第1章
「……何時間、経ったんだっけ」
乾ききった喉から、自分でも驚くほど掠れた声が漏れる。
深夜二時。
無機質な蛍光灯が照らし出すオフィスには、もちろん俺一人。
静寂を破るのは、パソコンのファンが唸る低い音と、俺自身の不規則な心臓の音だけだ。
視界の端で点滅する時刻表示は、俺の連続勤務記録が百六時間に達したことを、無慈悲に告げている。
自己新記録更新中、かよ。
デスクの上には、飲み干された栄養ドリンクの空き缶が墓標のように林立し、その麓には決して終わりの見えない資料の山が広がっている。
マウスを握る俺の手が、カタカタと小刻みに震えているのに気づく。
意思とは無関係に、まるで身体そのものが生命活動の停止を訴えているみたいだ。
「……うるせえな」
震える手に悪態をつきながら、ふと、視線をデスクの隅へ移す。
そこに置かれた一枚の写真。
安物のスーツを着て、ぎこちなく笑う男が二人。入社したての頃の、俺と――田中だ。
無意識に、指先が冷たいフレームを撫でる。
三ヶ月前まで、俺の隣で同じように死んだ目をしながら、同じように資料の山と格闘していた、たった一人の同期。
そして――三ヶ月前、俺の隣のこのデスクで、静かに命を絶った、親友。
あいつも、いつも言っていた。
疲れきった顔で、それでも冗談めかして笑いながら。
「なあ、レオ。もしさ、こんな風にボロボロになってるやつを、一発で助けられるような、そんな都合のいい力があったら最高だよな」
馬鹿なやつだ。
そんな力、あるわけない。
お前は誰よりも優しかった。
だから、誰よりも先に、たった一人で、壊れてしまった。
どうして、気づいてやれなかったんだろう。
なんで、お前だけが逝って、俺はまだここにいるんだろう。
罪悪感が、黒いタールみたいに胸の内にへばりついて、息苦しい。
田中の遺書にあった、たった一行の言葉が、脳裏で何度もフラッシュバックする。
――レオくん、君は壊れちゃダメだ。
「……お前に言われたくねえよ、馬鹿野郎」
写真の中の田中に悪態をついた、その瞬間だった。
ズキン、と心臓を直接握り潰されたような、鋭い激痛が胸を貫いた。
「――っ!?」
息が、できない。
ドクン、ドクン、と心臓が暴れ馬のように、肋骨を内側から蹴り上げる。
視界がぐにゃりと歪み、頭上の蛍光灯の冷たい光が、まるで生き物のように醜く脈動して見える。
「ぁ、ぐ……っ、ぅ……」
倒れ込むように、俺はデスクに突っ伏した。
ああ、そうか。
これが、限界か。
なあ、田中。
お前の言う通りには、なれそうもねえや。
俺も、そっちに行くのか――。
◇
意識が浮上する。
いや、浮上というより、叩き起こされた、という方が正しい。
さっきまで俺の胸を苛んでいた、心臓を直接握り潰されるような激痛は、嘘のように消え去っていた。
「……ん?」
ゆっくりと目を開けると、そこは、真っ白な空間だった。
床も、壁も、天井も。
どこまでも見渡す限り、白。白。白。
継ぎ目ひとつない、現実感のない空間が、ただ無限に広がっている。
なんだ、ここ。
死んだのか、俺。
だとしたら、ここは天国か?
それとも地獄への待合室か?
シャカ、シャカシャカシャカ!
そんな俺の哲学的な問いを、やけに軽快な音が打ち破った。
音のする方に目を向ける。
そこに、一人の男が立っていた。
年は四十代くらいか。
日に焼けた肌に、鋼のように鍛え上げられた肉体。
どう見ても、ただ者じゃない。
なのに、なぜかヨレヨレの白衣をだらしなく羽織っている。
そして手には、プロテインシェイカー。
今まさに、猛烈な勢いでシェイクしている真っ最中だった。
シャカシャカシャカ!
ゴクッ、ゴクッ……ぷはーっ!
「……うめえ! やっぱトレーニング後は、プロテインに限るな!」
「……」
声も出ない。
俺が魂の抜け殻みたいになっていると、男はこっちに気づいて、歯磨き粉のCMみたいに白い歯を見せてニカッと笑った。
「よお! 目が覚めたか、若いの!」
「あ、あなたは……?」
「俺か? 俺は爆神アトラス! 神様だ!」
男――アトラスは、ドン! と効果音が付きそうな勢いで、両腕の力こぶを強調するダブルバイセップスのポーズを決めた。
なんで初対面で筋肉見せつけてくんだよ。
というか、背景にどこからともなく薔薇が咲き誇ってんだけど!?
「か、神様……じゃあ、俺はやっぱり……」
「おう、死んだぞ! お前の心臓、完全に止まってたからな!」
アトラスはあっけらかんと言い放つ。
その言葉に、俺は不思議と何の感情も湧かなかった。
やっぱりな、という納得だけがあった。
「だが安心しろ! お前を生き返らせてやる! お前のダチに、しつこく頼まれちまってな」
「ダチ……?」
その単語に、止まったはずの心臓が、ドクリと大きく脈打った気がした。
アトラスが指をパチンと鳴らす。
すると、何もない空間に、ぼんやりと泣きじゃくる田中の姿が浮かび上がった。
「田中……!」
『アトラス様ぁ……レオが、レオが死んじまいますぅ……! あいつは、俺みたいになるべきじゃないんです! だから、どうか……!』
映像の中の田中は、俺のために頭を下げてくれていた。
やめろよ。そんな顔、するなよ。
俺がお前を救えなかったのに。
お前が俺を心配してどうするんだよ。
罪悪感と、安堵と、どうしようもない怒りが、腹の底でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「うおおおおおおおおっ!」
気づけば、俺は叫んでいた。
何に対しての怒りかも分からない。
ただ、このやり場のない感情を、爆発させずにはいられなかった。
「……ハッハッハ! いいぞ、その怒り! それだけの感情の爆発力があれば、上出来だ!」
アトラスは、俺の怒りを浴びて、なぜか満足げに頷いている。
「よし決めたぞ! お前を異世界に送って、『心の医者』にしてやる!」
「心の……医者?」
「そうだ! 向こうの世界はな、心の病が実体化する、ちょっと厄介な世界でな。お前には、そこで悩める連中の『心の壁』を、片っ端からぶっ壊してもらう!」
「俺が……人を、救う……?」
「そうだ。田中を救えなかったお前のその罪悪感。その心の壁を治すには、他人の心を救い続けるのが一番の薬だ。お前は、他人を救うことで、初めて自分自身を救うことができる」
アトラスの言葉が、妙に胸にストンと落ちた。
俺が、人を救う?
田中が望んだ、「都合のいい力」を手に入れて?
「さあ行け、若いの! 百聞は一体験に如かずだ!」
「ちょ、待っ……!」
俺が何か言う前に、アトラスは俺の背中を、大型トラックに追突されたかのような衝撃で、思いっきり叩いた。
「最後に一つだけアドバイスだ!」
真っ逆さまに落ちていく俺に向かって、アトラスは満面の笑みで親指を立てる。
「プロテインは、いいぞ」
「知るかぁーーーーーーーーっ!」
俺の絶叫は、真っ白な世界に虚しく響き渡り、やがてどこかへと吸い込まれていった。