夏の春にゆらめく
◇ ◇ ◇
蝉の鳴き声がする。うだるような夏の中で、見ているだけで余計に熱くなる緋と橙の髪が揺れていた。
石畳の上で死んだ蝉のような動きをしながら、ちらちらとこちらに送ってくる視線を何度か無視していたのだが、そろそろ我慢の限界だ。
仕方なくホムラに声を掛ける。
「‥‥何してんの?」
「見て分かりませんか。太極拳です」
「いや、分かんねーよ」
その珍妙な動きが太極拳ってことも分からんし、何故このかんかんピッピカピーな太陽の下で太極拳をしているのかも分からん。
暑さで頭がやられたのか。
「毎朝、ここの近くでご老人方がやっているんですよ」
「ああ、そうみたいだな」
神社の近くには小さな公園があり、そこでは暇を持て余したおじいおばあたちが毎朝集まって太極拳を行っているらしい。
しかしあれは時間と生活にゆとりのある方々が健康のために行うものであり、完全無欠異次元種であるニート妖精がやるものではない。
ホムラは大仰な仕草で空を仰いだ。
「私は毎朝毎朝やかましい蝉の声と、この暑さで目が覚めるんです」
「そうか」
まあそうだろうなとしか思えん。妖精の生活実態なんぞ知らんが、この管理が怪しい神社を不法占拠している時点で、まともな生活環境でないことだけはたしかだ。
「いっそこの林ごと燃やしてやろうかと思ったことが数えきれないほどありましたが、そこはぐっとこらえたわけです」
「恐ろしく自分勝手な理由で放火しようとするな」
けっと悪態を吐くホムラは、社会が悪いと駄々をこねる大きい子供そのものだ。
「そこで毎朝元気に動くご老人方に声を掛けてみたのです」
「びっくりされただろうな」
やめなさい、おじいおばあの寿命を朗らかに縮めるんじゃないぞ。
一目で人間ではないと分かる二・八次元の存在が気軽に声を掛けてきたら、下手したら心臓止まるだろ。
「そうしたら、この太極拳を行うことで自律神経がうんたらかんたらで、暑さをものともしない身体が手に入ると教えてもらったのです」
「教えてもらっちゃったかー」
「そこでこうして実践しているわけです。なんだか不思議な力が湧いてくる気がしますね」
俺の目には得意気な顔に滴る汗しか見えないが。妖精ってそんな外気温に左右される存在なのだろうか。
本人の気持ち次第くらいの適当なルールな気がする。
仕方ない、真実を教えてやろう。
「ホムラ」
「なんですか?」
「太極拳で暑さはどうにもならないぞ」
「――は?」
「大体、朝早くやっているのは気温が低いからだ。こんな真昼間にやっている人なんていないだろ」
「‥‥」
「そもそもご老人方が暑さを感じにくいのは、シンプルに身体機能が落ちてきている、まあ老化が原因だ」
「ろう――⁉」
「別に太極拳が駄目とは言わんが、やるならせめて朝に――」
言葉は最後まで続かなかった。
顔を真っ赤にしたホムラが飛びかかってきたからだ。
「おい、やめろ暑苦しい!」
「暑いのは当然でしょうさっきまで太極拳してましたからね!」
「八つ当たりはやめろ! マジで暑い、というか熱い! カイロかお前は!」
「ふふふ、これぞ太極拳による発熱効果。気温と同じ体温まで上がれば暑さを感じることもなくなるでしょう!」
「それ風邪と同じ理屈だから、人間的にはやばいんだよ! は・な・れ・ろ!」
ホムラの頭を掴んで引っぺがそうとするが、掴んだ頭はフライパンのような熱さだった。
しかもこいつの髪はやけにキラキラしているせいで、眩しい。目玉焼きができてしまう。
「離れませんよ!」
「ッ――」
すぐ近くにホムラの顔があった。
薄着の奥にたしかに感じる柔らかな感触と、暑苦しい温もり。
ああ、こんな日々があったんだと、改めて思い出した。
懐かしいな。
蝉の声が聞こえる。ホムラの声がどんどん遠くなっていく。
きっとこれが、夢の終わりなんだと気付いた。
◇ ◇ ◇
「養護教諭としては、複雑な気分になるわね」
「‥‥はあ、すみません」
「治っていて素晴らしいんだけど、なんで治っているのかさっぱり分からないんだもの。どういう身体しているのかしら」
憂うため息交じりの言葉は、やけに色っぽかった。養護教諭として合宿に着いてきてくれている雪柳若葉先生は、俺から聞き取った調書を読み返して、難しい顔をした。
「俺にも詳しいことは分からないですけど‥‥」
俺はベッドから上体だけを起こした状態で、左手を握ろうとする。
もうそこに電電蟲はいない。しかし腕には微かな痺れが残り、握ろうとするだけでも抵抗を感じる。
『火焔』で傷そのものは完治している。おそらく神経に刻まれた痛みの記憶が、消えていないらしい。最後の最後まで迷惑な奴である。
鬼灯先生に連れられて合宿所に戻ってきた俺は、そのまま医務室へと放り込まれた。
そこからは記憶がない。
蝉の泣き声に起こされた時にはもう昼を回っていて、雪柳先生から事情を聞かれていたというわけだ。
自分の身体を何度目になるか、軽く撫でてみる。至る所に傷跡の感触が残ってはいるが、それらはほとんど塞がっているようだった。
またホムラに救われたな。
「あの‥‥百塚は?」
「別の部屋で治療中よ。あなたよりも傷が酷かったから、優先的に治療させてもらったわ。ごめんなさいね」
「いえ、ありがとうございます」
良かった、とりあえずは生きているようだ。あいつも相当傷だらけだったからなあ。平静を装っていたけど、鬼灯先生も結構焦っていたと思う。
今回二人とも生き残れたのは、単純に運が良かっただけだ。
教授。あいつが最初から俺を殺すつもりであそこに呼んでいたとしたら、結果は変わっていただろう。
「今日は一日安静にしていなさい。東京に戻ったらまたしばらくは忙しくなると思うわよ」
「分かりました」
それは正直ありがたい。魔力が枯渇していて、身体がだるい。左半身の違和感もすさまじいし、今日一日は何も考えず休んでいたい気分だ。
そこであることに思い至った。
「そういえば、桜花前哨戦はどうなったんですか?」
「前哨戦は中止になったわ。残りは東京に戻ってからやるそうよ」
「今日やっているわけじゃないんですね」
そう聞くと、雪柳先生は苦虫を噛み潰した顔で目を逸らした。
え、何?
これ以上何かあるのか。もうキャパオーバーだからこれ以上は頭爆発しちゃうぞ。
「ど、どうしたんですか?」
「その、ちょっと言い辛いんだけど。今日は元々完全オフの日なのよね」
「オフ‥‥?」
「だから生徒たちは皆お休み。あなたたちの件も結界内のセーフティが暴走したことによる事故ってことになっているから、皆普通に過ごしているわ」
「そうなんですか」
別に大事にしたいわけじゃないから、それは全然いい。というかむしろ願ったり叶ったりだ。
ただでさえ目立ってんのに、これ以上事件を起こしたなんてなったら本格的に居場所がなくなる。
別に言い辛そうにする内容じゃないと思うけど。
雪柳先生は頬をかきながら、努めて明るく言った。
「だからね、その――皆海に遊びに行ったわ」
「え? 海ですか?」
ここ山の中だよな。そんなものあったのか? いまいちここがどこか把握してないから、地図がパッと頭に思い浮かばない。
「実は山を下ったところにあるのよねー、学校が保有しているプライベートビーチが。訓練に使うこともあるんだけど、今回は息抜きってことで開放してるの。水着とか浮き輪とかも全部貸し出しで」
「へ、へ~。すごいですね」
海。
海かぁ。
『行きましょうか、海』
そういえば鬼灯先生もそんなこと言ってたな。本当にあったんだな。
別に羨ましくはないけれど。羨ましくなんかないけれども。
男女一緒に同級生たちと夏の海。それってなんだか、青春だなあ。夏なのになあ。
「‥‥」
窓を眺めれば、そこに広がるのは虫の潜む青々とした森だけだ。
同じ青でも随分違う。
「その、ごめんなさいね」
「いえ、先生が謝ることじゃないですから」
皆行ってるってことは、村正は当然行ってるな。ついでにナンパをして失敗するまでがセットだ。
紡や星宮、音無さんなんかも行っているかもしれない。
皆も水着を着ているんだろうな。海なんだし当たり前か。
もやもやっとその様子が頭の中に浮かんで、それをミニホムラが蹴散らしていった。まあ、どっちにしろ同級生の水着姿なんて想像できないんだが。
「それじゃ、私も報告があるから出るわね。何かあったらそのコールボタン押してくれたらすぐに来るから。あと、無理に動かないようにね」
「分かりました」
雪柳先生の背中を見送ると、俺はベッドに倒れ込んだ。
はぁ、まあしょうがないわな。命があっただけ運が良かった。これ以上海だの水着だのは、求め過ぎってものだ。
「‥‥」
部屋は快適なのに、窓の外を見るだけであの時の神社の暑さを思い出す。
それが妙に心地よくて、窓ばかり眺めていた。
だからはじめは気付かなった。なにやら後ろが騒がしいなあ程度に思っていたのだが、その声が大きくなるにつれ、それらが俺の部屋を目指しているらしいことに気付いた。
そして声は部屋の前に着た途端に静かになると、ノックの音が響いた。
‥‥誰だ? クラスメイトたちは皆海に云っているし、鬼灯先生はノックなんてしない。
「どうぞ」
ためらいながら返事をすると、扉が開いた。
「護、大丈夫?」
「失礼します」
「‥‥」
入ってきたのは、三人の個性的な女子たちだった。
ナイフのように鋭い目を不安そうに歪めているのは紡だ。彼女はスタスタと俺の方に近づいてくると、おもむろにペタペタと顔やら手やらいろんなところを触ってくる。
「ちょっ、やめ」
むず痒くて振り払おうとしたら、泣きそうな紡の顔が目に入って、何も言えなくなってしまった。
「‥‥傷跡が、こんなに」
今回は化蜘蛛戦の時とは違う。傷跡が残るということは、実際にそれだけの傷を負ったということだ。
あー、しまったな。隠せるようなものではないけど。
今にも大粒の涙をこぼしそうな紡が昔のつむちゃんと重なって見えて、それでも彼女はもう俺の知っている少女ではなくて。
不用意に頭を撫でることも、手を握ることも、許されないだろう。
つむちゃん呼びも許されてないしなあ。
気の利いた言葉なんて出てこないし、どうしたらいいんだ、これ?
そう思っていたら、右手が何かに引っ張られた。
見ても、そこには何もない。
しかし右手は確かな力で引っ張られ、持ち上げられる。
これって、念動糸か?
細く見えない糸が、優しく力強く手を引いているのだ。誘導される先は、ツヤツヤとしたつむちゃんの頭だ。
あ、それはいいんだ。女の子の考えることはよく分からんな。
本人の許し? が出たようなので、ベッドに顔を埋めるつむちゃんの頭に手を置いた。しっとりとした髪の毛が、サラサラと指の下で揺れる。
「ごめん、心配かけた」
「‥‥」
返答はなく、頭がこくこくとシーツを引っ張った。
落ち着くまではこうしておくか。若干ならず恥ずかしいけども。
紡の方はとりあえずこれで置いておくとして、問題は残りの二人である。
覚悟を決めて顔を上げると、二人はすごい顔で俺たちの様子を見ていた。
気持ちはよく分かる。分かるが分かってくれ。少しでも手を止めると糸が引っ張ってくるんだよ、糸が。
「──その、二人もわざわざ来てくれたのか?」
死ぬほど気まずい中の言葉に答えてくれたのは、固まっていた星宮だった。
「え、ええ。怪我の具合はどんなものかと思って」
「そうか。ありがとう。見ての通り、怪我らしい怪我はないんだが、今日一日は安静にしてろってさ」
雪柳先生の言葉だと、俺たちの消失は事故ってことになっているらしい。変なボロが出ないように気を付けないと。
特に星宮とか、鋭そうだし。
「そ、そそそそう。それは良かったわ。昨日帰ってきたとは聞いていたんだけど、気が気ではなくて。面会謝絶状態だったし、また何か大変なことに巻き込まれてしまったんじゃないかって。私、私──」
「まじか。ごめん、そこまで心配かけたんだな」
実際、星宮とはランク2との戦いに巻き込まれたもんな。
それにしたって、同級生ってだけでここまで心配してくれるなんて、星宮いい人すぎるだろ。育ちの良さというか、性格の良さがあらゆる言動に滲み出ている。
「でもほら、普通に帰ってこれたし、今回はちょっとした事故ってだけで、大丈夫だよ」
少し大袈裟にぐるぐると腕を回してみせる。
‥‥ああ、はいはい。右手が止まってましたね。すみません。
星宮はそんな俺たちを見て、微笑んだ。
どことなく寂しげに見えた気がしたその笑みは、次の言葉と同時に消えてしまった。
「強いのね、あなたは」
「え? いやそんなことはないぞ」
むしろ今回は自分の弱さを改めて突きつけられた。教授も鬼灯先生も、明らかに格が違う。
まあ今はそんなことを言ってもしょうがない。気持ちが下がるだけだ。
最後に入ってきた一人に声を掛ける。
「音無さんもありがとう。前哨戦は中途半端に終わっちゃったけど、武機は最高だったよ」
「い、いえ! とんでもないです! ありがとうございました!」
音無さんはバッとふわふわの頭をてっぺんが見えるまで下げた。
お礼を言っているのはこちらだけれども。なんだかあわあわしているし、いつにも増して挙動不審だな。
まあよくよく考えたら、紡と星宮と同じ部屋にいたら緊張するよな。普通に怖いもん。
とにもかくにも、黒鉄がなければ生き残れなかったのは間違いない。
だから俺は深々と頭差を下げた。
「本当に、ありがとう」
「ととととんでもありません! むしろ使っていただいてありがとうというかごめんあさいというか!」
「少なくとも、ごめんなさいではないかなあ」
彼女がさっきから何を言っているのかいまいち分からないが、会った時からこんな感じだったような気もする。
まあいいか。
のそのそと紡が立ち上がり、星宮と音無さんもベッドに歩いてくる。
海には行けなかったし、これが青春なのかは分からないけれど、いつの間にか、蝉の声は聞こえなくなっていた。




