2話 元勇者の足跡
夕暮れの柔らかな光が、麦畑に囲まれた小さな村の輪郭を優しく縁取っていた。埃っぽい道端を、年老いた農夫トムが荷車を引いて歩いている。干し草を山と積んだ荷車は軋む音を立て、静かな田園にその響きを広げた。トムの額に光る汗が、長い一日の終わりを物語っていた。
その時、遠くから革のブーツが地面を踏む軽快な音が近づいてきた。トムが目を上げると、そこには若い女性が立っていた。
彼女の名はアム。長い旅路で疲れ果てた顔には、どこか拭いきれぬ決意が宿っている。腰に短剣を下げ、背には小さな袋を背負ったその姿は、ただの旅人とは一線を画していた。
「おや、旅のお嬢さんかい?こんな田舎に何の用だね?」トムは目を細め、アムをじっと見つめた。彼女の鋭い眼差しと、風に揺れる短剣の鞘が、彼の好奇心をかきたてた。
「突然すみません…シオン・エバレットという方を探してるんです。ご存じありませんか?」アムは一呼吸置き、まっすぐにトムの目を見据えた。彼女の澄んだ声が、夕風に運ばれて麦の穂を揺らした。
その名を聞いた瞬間、トムの顔が凍りついた。「シオン・エバレットだって!?」彼の声は驚きに震え、目が大きく見開かれた。しばらく言葉を失い、荷車を握る手が止まる。やがて、乾いた笑いを漏らすと、「いやいや、お嬢さん、知ってるも何も…シオン・エバレットは25年前に魔王を倒した勇者だよ。この大陸で知らん者なんているもんかい。ひょっとして同姓同名の別人を探してるのかい?」と続けた。
アムは首を振った。彼女の瞳には揺るぎない意志が宿っていた。「いえ、私が探しているのはその勇者シオン様です」
「はっははは!」トムは思わず大声で笑い出した。「まいったな、お嬢さん。勇者シオンたるお方が、こんな麦畑しかない田舎の村にいるってのかい?冗談はやめてくれよ」彼は笑いながらも、アムの真剣な表情にどこか戸惑いを隠せなかった。
トムの笑い声が麦畑に響き、やがて風に溶けるように消えていった。しかし、アムの表情は変わらない。彼女は唇を軽く噛み、「冗談じゃないんです」と静かに、だが力強く言った。「シオン様がこの村にいるのは母から聞いて知っています」
トムは笑うのをやめ、彼女の言葉に耳を傾けた。地平線が橙に染まり、空が夜を迎える準備を始めた中、彼の顔に浮かんだのは複雑な表情だった。「母だって?お嬢さん、あなたの母親は勇者シオンとどういう関係なんだい?」トムの声は低く、どこか探るような響きを帯びていた。
「母の名はトライナ・エリスティア。勇者シオンと一緒に魔王を討伐した仲間です」
トムの目が一瞬大きく見開かれ、彼の手が荷車の縁を強く握った。トライナ・エリスティア――その名がトムの胸に響いた。アマゾネス族の女戦士で、勇者シオンの仲間だった。剛剣を操り、戦場で誰よりも勇敢に戦った彼女は、25年前、魔王の脅威から大陸を救った伝説の一人だ。トムはふと思い出した。彼女は後に同じ勇者一行で大賢者のトーリス・エリスティアと結ばれたと、吟遊詩人の歌で聞いたことがあった。
「お前さんが…あのトライナ様の娘だって?」トムの声はかすれ、信じられないという思いが滲んでいた。彼はアムを改めて見つめ直した。疲れた旅装に短剣を携えた姿は、確かにただの村娘とは異なる気配を放っている。だが、それ以上に、彼女の瞳に宿る炎は、遠い昔に耳にしたトライナの勇姿を彷彿とさせた。
「いや…待てよ、トライナ様といえば今はサフィリオン王国の軍司令官だったはず。ってことは、お嬢さんはサフィリオンからわざわざこんな辺鄙な村まで来たのかい?」トムの声には驚きと疑いが混じり、彼の目がアムを鋭く見据えた。
「そうです」とアムは短く答えた。彼女の声は静かだが、どこか疲れを隠しきれていなかった。
「驚いた。あんな遠くからここまで、どうやって無事に辿り着いたんだ? 道中、魔物に襲われることもなく?」トムは眉を寄せ、彼女の旅装に目をやった。埃にまみれた革ブーツと短剣が、過酷な旅を物語っているようだった。
「母が修行を兼ねて一人で行けと言ったんです。魔物には何度か遭遇しましたけど、なんとか切り抜けました」アムの言葉には淡々とした強さがあり、彼女の瞳に一瞬、戦いの記憶がよぎった。
「うーん、にわかには信じられん話だが、お嬢さんが嘘をついてるようには見えねぇ。この村で何か知ってる奴がいるとすれば、村長くらいだ。案内してやるから、ついておいで」トムは目を伏せて少し考え込んだ後、アムに視線を戻し、荷車をゆっくり動かし始めた。夕暮れの光が彼の背中を照らし、疲れた肩に柔らかな影を落とした。
「ありがとうございます」アムは小さく頭を下げ、トムの後に続いた。埃っぽい道に彼女の足音が軽く響き、遠くの麦穂が風に揺れてささやくように二人を見送った。