――どこまでも続く緑の草原が広がっていた。


 鼻をくすぐるのは、青々しい草いきれの匂い。

 頬を撫でる風は、淀んだオフィスとは比べ物にならないくらい、澄んでいて心地いい。


 頭上には、東京では決して見ることのできない、絵の具で描いたような真っ青な空。

 ヨレヨレの作業着姿が、この壮大な自然の中でひどく浮いているのが自分でも分かって、思わず乾いた笑いが漏れる。


「マジで……来ちまったのか、異世界」


 途方に暮れて、自分の右手を見つめた、その時だった。

 手のひらの皮膚が、じわりと赤く発光したかと思うと、そこにスルスルと見慣れない文字が浮かび上がってきた。


『《精神爆破スキル》習得完了』


「精神爆破ってなんだよ……」

 

 俺がその胡散臭いスキル名にツッコミを入れていると、遠くの地平線から、巨大な黒いオーラが人型のまま、ゆらりと立ち上がるのが見えた。


「ウオオオオオオオオッ!」


 腹の底に響くような、苦悶に満ちた叫び声が、風に乗ってここまで届いてくる。

 俺はゴクリと唾を飲み込み、とりあえず人里を求めて、黒いオーラの方へと歩き出した。


 しばらく歩くと、レンガ造りの家々が立ち並ぶ、小さな村の入り口が見えてきた。

 

 村の門の脇で一人の美少女が必死の形相で帳簿と格闘している。

 透き通るような銀髪に、知的な眼鏡。

 歳は俺より少し下くらいか。

 

 こんなファンタジー世界に不釣り合いなほど、現実的な「疲労」を顔に貼り付けて、彼女は眉間に深いシワを寄せている。


「今月の魔獣被害による損害が……ああ、もう!赤字が止まらないじゃない!」


 その時、村の方から甲高い絶叫が響き渡った。


「うわあああ! また商人のトムスさんが暴れてるぞ!」

「誰か押さえろ! 店のガラスが割れる!」


 その声を聞いた瞬間、美少女の顔からサッと血の気が引いたのが分かった。


「だ、だめです! 今月はもう、本当に修繕予算が残っていないのに……! どなたか! どなたか治療師の方はいらっしゃらないのですか!」


 半ばヤケクソになった彼女の叫びに、俺は思わず、おずおずと手を上げた。

 アトラスは言っていた。「他人を救うことで、自分を救え」と。


 田中への罪悪感が、俺の背中を押す。


「あ、あのう……俺、一応、治療師……らしいです」

「え?」


 彼女は、眼鏡の奥にある大きな翠色の瞳をぱちくりさせながら、俺を見上げた。

 その瞳が、みるみるうちに潤んでいく。


「ほ、本当ですか!? 天の助けです!」

「はあ、どうも……」

「私、エリナと申します! この村の経理を担当しております! どうか、どうかトムスさんを! このままでは村の財政が破綻してしまいます!」


 すごい勢いで頭を下げるエリナ。


 俺が「まあ、やってみます」と村の中へ向かおうとすると、エリナは慌てて分厚い帳簿を抱え、後を追ってきた。


「お待ちください! 私も同行いたします!」

「え、危ないだろ?」

「被害状況を現場で直接確認しなければ、正確な損害額が算出できませんから!」

「……あんた、本当に経理なんだな」


 俺の呆れた声に、エリナはキリッとした顔で言い切った。

 

「ええ! この村の財政は、私の双肩にかかっているのですから!」


 こうして俺は、異世界で初めてできた仲間――やけに所帯じみた美少女会計士と共に、騒ぎの中心へと向かうのだった。


 ◇


 村の中央広場は、一人の男の絶望によって支配されていた。


「俺のせいで……俺のせいで、家族が……!」


 立派な店構えの商店の前で、大柄な男――商人のトムスさんが、虚空に向かって慟哭している。

 その全身からは、まるで黒い泥のようなオーラが立ち上り、人の形をした憎悪の魔獣となって具現化しかけていた。


 村人たちは恐怖に顔を引きつらせ、遠巻きに見守るだけだ。


「死ねば……死ねば楽になるんだ……!」


 トムスさんの自己嫌悪が頂点に達した瞬間、彼の周囲の空間がぐにゃりと歪む。

 そして、彼の後悔と罪悪感が形を成し、巨大で分厚い、漆黒の壁となって彼の心を覆い隠した。


「おい、アンタ!」

 

 俺はトムスさんに向かって叫ぶ。


「死んでお詫び? ふざけんじゃねえ! そんなんで家族が喜ぶとでも思ってんのか!」

「な、なんだ貴様は……俺の苦しみが、お前に分かってたまるか!」

「ああ、分かるさ。分かるから、言ってるんだ」


 脳裏に、田中の最後の顔が焼き付いて離れない。

 あいつも、こうやって一人で全部抱え込んで、誰にも言えずに、壊れていったんだ。


 あの時、俺にこの力があったなら。

 あいつの心の壁を、壊してやれたなら。


 後悔が、怒りとなって俺の全身を駆け巡る。

 

 アトラスは言っていた。

 「怒りと共に爆破せよ」と。


「もう誰も……一人で抱え込ませねえ!」


 叫びと共に、俺は地面を蹴った。


 右手に、灼熱の光が集まる。

 俺は、田中を救えなかった無力な俺自身を殴りつけるように、光る拳を、黒い壁の中心に叩き込んだ。


《精神爆破》――ッ!


 ゴオオオオオオオン!

 

 世界から音が消えるほどの衝撃。

 黒い壁は、俺の拳が触れた一点から、蜘蛛の巣のようにまばゆい光の亀裂を走らせる。


 そして――ガラス細工のように、木っ端微塵に砕け散った。

 

 壁の破片は、絶望の黒から、希望の光の粒子へと変わり、キラキラと広場に降り注いでいく。

 黒いオーラが晴れ、トムスさんはその場にへなへなと座り込んだ。

 

「……あれ? 俺は……一体、何を……」

「大丈夫ですか?」


 俺が声をかけると、トムスさんはハッとしたように顔を上げた。

 その瞳にはもう、憎悪の光はない。

 

「君は……君が、助けてくれたのか……? ありがとう……本当に、ありがとう……!」


 トムスさんは、子供のように声を上げて泣き始めた。

 それを見ていた村人たちから、わあっ、と歓声が上がる。

 その温かい声援が、俺の胸にじんわりと染み込んでいく。


「やった……本当に、救えた……」


 不思議な感覚だ。

 ブラック企業でどれだけ働いても、どれだけ頭を下げても、一度だって感じたことのない、途方もない達成感と温かい何かが、胸を満たしていく。

 俺にも、人を救う力がある。

 田中が望んだ、あの力だ。


 隣を見ると、エリナが翠色の瞳を潤ませ、自分のことのように喜んでくれている。

 

「すごい……本当に、素晴らしいです……!」


 彼女はそっと涙を拭うと、すぐにキリッとした表情に戻り、カバンから手早く書類を取り出した。

 

「そして何より、被害が最小限で済みました! これなら修繕費も……」

「……あんた、本当にブレないな」


 俺のツッコミに、エリナは「えへへ」と可愛らしく笑った。

 その笑顔を見て、俺はこの世界で、この力で、やっていこうと、改めて強く心に誓った。



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