魔法が当たり前の世界
窓から差し込む夏の太陽が強すぎて、教室内はエアコンの力もむなしく蒸し暑かった。
「ぶわーあっちい」
「こんな日に補習とかマジでやめてほしいよなー」
「別に高校ぐらい、どこだって行くところあるのにね」
「俺は行きたいところあるから、勉強必要なんだよ」
教室の端っこで、大きな声が響いた。
そこでは制服を着崩した男女が数人、文句を言いながら下敷きパタパタさせていた。
うちのクラスでは良くも悪くも目立つ連中だ。
彼らの声はうるさいくいらいに大きい。その気がなくても、会話の内容は全て入ってくる。
休み時間なんだから休め。補習の時より確実に体力使ってるぞ。
俺は気持ちを切り替えて英単語帳をめくった。
集中集中。
「あ、そういえばさ。折角だからこんな魔法覚えてみたんだよね」
突然聞こえたその言葉に、耳が反応した。
顔はそのまま、視線を横に向けると、金髪の女子がもう一人の女子の首に指を当てているところだった。
「くらえ!」
「ひゃっ、冷た!」
「なんだっけそれ、『フリーズブレス』だっけ?」
「そうそう、こないだ妖精さんに入れ替えてもらったんだよね」
彼女はそう言って笑うと、再び魔法を発動した。指先で光が明滅し、氷の粒子が指から舞った。
あの風を首筋に受けたら、さぞかし冷たくて気持ちがいいことだろう。
それを見ていた茶髪の男が呆れたように言った。
「また魔法変えたのか。節操ないぞ」
「いいじゃん、頼めば簡単に変えてくれるんだから。魔法なんて生活を豊かにしてくれればそれでいいの。ネイルと一緒」
「一緒にするなって。魔法は商売道具だ、しっかり鍛えてるんだから」
「出た出た、暑苦しい魔法馬鹿」
彼らはたった一つの魔法から、よくまあそこまで盛り上がれるものだと思うくらい笑い合う。
何が魔法だ。勉強しろよ勉強。
「まあなんにせよ便利なことに変わりはないよな。‥‥本当、魔法使えないなんてもったいない」
それが誰のことを指して言っているのかはすぐに分かった。
それでも無視して英単語帳を見ていたら、頭にこつんと何かが当たった。
床に落ちたのは、小さな紙飛行機。
「よっしゃ、当たり。やっぱ魔法のコントロール磨かないと」
どうやら茶髪が、風の魔法を使って紙飛行機を俺に当てたらしい。
――何しやがる。
俺は思わず立ち上がって向こうを睨んだ。
「お、何? なんか用か、『不適合者』」
茶髪がおどけて言う言葉に、周囲の連中が「やめなよ」と言いながら笑った。
今更そんなあだ名、何年呼ばれていると思ってるんだ。
俺は無言で落ちた紙飛行機を取り上げると、握り潰してから男に向かってぶん投げた。
「うお!」
茶髪はそれを大げさに避ける。
重い物でもあるまいし、それぐらい受け止めろ。
「何、ふざけてんの?」
「俺は飛んできたものを返しただけだ」
「‥‥」
茶髪は無言で席を立った。
なんだ、やるのか? 受験勉強のストレスを乗せた俺の拳は重いぞ。
一触即発の空気は、無遠慮なチャイムの音にかき消された。
「おーい、始めるぞ。‥‥どうしたんだ、お前ら」
「何でもないです」
「別に」
流石に教員の前で大立ち回りをするほど、お互い理性がなくなっていなかった。
そこから始まる子守歌のような社会の補習。
なんとか寝ないようにノートを取っていたら、机の上に小さな紙飛行機が飛んできた。
誰が投げてきたのかなんて、考える必要もない。
ご丁寧に、紙飛行機の翼には言葉が書かれていた。
『調子に乗るな不適合者』
お前、それ以外に悪口知らないのか。
俺はそれをクシャリと握りつぶした。
何が魔法だ。何が時代遅れだ。
魔法なんて使えなくたって人間は生きていける。
◇ ◇ ◇
補習が終わってから、俺はさっさと教室を出た。
また茶髪たちに絡まれても面倒だ。冷静になって考えたら、教室で喧嘩なんてしたら停学で済むかも怪しい。
うだるような熱気の中を歩く。こんなことならもう少し自習室で勉強してから出ればよかった。
この暑さだと、あいつも死んでそうだな。
俺はコンビニに立ち寄り、アイスを買って出た。この暑さだ、早く行かないと溶けてしまう。
横道に入り、林に囲まれた階段を上っていく。木陰のおかげで、少しだけ暑さがマシだ。
そしてたどり着いたのは、小さな社だった。もう管理する人も参拝する人もほとんどいない。
そもそも何を祀っている場所なのかさえ、俺は知らなかった。
ではなぜこんなところに来たのか。
答えは縁台に腰かけていた。
「あーつーいー」
誰に聞かせるでもなく声をあげ、溶けている少女が一人。
人間ではあり得ない、緋と橙の入り混じった髪は大きく波打ち、まるで炎が燃え盛っているかのようだ。
夏に見ると、余計に暑苦しく感じるな。
「ホムラ、来たぞ」
声をかけると、少女はこちらを向いた。金色の目が夏の太陽よりも眩しかった。
「護、また来たのですか」
「暇してるだろうと思ってな」
いつ聞いても腹立たしいほど心地よい声だ。
当然だが、俺の名前は不適合者などというセンスのないものではない。真堂家の長男、真堂護だ。
父親はいない、姉と妹が一人ずつの四人家族。
そして炎の化身のような彼女は、ホムラ。わけあってこの神社を根城だか寝城だかにしている美しき不法占拠者。
ホムラはワンピースの肩紐を引き上げながら、居住まいを正した。
「全く、友達がいない男は寂しいですね。私のところ以外に行く場所はないのですか?」
「ほっとけ」
「こう言ってはなんですが、きちんと同世代の友達を作った方が良いですよ。コミュニケーション力のない人間はどんな社会でも」
「そういえばアイス買ってきたんだが、食べるか?」
「アイス⁉︎」
どこかで聞き齧ったらしい知識を披露していたホムラは、アイスという単語に目を輝かせた。尻尾でもあれば、きっとビタンビタン振り回されていたに違いない。
いや、どうなんだろう。
「なあホムラ」
「なんですか?」
ふんすふんすとビニール袋からアイスを取り出している彼女に聞いてみる。
「尻尾とか耳とか生やせないのか? そのワンピースだって、自分で作ったんだろう?」
「‥‥」
思ったことを聞いてみると、ホムラはすごい目で俺を見てきた。
「人の趣味にとやかく言うつもりはありませんが、どうかと思いますよ。どうかと思います」
「二回も言うなよ、ちょっと気になっただけだろ」
「何が尻尾ですか、私の外見はこれで完成しているのです。ここに何かを足そうなどと、無粋以外のなにものでもないと、なぜ気づかないのですか」
ほっぺを膨らませていたホムラは、バリバリ君を取り出すと食べ始めた。
第三者が聞けば、なんて自信満々な女なのだろうと思うだろうが、彼女を見ればそんな思いも消えてなくなる。
何せこの世の人間が逆立ちしたって絶対に敵わない、ホムラは自然に完成された美という矛盾した顔立ちをしているのだから。
どれだけ宝石が美しく着飾っても、満点の星空には敵わない。街を照らす灯りも、揺れる火には届かない。
何せホムラは人間ではないのだから。
あらゆる生物とは一線を画す異次元種、『妖精』。それが彼女だ。
「つべた!」
くぅううとアイスに肩を振るわせているホムラを見ていると、ちょっと疑問に思うけど。
こいつ、本当に妖精なのか?
「失礼なことを考えていますね?」
ホムラはぐりぐりと俺の頬を指で押し込んでくる。
妙に鋭い。
この世界に『妖精』が現れたのは二〇一二年。今からちょうど四十年前になる。
その時俺はまだ生まれていなかったが、教科書にだって載っている有名な出来事があった。
『世界改革』と呼ばれる超常現象だ。
その時を境に、世界には『妖精』と『怪物』、二種の異次元種が生まれた。
まさしく前時代の世界が終わり、新たな時代が始まった。
そこから世界は、それら異次元種を中心に回ってきた。
『魔法』もその一つだ。
魔法は妖精と取引することで手に入る異能力である。
クラスの連中が嬉々として使っていたやつだ。魔法か超能力とでも思っておけば大体間違いではない。
ホムラは俺の顔をまじまじと見ると、悪戯をする子どものような笑みを浮かべた。
「その顔を見るに、また魔法を見せびらかされましたか?」
「‥‥なんの話だよ」
「護がそういう顔をしているときは、大体いつもそうでしょう」
「どういう顔だ。いつも通りだから」
付き合いが長いのも考えものだ。俺はこれ以上余計なことを聞かれないように、バリバリ君を口に突っ込んだ。若干溶けているな、ちくしょう。
ホムラはふふんと、大してない胸を張った。完璧な造形を自負するのであれば、胸はどうにかならなかったんだろうか。
「いつも言っていますが、魔法が使いたいのであれば私に言えばよいのです。この心優しきホムラ姉さんがとっておきの魔法を与えてあげると言っているでしょう」
「いつも言ってるけど、俺に魔法は必要ない」
「強情ですね」
「別に魔法なんかなくたって生活できるからな。昔の人は皆そうやって生きてきたんだ」
「その理屈でいくと、理想は石器時代か何かですか?」
「なんで妖精のくせにそんな人間の歴史に詳しいんだよ」
むしろ異次元種だからだろうか。ホムラはどこで仕入れてきたのか現代のサブカルチャーにも詳しかったりする。異次元種を人間が推し量ろうという方が無理な話だ。
俺はバリバリ君の最後の一口を食べた。アイスを食べているというのに、暑さはどうにも引いてくれない。
今じゃ魔法を使わない人間の方が珍しいだろう。生活に必要とか、仕事で使うとか、そういう話ではなく、生活の一部なのだ。あって当たり前。スマホと一緒だ。
故に不適合者。世界の変化についていけなかった人間を揶揄する言葉が生まれた。
ホムラは脚をブラブラさせながら言った。
「お父様のことがまだ気になっているのですか?」
「‥‥」
多分、俺の顔はしかめっ面になっていただろう。
「別に」
「まだまだ子供ですね」
その言葉に何を返しても墓穴を掘りそうで、俺は黙った。彼女とこの問答をするのも久しぶりな気がした。
ホムラは縁側からよっこらせと立ち上がった。
「まあいいでしょう。どうするかは結局護次第ですし」
「‥‥ああ」
「さて、折角のよい天気です。何かしましょうか。鬼ごっこにしますか? かくれんぼ?」
「どっちも二人でやるには辛いな」
そもそも絵面がひたすらにきつい。小学生じゃないんだから。
しかしホムラはやる気満々。俺はスポーツドリンクも買っておけばよかったと後悔しながら立ち上がった。
これは魔法が使えない俺と、自堕落な妖精の話だ。