壊される日常
◇ ◇ ◇
家に帰ると、母さんが夕飯の調理をしている時だった。
「あらお帰り。もうできるから、お姉ちゃんたち呼んできて」
「ただいま。分かった」
俺は手洗いをすませて荷物を自室に置くと、姉たちに声を掛けた。そういえば、今日はまだ線香あげてなかったな。
リビングの隣の部屋には父の仏壇が置いてある。
親父は俺が六年生の時に、怪物との戦いで亡くなった。守衛魔法師だったのだ。
今思い返してみても、魔法馬鹿としか言えない父親だった。口を開けば魔法か仕事の話。長男の俺が生まれたのが相当嬉しかったのか、父親との関わりといえば、守衛魔法師になるための戦闘訓練だった。
魔法の習得は中学校入学後という年齢制限があるため、もっぱら肉体での戦闘訓練。やっている本人は心底楽しそうだったけど、こっちは死ぬかと思った。児童虐待だろ、あれ。
ま、おかげで今日は助かったけど。鍛錬が日課になったせいで、意外と身体が動いたのもいい誤算だった。
『魔法は人を救う力だ。お前もいずれ守衛魔法師になって皆を守るんだぞ』
それが親父の口癖だった。酒に酔うといつもそうやって絡んでくる。こすりつけてくる髭面が心底うっとうしかった。
結局、家族の誰も救われることなく、親父は死んだ。
「‥‥」
線香をあげてリビングに戻ると、ちょうど夕飯もできあがった。
テレビはバラエティー番組になったようで、明るい声が聞こえてくる。どうやら若者に人気な魔法の特集をしているらしい。
俺は無言でリモコンを手に取り、チャンネルを変えた。
親父が死んでからの我が家の暗黙のルール。魔法に関わるものを、母さんの見える場所に置かない。
誰が決めたわけでも、言い出したわけでもない。落ち込む母さんに自然と皆が気遣い、生まれた無言の制約だ。
親父は魔法が使えたから守衛魔法師になり、守衛魔法師になったから死んだ。大切な人間を残したまま。
『世界改革』が起きて四十年。まだ四十年だ。
魔法がなくても生きていく術はいくらでも残っている。
家族とホムラがいれば、俺はそれでいい。
夢を見るなと、現実は牙を剥く。安寧と停滞を時は許してくれない。
つまるところ、人生とはそういうものだ。
それは夏期補習の最後の日だった。
あれから茶髪たちは絡んでくることもなく、平穏な日々が続いていた。
よかった、これ以上大事になって、喧嘩したことが母さんにバレたら、殺されているところだ。
母さんを悲しませれば、姉と妹からの折檻も免れない。ただでさえ男一人で立場が低いのに、これ以上低くなったら人間でなくなってしまう。
うちの学校はさほど進学校というわけでもない。あとは塾や自習スペースを利用してくれというわけだ。
母さんは塾に行ってもいと言ったけど、俺は断った。今の時代、学ぼうと思えば動画サイトでいくらでも学べるし、こんなところでお金を使うのはもったいない。
だから、普段なら補習が終わったら自習スペースで勉強をしている。ホムラに会いに行くのは休日か、自習スペースが空いていない日だ。
今日も今日とてそんな日だった。
満席の自習スペースは、空く気配がない。
図書館で勉強でもするか。
わりと図書館での勉強も嫌いじゃない。ちゃんとブースに分かれた自習スペースがあるし、小休止で本も読める。
そういえば、今週はホムラの顔を見てないな。あいつって俺が来ない間何してるんだろうな。そんなことがふと頭を過った時、めくる歴史の参考書が、現代史に入った。
世界改革と、妖精、そして怪物についての基礎知識が書かれている。
怪物か。
現代では、妖精に会ったことがある人間がほとんどだろう。だが怪物に直接会ったことがある人間は少ないはずだ。
何故なら彼らは現実世界に出現する時、『干渉波』と呼ばれる特殊な波長を放つ。国はそれを常に監視し、『干渉波』が観測された時点で人々を避難させ、守衛魔法師を派遣するのだ。
俺も怪物と会ったことはない。親父に動画で見せられたことは何度もあるけど。できれば一生会いたくない。
ちなみに怪物と一口に言っても、その存在はランクによって分けられる。
ランク1から始まり、最も高いものがランク5。
上にいけばいくほど脅威度は上がり、ランク5となればその被害は災害クラスになる。
幸いなことに日本で確認された事例はないが、ランク5が出現したアメリカ合衆国では、一つの州が壊滅するまでになった。
怪物はこの世の理から外れた存在。同じ超常現象、魔法以外では倒せない。
こんな奴らと戦っているのが守衛魔法師だ。
家での親父と、知識にある守衛魔法師の姿が重ならない。結局俺は、あの人が戦っている姿を見たことはないのだ。
そんなことを思っても、何もかも遅いのは俺自身がよく分かっている。
ただ知識を得るために、俺は感情を殺して参考書の内容をノートにまとめた。
図書館を出た時、もう陽が傾いていた。
こんな時間だし、今日はホムラに会いに行くのはやめとくか。行ってもやることないしな。
そんな思いも確かにあったが、なんとなしに足が神社に向けて歩き始めたのは、偶然だったのか。それとも虫の知らせというやつが本当にあったのか。
斜陽の中を歩いている時は、違和感なんて何も感じなかった。
明確に何かが違うと判断したのは、階段を上がっている時だった。
理由があったわけじゃない。周りの景色も、風の音も、普段となんら変わらない。
なのに異様な焦りが俺を突き動かした。
汗が目に入るのも無視して、階段を駆け上がる。
杞憂だ。くだらない思い過ごし。
鳥居の向こう側ではホムラがいつもみたいに馬鹿みたいなことをして過ごしている。
そのはずだ。
「あ? 何だてめえ」
その光景と言葉を、俺はすぐに理解できなかった。
境内には見慣れない男が一人立っていた。くたびれたシャツの下から覗く焼けた肌と、燻んだ金髪。耳には幾つもピアスがぶら下がり、細い目が俺を睨みつけてくる。
それだけなら異様ではあっても、ここまでの驚きはなかった。
「ま、護‥‥」
男の片足は、見慣れた緋の髪を踏みつけていた。
横たわるほむらの頭を、まるでサッカーボールを押さえるように、男は踏んでいたのだ。顔もワンピースも砂埃で汚れ、血溜まりのように髪が地面に広がっている。
驚愕は一瞬にして怒りに変わった。