青春の味
その日の夕食の後、徐に善ちゃん先生が前に立った。
実は善ちゃん先生はあまり前に出ない。今回の合宿では、最初の山道ランニングの時くらいだ。それ以外は鬼灯先生や、B組の担任の先生が全体指示の役割を担っている。
若い人を前に立たせ、自分は裏方に回る考えなのだろう。
そういう理由もあって、善ちゃん先生が前に立つと、みんな自然と背筋が伸びる。
普段から穏やかな気性で、善ちゃん先生と呼ばれても怒りもしない。そんな人だからこそ、纏う空気が変わった瞬間が、分かる。
「しばらく皆さんの訓練を見させていただきました。よく頑張っていると思います。きっと、武機の戦いをずっと想像し、訓練を続けてきたのでしょう。その思いが、よく伝わってきます。しかし、所詮訓練は訓練。本当の経験は、型をなぞるだけでは得られません」
たしかな重さをもった言葉が、悠揚に語られる。
「我が校には、生徒同士が持てる技と力を競う、伝統の戦闘訓練があります。名を、『桜花序列戦』」
その言葉が聞こえた瞬間、ピシリと空気の張り詰める音がした。
まだ箸を動かしていた者がその手を止め、誰かの吐息すら聞こえる静けさ。
『桜花序列戦』。通称、桜花戦。
話には聞いていた。怪物との実戦に向けて、生徒同士が序列を懸けてぶつかるランクマッチ。誰が強く、誰が弱いかが白日に晒される戦いだ。
「本来は一年生の三学期から始まる桜花戦ですが、今回は選抜されたメンバーに限り、二学期から参加できるようにすることを決定しました」
あちらこちらから、驚きの声が上がった。
まだ桜花戦は先の話と思っていたところに、飛び込んできた吉報だ。この学校にいるのは、高い倍率を潜り抜けて入学した駿才たち。桜花戦を待ちわびていた者が多かったんだろう。
かくいう俺も、胸が高鳴っている。怪物たちと相対した時は違う、血がたぎるような、沸き立つ感情だ。
桜花戦のことは親父から聞いたことがあった。級友たちとの手に汗握る戦いの数々。しのぎを削り、競り勝った瞬間の熱狂。そういう話を寝物語に聞く度に、興奮して寝付けなかったものだ。
まさかこんなに早くその機会が回ってくるとは思わなかった。
みなのどよめきが落ち着くのを見計らって、善ちゃん先生は言葉を続けた。
「選抜メンバーは前回の適性試験の結果、そしてこの合宿の最終日に行う生徒同士の模擬戦、桜花前哨戦で決定します」
桜花前哨戦‥‥?
「俺たちが戦うのか?」
「え、全員参加?」
「トーナメント形式かな」
今度のざわめきは、先ほどよりも明らかに大きかった。
「全員参加は嫌だ、全員参加は嫌だ、全員参加は嫌だ‥‥」
隣で固まっていた村正が手を合わせてぶつぶつと唱えている。戦闘用の魔法がほとんど使えない村正からすれば、桜花戦なんて絶対に参加したくないはずだ。
「今回は模擬戦ですから、全員参加で、一戦のみとなります。後程対戦表を掲示しますので、確認をしておいてください」
「嘘だーー‼」
現実は残酷である。
全員参加という言葉に村正がその場で崩れ落ちた。哀れ‥‥、成仏しろ。
チーム戦ならともかく、タイマンのバトルでは村正はキツイ。
それにしても、一対一の前哨戦。桜花序列戦では、序列の高い者ほど様々な優遇措置が受けられると聞く。閲覧可能資料も増えるだろう。
この一戦は、大事だ。
同時に、俺の今の力を試すいい機会にもなる。
夕食を食べた俺たちは、早足に対戦表を確認しに行った。
善ちゃん先生の言葉通り、一人一人対戦相手が割り当てられている。
当然、王人や紡、村正の名前もあった。
王人たちはその実力からか、後ろの方に名前が載っている。そして俺の名も、比較的後ろに記されていた。
『真堂護 対 百塚一誠』
「‥‥」
視線を感じて横を見ると、人込みの向こうで、あの鋭い瞳が俺を見つめていた。
百塚はそのまま何も言うことなく、人の影に消えていった。
◇ ◇ ◇
前哨戦にぶーたれる村正を置いて裏庭に出ると、今日は鬼灯先生がいた。漆黒の髪を夜風になびかせ、暗がりの中に立つ先生の姿は、そのまま闇夜に溶けていってしまいそうだ。
鬼灯先生が俺に気付き、何かを投げてくる。
キャッチすると、それはコーヒーだった。
「眠気覚ましです」
「俺、ブラック飲んだことないんですけど」
「おこちゃまですね」
そう言って鬼灯先生は俺と同じブラックコーヒーを開けて、口をつけた。
「苦いじゃないですか」
かといって、せっかくもらったものに手を付けないのもばつが悪い。覚悟を決めて一口飲むと、爽やかな苦みと一緒に、金属の匂いが鼻についた。
やっぱにっが‥‥。
思わず顔をしかめると、鬼灯先生が俺を見て笑っていた。
「人生のいろいろな苦みを経験すると、このくらいが口当たりよく感じるんですよ」
「そもそも、そんな経験ばかりしたくないですけど」
これが美味しく感じるような人生経験なんて、ろくなものじゃないだろう。これを好んで飲んでいるのは、鬼灯先生のような人権感覚と一緒に味覚がぶっ壊れた人か、背伸びをしている人くらいなものだ。
ただコーヒーそのものはよく冷えていて、風呂に入って火照った身体には心地よかった。
舌に乗せると苦いので、喉に流し込んで飲み切る。
これが噂の喉で飲むってやつか。ビールも苦いというし、実はコーヒーもこの飲み方が正解なのかもしれない。
すでに飲み切っていた鬼灯先生が、軽く缶を揺らしながらほほ笑んだ。
「缶コーヒーはあまり好きではないですが、久しぶりに飲むと悪くないものですね」
「そうなんですか?」
淹れたコーヒーと缶コーヒーの違いなんて分からない。俺に分かるのはせいぜいペプシかコカかの違いくらいだ。
「そうですね。しいて言えば」
カシュッ、と小気味よい音を立てて、鬼灯先生が缶を潰した。
縦に。
「青春の味がします」
「‥‥なるほど?」
少なくとも、指でスチール缶を縦に圧縮する人間が、青春について語ってはいけないと思う。
それよりも、本当はコーヒーを飲んでいる時間なんてないんだ。まだ炎剣を使いこなすどころか、作り出すことすら出来ていない。皆は武機の訓練で着実に力を付けている。
百塚も同様だろう。
俺だけが、この数日何も成長していない。
どうしようもない焦燥感が胸を焦がし、言葉に熱がこもる。
「何か用ですか? 特にないのなら、訓練を始めたいんですけど」
「弟子の分際で、生意気な口をききますね」
「‥‥」
「焦ったところで、一足跳びに結果が出る程、簡単なものではありませんよ。それとも、あなたは自分が天才だとでも思っているんですか?」
見透かしたような言葉に、苛立ちが募った。
「天才なら、もう結果が出ているんですか?」
「出ているでしょうね」
鬼灯先生は端的に答えた。当然の事実を口にするように、何の躊躇もない。
それが余計にささくれだった心をかきむしる。
「天才は己を知っています。どうすれば強くなれるのか、目的を達することができるのか、最短距離で答えに辿り着く。あるいは最初から、それを知っている」
「‥‥」
「しかしそれがいいことばかりとは限りません。悩んで、迷って、その過程で何かが見つかるかもしれない。最短距離で辿り着いた者には見つからないものが、あるかもしれない」
「‥‥見つかるものなんて、つまらない石ころばかりでしょう」
鬼灯先生の言う通り、凡人が失敗して、挫折して、そうでなければ得られない経験もあるかもしれない。
しかしそれに価値があるかは、まったく別の話だ。
鬼灯先生は言葉の代わりに小さく息を吐き、何かを放ってよこした。受け取ったそれは、古びたスマホだ。
随分と古い機種だ。飾り気のない黒のスマホで、細かい傷が至る所に入っている。それでも大切に扱われてきたのだろう。画面はキレイなままだった。
「‥‥これは?」
「適性試験の時の、百塚くんの戦闘データです。向こうはあなたを見ているでしょうし、これでフェアというわけです」
「‥‥ありがとうございます」
鬼灯先生は、俺の手からコーヒーの空き缶を取ると、横を通りながら呟いた。
「つまらないかどうかを決めるのは、あなた次第ですよ」
それは鬼灯先生らしからぬ、抽象的な物言いだった。
触れ合った指先は、アイスコーヒーを握っていたせいか、ひんやりと冷たい。
頭を冷やしなさいと、言われている気がした。




