60. 絶望(※sideラウル)
私は馬鹿だ。世界一の愚か者だ。
ティファナはあんなに言葉を尽くし、私の目を覚まさせようとしてくれていたのに。
『信じられません、ラウル様。あなたはそのような虚言を簡単に信じてしまわれたのですか?』
『言い張るも何も、それが真実ですから。あなたはロージエさんに簡単に騙されてしまっただけだったのですね……。そのために私は、こんなにも長いこと……』
『互いの家のためにも、私たちの結婚生活は続けるべきです。それがヘイワード公爵家の子息と、オールディス侯爵家の娘との義務だと思いますが』
『ラウル様。……信じていただけなくて、とても残念です。私はあなたと、良き夫婦になりたかった』
「~~~~っ!! あぁ……っ! クソ……ッ!」
フラフラしながらどうにか自室に戻った私は、頭を掻きむしりながら悶え転がる。一体何をやっているんだ私は。初めての恋に溺れ、脳みそが溶けてしまったのか。
もっと私の心が強ければ……、弱々しく自分を頼ってくる、自分より下だと思える女に対して優越感を抱き、心を許すことなどなかったのだろう。だが、私は逃げた。優秀な妻から。勝てないというプレッシャーから。
ティファナほど、こんな至らぬ私をそばで支えてくれる才女は他にいないというのに。
あんな低レベルな小娘の甘言にまんまと騙されるとは……!
(と、とにかく……明日の朝一番にオールディス侯爵邸を訪問しよう。まだ間に合う……はずだ……。ティファナだって、私との離縁を最後まであんなに拒んでいた。私が心を尽くして謝れば、きっと受け入れてくれる……!)
ところが。
空が白くなりはじめる頃まんじりともせず馬車に飛び乗り、そして朝一番で駆けつけた私に、侯爵やティファナとの面会の許可は降りなかった。
「な……何故だ! 屋敷にいらっしゃるのだろう!? 火急の用件だ。もう一度オールディス侯爵に取り次いできて欲しい」
玄関先から中にも入れてもらえず、私は焦った。対応してくれる使用人に食らいつく勢いで懇願する。
しかし、使用人は冷め切った表情で言った。
「旦那様もお嬢様も、まもなく行なわれる王宮での祝賀パーティーに参加するための準備で大変忙しくしております」
「いや、だから! 来訪したのがこの私だときちんと伝えてくれたのか!? ティファナの夫のラウル・ヘイワードだ。ヘイワード公爵家の。分かるだろう!?」
時間がないのはこちらだって同じだ。祝賀パーティーの準備もそうだが、明日には父が帰ってくる。
このままの状態で父を迎えるわけにはいかないんだ……!
「もう一度! きちんと話してきてくれ! ヘイワード公爵家のラウルが謝罪に来ていると! 取り次いでもらえないのなら、このまま押し通る!」
「……。はぁ」
使用人は露骨に嫌な顔をすると、屋敷の中に入っていった。扉を開けて強引に入っていきたい気持ちをぐっと堪え、大人しく待つ。
すると五分ほど経った頃、先ほどと同じ使用人がまた玄関先に出てきた。
「旦那様はこう仰っておいでです。……祝賀パーティーの場で会おう、と」
「だ、だから……! それでは遅いと……!」
「お帰りいただくようにとのことですので。失礼いたします」
使用人は問答無用とばかりに扉を閉めてしまった。
私は呆然とするしかなかった。しばらくその場に立ち尽くし、やがてそこから数歩離れ、未練がましく上の階の窓を見上げる。ティファナが私に気付いてくれていないかと。ひそかに私を見守ってはいまいかと。
だが結局、誰も屋敷から出てくることも、窓から私の様子を見ていることもなかった。私は絶望し、ヨロヨロと馬車に戻ったのだった。
「……お前は一体何を言っているのだ」
怒りに燃える目をした父の顔色はどす黒く、その迫力に私は息もできなくなる。どうにか予定がずれて帰国が遅れることを願ったが、その祈りも虚しく、父と母は翌日予定通りに帰国し、このヘイワードの屋敷に戻ったのだった。まず家令から報告が行ったのだろう、しばらくすると自室に引きこもる私の元へ使用人が訪れた。父が呼んでいる、と。
死刑執行の場に向かうような心境で、私は父の待つ部屋へと向かった。
父の怒りの圧に耐えきれず、私は何もかもを白状した。
「私の留守中に、ティファナ嬢と離縁した、だと? それもどこぞの男爵家の娘に惑わされ、その娘を妻に迎えるために……?」
「……き、気の、迷いでした……。ティファナには必ず許しを得、離縁の申し出を、と、取り消してもらいます……。まだおそらく、離縁状を役所に提出までは、してな…………ひっ!!」
喉が引きつり情けない声が出たのは、父が突然自分の目の前にあった書類の束を、私に向かって投げつけてきたからだ。威厳のある恐ろしい父だが、このような暴力的な振る舞いをしたのは初めてだった。
「この愚か者が……! 貴様には自覚がないのか? ヘイワード公爵家の嫡男であるという自覚が……! ティファナ嬢をおいて他の誰に、将来のヘイワード公爵夫人が務まると思っておる。その男爵家の娘にか!」
「も……っ、申し訳ございません……っ! 誠心誠意謝罪をし、ティファナの許しを得、か、かか必ず、ヘイワード公爵家に戻ってもら……」
「貴様のようなクズの言葉など信用なるか!! この私の不在の間にコソコソと動き回り、ろくでもないことをしでかしおって……。役立たずめが!」
父はそう怒鳴ると、乱暴な仕草で椅子から立ち上がった。その物音でまた私の体が跳ねる。
父は怯える私の横を通り過ぎると、部屋から出て行ってしまった。そしてしばらくすると、屋敷の外で馬車が動き出す音がした。
私がフラフラと父の部屋を出ると、母がこちらに向かって駆け寄ってくるところだった。
「ラ、ラウル……! 聞いたわ。一体どういうことなの? ティファナさんがここを出て行ったって……。嘘でしょう? 何かの行き違いよね? ……ね?」
縋りつくように私の腕を掴み揺さぶってくる母に、返事をする気力は湧かなかった。
その日の深夜。
ウトウトしていた私は、馬車の音でハッと目を覚ました。慌てて階下に降り、戻った父を出迎える。
この時間まで帰らなかったということは、おそらくオールディス侯爵邸に行っていたのだろう。侯爵と話をしてくれたのだろうか。父が直接話したのなら、先方の許しを得ることができたのではないか……?
「っ! ち、父上……!」
玄関の扉が開き、父の姿が見えた。生気をなくしまるで亡霊のような顔をした父は、私に目もくれない。
「……お……お手数をおかけしました……。いかがでしたか……?まだ、あちらの怒りは……」
「…………」
無言で歩き出す父におそるおそる声をかけると、父はピタリと立ち止まり、ゆっくりとこちらに顔を向けた。思わずたじろぐほどの、光のない瞳。父は地獄の底から呻くような声で言った。
「……貴様は勘当だ。このヘイワード公爵家から追放する。お前はもう我が息子ではない。だが、その手続きが間に合わん。周囲の目もある。明日の祝賀パーティーまでは同席しろ。それが貴族としての、貴様の最後の仕事だ。ヘイワード公爵はベネディクトが継ぐ」
「…………そ…………、」
そんな…………。
目の前が真っ暗になった。手足からすうっと体温が引いていく。
気付けば私はただ一人、玄関ホールに崩れ落ちていた。




