オレがタスキを繋ぎます-高校生青春奇譚-
[chapter:概要欄必読]
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[chapter: 序、拝啓親愛なるアンドレアへ]
拝啓、親愛なるアンドレア
きみになら今までひみつにしていたこともぜんぶ打ち明けられそうなので、今日から日記をつけることにします。
きみの名前はアンドレアです。
おかあさんが『アンネの日記』にえいきょうされて、「日記をつけると良いことがいっぱい!マインドフルネスにもなるし、その日のれんしゅうメニューも書きこめば足も速くなるよ」と言って、オレの毎日の宿題になりました。
まったく、すぐえいきょうされるんだから。
でもちょうど、だれにも言えないけどだれかに打ち明けたいことがあったので、きみに出会えて良かったです。
アンドレア、きいてください。
今日オレは、記ろく会でとっても気になる子に出会ってしまいました。
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[chapter: 邂逅、憧れのハヤトくんは内気な子でした]
小学校の五年生になってようやく陸上を始めたオレには、他校に目標とすべき憧れの先輩がいた。
鯵刺 逸渡、逢坂鳳凰小の六年生、県内でも一、二を争う実力者だ。
他の一般の小学生に比べれば短距離も速い方だったが、長距離走なんかは特に、圧倒的に、とんでもなく速く、全国大会に出場するらしいと聞いた。
そんな俺たちの初対面は偶然の産物。
市の陸上記録会のとき、会場となった小学校の野外手洗い場にてタオルを落としたことに気付いていないハヤトくんにオレが話しかけたのだ。
「あ!ねえ!タオル忘れてるよ!…ほら。」
オレは拾ったタオルを差し出しながら声をかける。
すると、ハヤトくんは驚いたように振り返り、タオルを見てからオレを見てからまたタオルを見てから……と何度も視線を行き来させた。
その表情はまるで、どう反応していいのか分からないといった様子だったため、不安げなその手をとり、無理矢理タオルを握らせてやる。
「…ありがとう。」
消え入りそうな小さな声で答えるハヤトくん。
何となく、それだけで終わらせたくなくて、オレは会話を続ける。
「あのさ、キミ、逢坂鳳凰小のアジサシ ハヤトくんだよね?すごかったね!さっきの3,000m走!一位おめでとう。」
「…ぅ。っぁ。」
俺の目も見ずにじわじわと赤くなる頬。初めて会ったハヤトくんはどうやら予想に反して内気な性格のようだった。もっと自信満々の活力あふれる快活な人物を想像していたのだが。
「? どうしたの? 体調悪い? 誰か先生呼ぼうか?」
「す、すごく無い。」
「っえ?」
一瞬、何を言われているか分からなかった。一位を取って『すごく無い』?オレなんか、表彰台にも立てなかったっていうのに。
「なんでそんなこと言うの?めちゃくちゃすごいよ!」
「た!…た、タイムが、ぜんぜん、だから。」
「こんなんじゃだめだって、お父さんに、怒られるから。」と付け足し俯くその顔は、せっかく良い記録を取ったっていうのに全然嬉しそうじゃなかった。なんなら『怯えている』に近いだろう。
「も、もう、行かなきゃ。」
「あ!ちょっと!」
オレの手を振り払い颯爽と駆けていく背中に声をかけるが、ハヤトくんは振り返ることはなかった。これがオレたちのファーストコンタクト。
「ハヤトくんの手、冷たかったな。」
お父さんが厳しい人なのだろうか、こんなにすごい賞を取ったのにあんなに自信がないなんて可哀想すぎる。
オレよりも小さな手だった。
守ってあげたい、自然とそう思った。
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あれは夏の大会でのことだった。
この機会を逃すときっとオレはもう二度とあの人に会うことがないだろう、一つ上の学年、中学三年生にとっては最後の大会。
―…オレはあんなにも憧れていた先輩を、嫌いになった。
[chapter: 再会①、憧れの先輩は最低な奴だったので失望しました]
高温多湿、うだるような暑さが続き、夏も真っ盛りの7月。
「逢坂鳳凰中の奴ら、今年もほとんど表彰台搔っ攫っていったよな~。おかげで県大会すらまともに行けたことねえよ。」
オレと共に日差し除けの簡易テントの片付けをしていた三年生が一人ごちる。
全国中学校体育大会、通称『総体』の結果を見て、中学一年生のオレはため息をついた。公立の弱小校であるオレたちの中学からは、個人種目では何とか県大会に出場できた名前もあったが、それでもほとんどの高順位が逢坂鳳凰中学校出身者で埋め尽くされていた。
後片付けをする同じ陸上部の仲間たちも、みんなオレと同じくらい落胆していた。
それもそのはず、私立逢坂鳳凰中学校は陸上の強豪校で、長距離・短距離・ハードル・高跳び…毎年数え切れないほど多くの種目で全国大会に出場する選手を輩出している。
その中でも特に有名なのが、男子3,000メートル走の王者・鯵刺 逸渡だ。彼は中学こそ違うものの、オレたちと同じ人間。
だが、彼はオレたちとは完全に違う世界の住人だった。
ハヤトくん、もとい鯵刺さんは、その平凡な出で立ちに似合わず常に表彰台のてっぺんに君臨していた。だからだろうか、彼はたとえ同じ逢坂鳳凰中の奴ら相手でも一切関心を示さなかった。その態度に周りの人間の中には尊敬すると同時に、憎んでいる奴もいたらしい。
オレたちは彼の背中に追い付くどころか遠くから追いかけることしかできなかった。その距離は一向に縮まる気配がしない。同じ中学生なのに、この圧倒的実力差。その開きがあまりにも大きすぎて、オレは怒りと悔しさを感じることすらできなかった。
ただ、それでもオレは彼に勝ちたかった。せめて彼と同じ土俵で戦いたかった。
と、思っていた。
ところがどっこい、翌年の総体ではパンフレットの出場選手欄の中に『鯵刺 逸渡』の名前を見ることができた者はいなかった。
なぜ? どうして急に? もしかして故障とか?
――『すごく無い。』
ふいにあの時のハヤトくんが頭をよぎる。
すこしでも良い。何かヒントが欲しい。そう思って空き時間に会場を駆けずり回っていると、ようやく目的の人物を発見した。一目見た瞬間に心臓がドキッとする。えんじ色の、逢坂鳳凰中陸上部のかっこよくて強そうなジャージを着た懐かしい姿。
人がはけた手洗い場でボトルを洗い、新しくドリンクを作っているようだった。大会に出れない一年生の補欠がする雑用だ。まして鰺刺さんのような三年生がやる仕事ではない。
話しかけるなんて畏れ多い、緊張する、早鐘を打つ心臓が口から飛び出そうだ、…なのに。最後に手を洗ってその場を立ち去ろうとする後ろ姿に向かって、気付けば声をかけてしまっていた。
「あの!タオル、忘れてますよ!」
洗い場のヘリに置かれていたタオルを引っ掴み、慌てて鯵刺さんに駆け寄る。オレの存在に気付いた彼がゆっくりと振り返り、顔をしかめる。まるで『この惨めな状況を見られたくなかった』とでも言うように。
「…どうも。」
簡潔に返事をして再び立ち去ろうとする鯵刺さんに、どうしても抑えがきかなくて、矢継ぎ早に話しかけてしまった。だってこの総体は鰺刺さんのような三年生にとっては最後の大会、この機会を逃せばオレはきっと一生この人に会うことは無い。
「あの!逢坂鳳凰中の鯵刺 逸渡さん、ですよね?」
「そうだけど。」
「あ、覚えてますか?小学校の市の陸上記録会、二年前も今日みたいに手洗い場で会ったの。」
「知らない。もう行くから。」
容赦なく去ろうとする鯵刺さんの手首を必死に掴む。
「オレ、小五のときからずっと憧れてて、それで、どうやったら鯵刺さんみたいに速くなれるのかなって。すごいカッコよくて。あの、連絡先の交換、あ!練習方法で何か、コツとか、こなしてるメニューとか、アドバイスあったら…」
バン!と背中から音がした。
オレのジャージの襟元を鷲掴んだ鯵刺さんによって、ものすごい力で、勢い良く壁に体を押さえつけられたのだと理解したのは、背中に痛みが走ってからだった。
小学生だったときはハヤトくんの方が背が高かったのに、今じゃ鯵刺さんの目線の方がオレより低い。そのおかげで下方からものすごい剣幕で睨みつけて来る視線に、恐ろしすぎて思わず喉を逸らしたが、なぜか視線だけは逸らすことができなかった。
「お前に俺の何が分かんねん!表彰台にのぼったこともない、お前、ごときに!」
激情にまかせそう怒鳴られる。言葉の最後の方なんか、気持ちが高ぶり過ぎて声が震えていた。
涙は流れていない。しかし、なぜだろう。心なしか泣いているようにも見えた。
そしてパッと両手を離し、鯵刺さんはたくさんのボトルを持ってその場を後にした。
…は? え? はあ??
あの日所在無げに小さな声で喋っていたかわいいハヤトくんはいずこに??
鯵刺さんの怒声に俺はもう、それはそれは可哀想なほどにビビリ、そして震えあがってしまい、これ以上、鯵刺さんに声をかけることも追いかけることもできなかった。
前略、アンドレア。今日はすっげームカつくことがありました。
そして思ったことが一つ、あります。
[chapter:オレは、鯵刺 逸渡なんか、大ッッッ嫌いだ!!!]
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[chapter:再会②、先輩のトゲが抜けて軟化してました]
部活なんて嫌な記憶しかない、もうたくさんだ、凝り凝りだ、入部してくれと頭を下げられたって絶対にごめんだ。
そうしてオレは中学卒業を機に陸上を辞め、勉強に専念すべく部活に力を入れていない進学校に入学した。
そこであの因縁の先輩と再開するとも知らずに。
「な、な、なんで鯵刺 逸渡がここにいんの?!」
体育館で行われた高校の部活紹介後に、あまりに驚きすぎて知らぬ間に声を上げていたらしく、オレは入学早々ヘンなヤツとして注目されてしまった。
てっきり心の中で叫んだと思っていた。穴があったら入りたい。同じ中学出身で幼馴染で親友のセリカちゃんには「恥ずかしいから横を歩かないで欲しい。」と言われた。なんでだよ?あなたも思春期なんですか?落ち込むオレに優しくするのが親友じゃないの?
クラスメイトにも「お前面白いヤツだな。」とか「イケメン過ぎて近寄りがたかったけど陽気そう。」などと囃し立てられたが、いやそんなことは今は一旦どうでもいい。
ともかくこの部活に力を入れていない進学校だからこそ、ここに入学したのに、なんで入学した先に鯵刺 逸渡がいるんだよ?!お前はもっと私立の強豪校にでも行ってろよ!てかここに合格できる程頭良かったのか…意外だ…。
「普通に推薦。」
「どうやって入学したのか」と緊張しながら聞いたオレに、鯵刺逸渡は何の気なしにそう答えた。
え?オレ、二年前あんたが怒鳴り散らした相手だよ?気まずさとかないわけ?
一体どういうメンタルしてんだよ…。
この学校は進学校ではあるが、成績の良し悪し関係なくこれまでの部活やボランティアの実績で受かる枠を用意していて、鯵刺 逸渡が受かったのはそれだった。
ところで何でオレが鯵刺 逸渡と喋れているかって?何を隠そう、オレは部活紹介で「いる意味ある?」ってくらい何も喋らず終始棒立ちに徹していた鰺刺 逸渡の存在が気になりすぎて、ただ今体験入部に馳せ参じ申し上げていたのだった。
「みなさんこんにちは。僕が陸上部キャプテンで長距離やってる樋口です。でこっちが人数いなくて強制的に副キャプテンになった鯵刺くんです。珍しいよね、鯵刺って。言いにくいからみんなアジさんて呼んであげて下さい!いいよな、ハヤト?」
「うん。」
この二年でどういう進化の過程を辿ったのか、アジさんはすっかり毒気を抜かれていた。いくら校内の雰囲気がのほほんとしているからって、あのハリネズミみたいなオーラがこんな変わることある?ここはガラパゴスか何かか?
小学校の頃のオドオドした感じも、中学校の頃のトゲトゲツンツンイライラした感じもなく、アジさんはただ普通にそこに存在していた。まあ、相変わらず会話は最小限で、こちらから話しかけなければ喋らない点は同じだが。
「じゃあ今日の練習は終わりです。体験入部に来てくれた一年生のみなさんありがとうございました!新三年生の学年には人がおらんし、現状、二年生は僕ら二人だけなので、一年生が最低でも三人は入ってくれないと廃部になってしまいます。なので入部してくれるとすごく助かります。みんな気を付けて帰ってね~!」
嘘だろ、弱小も弱小、それどころか存続の危機に瀕しているようなトコに“あの”アジさんが所属しているなんて、この世は一体何が起こってるんだ?!
というわけで本人に聞いてみた。
「監督とかコーチとかがいない陸上部探してたらここになった。」
「な゛?!何でですか?アジさん程の実力者なら同じ推薦でもこんな潰れかけの部じゃなくてもっとイイとこいけたでしょうに!」
「悪かったなこんな潰れかけの部で。」とツッコむ樋口さんを華麗にスルーしズイっと身を乗り出し手を握り締めるオレに、若干後ろに身を引きながらもアジさんは言葉を続ける。
「逢坂鳳凰中はもともと親に無理矢理入らされた学校だったし、監督とはいつも意見が合わなくて、何かとトラブルが絶えなかった。コーチとは上手くいってたんだけど、その人は飛ばされて。結局、最後には俺も干されて大会に出られなくなったし、推薦も自分の力でやるしかなかった。」
だから三年生なのに雑用を押し付けられていたのか!!
「それにここでなら、自由に走れそうだったから。」
そうやって遠くを見てぽつりと呟く姿に、オレはアジさんの本心を垣間見た気がした。
「それで、オレのことは覚えてますか?」
「知らん。」
なんっっでやねん!!!!
オレは人生で初めてアジさんに全身全霊、渾身のツッコミを入れた。
もちろん心の中で、…ではなく、言葉となって口から出てしまっていた。
穴があったら入りたい。
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[chapter:再燃、先輩のライバルになるのはこのオレです]
「陸上なんか辞めてやる!」と意気込んでいたオレは、気付けば入部届にサインをしてしまっていた。
思春期特有のトゲが無くなったアジさんは本当に無害な存在へと成り果てており、それがどうにも鼻持ちならなかった。そうやって腑抜けているなら木っ端みじんのバッキバキのけっちょんけっちょんのボッコボコのコテンパンの…、もうとにかくこれでもか!という程の実力差をつけて打ち負かしてやりたかった。もちろん中学時代のあの日の無念を成仏させるために。
オレが二年前に味わった屈辱についても、「中学の時の記憶ってあんま薄くてほとんど覚えてなくて。そんなことやっちゃったのか、ごめんな、アカル。」というアジさんからの謝罪で解決した、というか一蹴された。
解決したけど!たしかに解決したけど!オレは胸の中のモヤモヤをどう晴らしていいのか分からず今も悶々としている。しかも外見にかなりの特徴があるこのオレのこと覚えてないくせにいきなり名前呼びで距離感縮めてきやがって!
元・憧れの人から言われるとドキッとするからやめなさい!
「じゃあ、湊。」
「やっぱアカルで大丈夫ですぅッ!」
「何をそんなにキレてんだよ…。」
情緒不安定になるオレを生暖かい目で見て来るが、言っとくけど!原因を作ったのはそっちなんだからな!マジで責任取ってほしい!
▽
陸上部に入部してからというもの、オレとアジさんは日々のメニューを粛々とこなしていた。アジさんは確かに速く、その実力にオレはまだ追いつけていなかったが、だからこそモチベーションが湧いてきた。
「アジさん、今日も練習頑張りましょう!」
「…ええ…?うん。」
「何ですか?!『何コイツわざわざそんなこと言って来て。』みたいな反応しないで下さい!」
「だから怒るなって。」
会話は相変わらずシンプルだが、オレは自分に言い聞かせるようにアジさんに元気よく声をかける。アジさんは微笑むでもなく、不機嫌になるでもなく、ただ黙々と練習に励んでいた。オレは彼に追いつくため、そして抜かすために全力でトレーニングに打ち込んだ。
そして三カ月後、迎えた高校総体。
オレは激怒した。必ず、かの無知蒙昧な衆愚を除かなければならぬと決意した。オレにはアジさんの人間関係がわからぬ。オレは、別の中学出身である。汗を流し、勉学に励み、友達とのんびりと遊んで暮して来た。けれども他人の悪意に対しては、人一倍に敏感であった。
だからオレは私立で中高一貫校の逢坂鳳凰中の奴らのほとんどがエスカレーター式で入学する逢坂鳳凰高校の陸上部のカッコいいえんじ色のジャージを着て、通りかかったアジさんに対してこんな風に貶すことに耐えられなかった。
「おい、見ろよ。鯵刺だぜ。」
「ほんとだ。監督に追放喰らってまだ陸上やってるとか恥ずかしくないんかね。」
グループの一人、二人が意地悪くつぶやくだけで、アジさんにが向けられる侮蔑の眼差しが他の生徒たちにも広がっていく。
「それに、昨年の大会であの鯵刺が見事に故障したって聞いたぞ。なんで今年は参加するんだろうな?ずっと故障しとけば恥かかなくて済むのに。」
「ああ、あの中学のとき速かったやつ、怪我してたのか。確かに見かけなくなったな。」
「それにしても、ここまでくると本当に笑える。今更どの面下げて監督が来る大会に出ようと思えるんだろ。気まずくないんかな?」
数人が興奮したような表情で話し込み、辺りに不穏な雰囲気が広がる。クスクスとアジさんをあざ笑う声が、逢坂鳳凰高校のジャージを着た生徒から次々と溢れた。
カッと頭に血がのぼり、怒りが胸中を駆け巡る。悔しくて思わず拳を握った。何とかしてアジさんを守らなければと考えたが、目の前が真っ赤になった頭じゃ何も思い浮かばない。
あいつらの言葉に耳を傾けたわけじゃない、あっちがわざと聞こえるような声で話すんだ。
(あいつら、好き勝手言いやがってッ…!)
しかしアジさんはそれらの声にも動じず、静かにその場を通り過ぎていき、指定の学校用荷物置き場までスタスタと歩みを進める。
「ア、アジさん!どうして言い返さなかったんですか!」
「別に。」
「オレアジさんが誰よりも努力してるの知ってます!一生懸命頑張ってる人を貶されて…。オレ、オレは悔しいです!」
「俺は慣れてる。」
それを聞いて、振り返ったアジさんの顔を見て、ハッとした。あんなことを言われて何も感じないわけがない。アジさんの表情はいつもと変わらない無表情だ。しかしその目には悔しさと屈辱、そして一抹の寂しさが漂っていて、オレは申し訳なさでいっぱいになった。
「…ごめんなさい。今の、忘れて下さい。オレ自身何も言えなかったくせして、偉そうなこと、言って…。」
一番悔しいのはアジさんなのに、と心の中で付け加える。
「いいよ、何言われても。お前も気にすんな。」
アジさんの言葉は冷静だが、その瞳には確かに悔しさと怒り、そして悲しみを抱えていることがうかがえた。
オレは決意した。あいつらを見返してやるんだ。
オレは誓った。これからはただアジさんをライバル視するんじゃなくて、仲間として、そして友として、アジさんの傍に立ち続ける。絶対に結果を残すんだ。アジさんを守るため、そして彼が抱える過去の傷を晴らすために。
「オレの出る幕なくて草~。」
「アジさんは一人でも強いからなあ。いやむしろ一人“が”強い。こういう個人競技への適正あり過ぎやろ。」
思ったほどアジさんの活躍に貢献できなくて少しだけ落胆するオレに、同じく陸上部かつ親友のセリカちゃんが慰めのような諦めのような言葉をかけてくれる。その手にはデジカメが握られており、競技に参加しているアジさんの姿をパシャパシャと激写。「新聞部の子に一番ええ写真を売りつけんねん。」と意気込んでいる。何この子、商魂たくまし過ぎて将来は立派なビジネスマンになるつもりかよ。
アジさんは驚異的な走りで次々と予選を突破していった。彼の力強いランニングは周りの注目を一身に集め、他校の観客たちからも歓声と拍手が上がるほど。『鯵刺 逸渡』の名を再び知らしめるようになっていった。去年の大会では故障を抱えていて満足な走りが出来なかったらしいから、観客が湧くのはなおさらだろう。
ちなみにオレや樋口さんも日頃の練習の成果を発揮して、アジさん同様本選に乗り込んでいるのを忘れないで欲しい。
こんな弱小高校を蹴落とせないと知った逢坂鳳凰高校の奴らの悔しそうな顔ったら!それはそれは見ものだったね!ま、全部アジさん自身が結果を残したおかげなんですが!オレもステーキに添えられるローズマリーくらいに少しは貢献したいんですけど!
そして訪れた最後のレース。アジさんとオレは並んでスタートラインに立った。正直、この時点でのオレの意識としては、もはやライバルというより、仲間として尊重するウエイトの方が大きかったが、それでも。他校がどうとか関係ない。アジさんはオレにとって仲間であり、それでもやっぱりライバルだった。オレにとってこれがアジさんとの本日最後の勝負。
全力を出す、そしてあの鯵刺 逸渡を打ち負かす。このレースで中学の時のモヤモヤが、無念が、ようやく晴れる気がするのだ。
「アジさん、ゴールは渡しません。お互い一位を目指しましょう。」
「うん。」
アジさんの手を取って力強く握手を交わして宣戦布告したのち、オレはスタート位置につこうと一歩を踏み出す。するとオレの背中の裾を引っ張りアジさんが一言。
「序盤、ペース押さえろよ。」
「いつもバテてるから。」と。え?!あの、孤立無援、天上天下唯我独尊、個人種目大好きマンで陸上にしか興味のない“あの”鯵刺 逸渡がオレのことを心配しているだと…?
勢いよくバッと振り返り姿を確認しようとするが、いない。アジさんはすでにオレに背を向けスタートラインに向かっているところだった。
心臓から血がのぼって来て、顔がじわじわと熱くなるのが自分でも分かる。
「アカルくーん、顔赤いで~、おしぼり要る~?」
「だ、大丈夫っ!」
冷やしタオルをブンブン振り回しているセリカちゃんに慌てて返事をし、誤魔化せない程に自分の顔が赤いことを知る。嘘だ、全然大丈夫じゃない。
右手を頬に添えてみる。熱があるのかってくらい、熱い。
なんなんだよもう、なんなんだよもう!
それはアジさんが取った態度への文句でもあり、アジさんの態度に対する自分の反応への文句でもある。
オレの胸中には確かにモヤモヤがあったはずだ。
だけど今感じている、モヤモヤとは異なるこの胸を何かを掻き毟りたい衝動は一体何なのだ。
[newpage]
[chapter:警告、破廉恥なのはいけません]
まだまだ夏の厳しい残暑が残る、9月。
最近、オレは自分の体の不調に悩んでいた。なんだかコンディションがおかしい。怪我をしたとかではない。もっとこう、心臓とか脳ミソとかの問題だ。
樋口さんは塾があるとかで運動部専用、学校の筋トレルームから帰還後早々に着替えを済ませ部室を出て行った。というわけで今この部屋にはオレとアジさんの二人きり。
なんのてらいもなく包み隠さず正直に言うと、オレはアジさんの生着替えシーンをガン見してしまっていた。
こちらに背を向けて、Tシャツを脱ぎ、アンダーを脱ぎ、あらわになった、脂肪がすべてこそぎ落とされ締りに締まった背筋を見せつけるアジさん。
タオルで丁寧に汗を抜き、新しいウエアを身に着ける、その過程を一から百まで、全部。
あまりの艶っぽい景色に、無意識にゴクリと生唾を飲み込む。
「何。」
「うぇえ?!」
こちらを振り返り、汗まみれの練習着から着替えてもいないオレを一瞥し、疑問を投げかけられる。ただ着替えをしていただけの無防備な相手へ向けた性的な視線に対する後ろめたさと、突然声をかけられたことへの嬉しさとで、飛び上がるほどびっくりする。
「な、ななななな何でもな」
何でもない、と言いかけてやめた。ここで変にごまかして万が一にも気持ち悪がられるとあまりにも俺の心がもたない。
「やっぱあります。あの、アジさんの筋肉すごいなあって…。それで見とれちゃってました…。」
「へぇ。」
あれ?気持ち悪がるどころか案外筋肉をほめられたことに関してまんざらでもなさそうだぞ?心なしかアジさんのいつもの無表情が「ふふん。」と自慢げな雰囲気を醸し出している気がする。ひょっとして…この流れは………チャンスなのでは?
「あの、…ちょっと、マジでちょっとだけでいいのでその、…触らせてもらってもいいですか…?」
「いいけど。」
ぺろんとシャツをたくし上げ、その磨き上げられた腹筋を外気に晒すアジさん。いきなりそれはまずいですよ!いくらオレたちが健全な関係だからってそれは!
オレは思わず叫んでしまっていた、「破廉恥なのはいけません!!!」と。
ものすごい勢いと瞬発力でシャツの裾を下ろし、アジさんの破廉恥なおへそを服の裏に隠させる。アジさんのおへそという名の太陽を、服という名の天野岩宿からだしてしまっては、この神聖なる部室がR18のピンクピンクした空間になってしまう!
ていうかちょっとほめたくらいでちょろすぎだろ!!しかもバッチリ乳首見えちゃった!!キレイなピンク色でした!!
「何をそんなに怒ってんだよ。」
「アジさんに危機感がなさすぎるからです!服の上からで大丈夫ですから!」
「ああ、そういうことか。」と納得したアジさんにほっと一息ついたのも束の間のことだった。
「ほら。」
「ッ???!?!!」
オレの肩は飛び上がった。比喩表現なく、文字通り。
それもそのはず、なんとアジさんがオレの手首を引っ掴んでぴたりと自分の腹へくっつけたからだ。
「ワ、…ァ…スゴイ…筋肉…。」
「お前顔赤すぎ。」
緊張ゆえにカタコトで喋るオレの反応を楽しむように「はは」と小さく声を漏らし、無表情を破願させ、微笑むアジさん。
別に特別整った顔立ちではない。一度顔を見ても三歩歩けばその輪郭を忘れるような、どこにでもいる普通の高校生だ。
なのに、その笑顔はオレの心臓を高鳴らせる。100mを思いっきり走り終わったあとみたいにドクドクと激しく。
何故だろう。アジさんは俺の憧れの人で、一度は失望した人で、オレたちはただの先輩と後輩の関係だと思っていたのに。なのに、どうして。
アジさんはオレの手首を離した。まるで「満足しただろ。」とでも言うように。
そうしてくるりと背を向けて帰り支度を始めるアジさんに、オレは手を伸ばす。
「ちょ、おい。」
「まだ、充分触れてないです。まだ、もっと。」
慌てたように「アカルっ!」と俺の名を呼ぶアジさんの制止も聞かず、後ろから覆いかぶさるように抱きしめる。
振り向き、咎めるよう視線を合わせてくるアジさんに、にオレは目をそらし、手の神経に集中する。彼の視線が熱く感じる。
オレは何を考えているんだろう。
オレは彼にどうしてほしいんだろう。
オレは彼に、-…何をしたいんだろう。
腰、腹、へそ…俺の手はだんだんと上へ登っていく。その両手が胸部に達したとき、不意に「っんん」と鼻から抜ける艶っぽい吐息が聞こえてハッとする。しまった、つい我を忘れて本能のままに動いてしまっていた。
アジさんはというと、よほど自分の声が恥ずかしかったのか、口を両手で覆い隠してゆでだこのように真っ赤になっている。
その光景にオレは下半身に一気に熱が集まると同時に、なんだか気持ちがすく思いだった。
「えへへ、さっきのお返しです。」
「~~~~バカッ!」
「いってぇ!」
調子に乗りすぎたオレはアジさんにほっぺたを思いっきりつねられるという制裁を食らったのだった。
意外とというか、さすがというか、筋力もある上に握力もあるアジさんの制裁は、涙が出るほど痛かった。
よかった、夢じゃなかったんだ。
[newpage]
[chapter:続投、先輩にタスキを繋ぐのはこのオレです]
冬といえばクリスマス、こたつ、正月、…などなど、思い浮かべる風物詩はたくさんあるだろう。
しかし、我ら陸上部長距離の民が思い浮かべるのはただ一つ、…―そう、『駅伝大会』だ。
男子高校生たちはフルマラソンと同じ42.195kmの距離を走り、七人でタスキを繋ぐ。個人で戦うことの多い俺たちの唯一の団体戦と言って差し支えない。
「それでは今度の11月にある駅伝予選の担当区を発表します!」
樋口さんが顧問の先生と相談して決めたらしい紙を読み上げる。
「以上が各区の担当者です。一応選考理由を説明しとくと、一年生はまだ入学して半年ちょっとと間もないので、僕ら二年が一区と四区の比較的長い距離を担当します。でも人数が足りないので、陸上経験者のアカルと多小田にも長めの距離を走ってもらいます。じゃあ次は予選の日程までの予定を発表します。…」
俺の順番は前から三番目、三区8.107km。先頭の樋口さん、次が同じ一年の花烏賊、そしてアジさんに挟まれた位置になる。
予選の日が迫り、陸上部の練習はより一層厳しくなった。樋口さんは各区の担当者に特に集中的なトレーニングを課した。表面的にも精神的にも樋口さんはオレたちのキャプテンだ。心配りのできる樋口さんだからチームがまとまるのであって、他人の感情の機微に疎いアジさんがキャプテンだったなら、きっとみんなの心はバラバラだっただろう。しかし、『走る』ことだけに特化した一番はやはり最も経験の長く走るのも速いアジさんで、メニューはどうやら彼がオレたち一人一人に合ったものを考えてくれているらしかった。先輩たちは、自分の得意なことで相手の苦手なことをカバーし合っていて、良いチームプレーができていた。
そんな先輩たちに支えられながら、俺たちは個々の区間での走力向上に努めた。
「アカル、今年の三区のコースは緩やかな坂が何個も続いてペースが乱れがちになる。体力を削られる地形だから、時間配分気にしつつアップダウンにも注意して。『もっとスピード出せそう。』と思っても序盤は溜めて、後半の下りでスパートをかけてみて。」
「わかりました、アジさん。ありがとうございます。」
樋口さんに「行ってこい」と肘でつつかれたのか、練習中、アジさんも度々声をかけてくれるようになった。コミュニケーションは彼の苦手分野なので、表情も声もかなり硬質なものだったが。
オレはアジさんに対して今もなお競争心を抱きながらも、総体での一件があってからはより一層仲間としての感情が大きくなっていた。だからこそみんなで本選に進みたい。予選を通過して本大会に進むためには、各区の担当者が力を合わせ、一丸となって走り抜かねばならない。
▽
そして迎えた予選当日、冬の柔らかい日差しが差し込む寒空の下、いよいよ駅伝大会予選会が開催された。スタート地点で待機している選手たちは、それぞれの区間での戦いに備え、緊張と興奮が入り混じった雰囲気を漂わせていた。
「アカルくん、緊張すんなよ!」
セリカちゃんが元気に声をかけてくれる。彼女は今回もデジカメ片手に応援に駆けつけていた。
「ありがとう、セリカちゃん!見ててね!できるだけかっこよく撮ってね!セリカちゃんの人生で最高のショットを頼むね!」
「や、これはアジさん・樋口さん用やで。」
「ねぇ泣いていい?」
心強い声援を受け、俺は出走地点に向かう。
後ろを向き、二区の花鳥賊が来るのを今か今かと待ち受ける。やがて観客の大きな声援が聞こえ始めた。係員の人が、複数の高校の名前をメガホンで呼び、呼ばれた生徒たちは出走ラインに立つ。全員緊張した面持ちだ。そりゃそうだ。駅伝のタスキを肩にかけ、前の地点から次の地点へと繋ぐ同期や先輩たちの命運が、次は自分に託されるのだ。みな、緊張とともに、その胸の中には熱い闘志を燃やしていた。
「××高校!××高校!三区担当者前へ!」
「はい!」
片手を上げ、大きな返事をして、何とか緊張を和らげようと試みる。
出走前、セリカちゃんから緊張を解く軽口という名の声援をもらった。
この地点に来る前のミーティングで、樋口さんにも激励をもらった。
そして会場入りする前の移動中に、アジさんに言われた。「手を冷やすなよ。」と。きっとあれは、不器用なアジさんなりの励ましの言葉だったのだろう。
背中に感じる先輩たちの期待と信頼、そしてアジさんへの競争心がオレをさらに奮い立たせていた。
(さあ、スタートだ!)
後ろからラストスパートをかけてくる花鳥賊の合図と共に、俺はタスキをしかと受け取り、三区のコースに身を投じた。体力を奪うアップダウンが続く中、最初の数キロを順調に駆け抜けていく。
「アカル、いいペースだ!」
顧問の先生の声援が背中を押してくれる。しかし、この舞台はただのレースではない。駅伝は仲間たちとのつながり、チームワークが重要な要素となる。
「三区、頑張れ!あとすこし!」
近所の住民なのだろう、知らない人たちが観客となって声援を送ってくれる。オレのゴールは近い。
前のランナーから受け取ったタスキを手に、俺は最後のスパートに向けて力を溜めた。最後の上りで勝負をかける、下り坂でを一気に駆け抜ける、アジさんならきっとそうする。それがこの区間の魅力であり、攻略のポイントだと教えられた。
「アカル、頑張れ!」
樋口さんや仲間たちの声援が背中を押す原動力となり、俺は最後の力を振り絞って上り坂を駆け上がり、すぐに下り坂になった。アジさんが見える。オレを待ってる。オレがこのタスキをアジさんに繋ぐのだ。気道が熱すぎて、もう自分がちゃんと息をしているかどうかも分からなかった。頂上で広がる風景が、この厳しい瞬間を鮮やかなな色に彩り立てていた。
そして、俺が最後のダッシュでアジさんにタスキを繋ぎ終わり、勢いよく遠ざかるその背中を見送り、ダウンに入ろうとしたときだった。
予期せぬ運命が俺を襲った。
傾斜が急な下り坂で足を踏み出した瞬間、我慢が出来ない程の激しい痛みが襲ってきた。右足に激痛が走り、痛みに耐えながらもなんとか周りの選手の邪魔にならない場所へ進もうとする。
「アカルくん、どうしたの?!」
セリカちゃんが血相を変え、必死の声で呼びかけてきた。樋口さんが駆けて来るのも見える。しかし、俺は襲い来る痛みに必死で耐えながら前を向いた。
「だ、大丈夫、なんでもない!」
痛みを押し殺して笑顔で答えたつもりだったが、足には力が入らない。しばらくすると、さらなる激痛が走り、右足がもはやまともに動かせなくなった。
「アカル、氷!」
樋口さんが俺に駆け寄ってきて、慌てて氷のうを受け取る。俺は右足に体重をかけることができずそのまま膝をついてしまった。
「アジさん、お願い。オレの分も繋いで。」
アジさんはちゃんと次の走者へタスキを繋げただろうか。
[newpage]
[chapter:終幕、オレ、先輩のことが]
駅伝の予選会での大けがを抱えながらも、オレはアジさんにタスキをつないでほしいと願った。その祈りを知ってか知らずか、アジさんはいつもどおり区間賞まで取っての全力疾走だったらしい。しかも、区間新記録樹立。俺はあの後表彰も見れないまま病院に運ばれたため人伝てに聞いた。やっぱりアジさんはすごいなあと、しみじみ思う。
そうしてドタバタの駅伝大会の予選をくぐり抜け、オレは現在バチクソ痛い疲労骨折という名の悪魔と向き合っていた。
「アップのときには既に痛みがあったんだって?」
「は、…はい。」
「何で言わなかったんだよ。」
「ごめんなさい…。」
疲労骨折用のギブスを巻いたオレに、アジさんの氷のように冷たい視線と、容赦も逃げ場もない言葉が頭上から振ってくる。ここで『迷惑をかけたくなかったから。』などと言おうものならこっぴどく叱られることが予想できたため、とにかく素直にご迷惑をおかけした点に関し謝罪を陳述する。
ここはオレの部屋。セリカちゃんはもちろん、樋口さんもだが、心配したアジさんもまたわざわざオレん家に足を運んでくれたのだった。
「何でこんな無茶を?」
アジさんが俺に向かって言った、「お前の不調に気付けなかった自分に腹が立つ、悔しい」と。そんなことを聞かされれば、さすがのオレだってはぐらかさずにきちんと返答をしなければと襟を正した。
「オレ、アジさんに認めてもらいたかったんだと思います。」
アジさんを真っすぐ見た。彼は少し驚いた表情を見せながらも、眉を下げ、悲しそうに微笑んだ。
「バカだな。」
この後にどんな辛辣な罵倒が続くのか想像もできず、オレはぎゅっと目をつむる。
そうやって怖がる俺に、温かな手の平がそっと髪の上に乗せられる感触がした。
「こんなことしなくても、俺は認めてたよ、お前のこと。」
言葉に思わず目を見開いた。
彼の言葉は意外なほど優しく、オレの心にじんわりと染み渡る。それでも、アジさんの冷静な瞳には深い悲しみが宿っているように見えた。
「アジさん…」
「お前は無理にでもアピールしようとして、それで骨折までしてした。馬鹿げてる。」
「でも、アジさんに認めてもらえたなら…」
「だからとっくに認めてたんだってば。それに気づかずにこんな無茶するお前はバカだって言ってんの。」
アジさんはオレの頭をそっと何度も撫でてくれた。その手は優しさに溢れていて、オレはじんわりとした安心感が胸に広がるのを感じた。
「これから先は、無理をしなくていい。お前が自分を大事にしないなら、俺たちがお前を認めることなんてないからな。」
アジさんの次はこんなことするなよという趣旨の釘を刺す言葉に戸惑いながらも、ひとまず許しを得たことに心の中で安堵の息をついた。
「そ、そうですか…」
アジさんは軽く肩を叩きながら続けた。
「お前は強いよ。俺が認めようが認めまいが、俺の評価に関係なくお前は立派なランナーだから。」
複雑な感情が胸中に渦巻いていた。先輩に認められたという喜びと、自分の無茶が招いた大けがの後悔が入り混じり、大きな渦となって俺の心をかき乱す。
「なんか、…」
言葉を詰まらせながらも、勇気を振り絞って続けた。
「先輩によしよしされる日が来るとは思いませんでした。アジさんは大人になったんですね。俺の知らない間に。中学生や小学生のときの“ハヤトくん”じゃなく。」
オレはあの頃のアジさんを思い出して言う。するとアジさんは「ああ、」と相槌を一つ打ち、胸の内を明かしてくれた。
「そのことだけど。実はさ、思い出したんだ。小学生の頃のことと、中学生の頃のこと。」
「えっ」
「小学生のとき、お前くくるほど髪長かったろ?声も高かったし。女子だと思ってたから、アカルと同一人物だって思わなかった。」
「な゛」
「中学のときの記憶が薄いのはほんと。もやがかかってるみたいで、マジで思い出せない。でも、この前夢で見たんだ。手洗い場でヘンなヤツが絡んできてさ、俺の地雷踏みまくんの。それで俺がキレて壁に押さえつけて…。あってる?」
「は、はい。まさしくそれです!」
「サイテーだよな。大人げない。本当にごめん。…あの頃は。総体でも見ただろ?あんな感じの奴らが周りにたくさんいて、毎日後ろ指刺されてたから気持ち的にいっぱいいっぱいで…。それで自分より弱そうな奴に八つ当たりしたんだ。」
「ごめん。」ともう一度謝り、視線を下げるアジさん。「普通に嫌われても仕方ないことをしたと思う。」なんてことを付け足されれば、こっちだって言わずにはいられなくなるじゃないか!
「そんなことないです!」
「え?」
「確かに最初はアイツなんなんだよ!って思ってましたけど…、でも、」
呼吸を落ち着けるために大きく息を吸う。
「俺、先輩のことが、嫌いじゃなくて、今は、その、す、す、す、」
あー、ヤバい、マジ顔熱い。こんなんじゃアジさんに『ガチ』だって思われちゃうじゃん。
「…好き、だから。……そこは、心配しなくて、いいと思います。」
俺の告白が宙に漂う中、アジさんは何も言わずにじっとアカルを見つめていた。目をパチクリさせ、言葉を脳内で処理している最中だと言うように。
胸が高鳴り、どきどきと心臓が張り裂けそうになりながら言葉を待った。
「そっか。」
「なんっっでやねん!!」
いきなり大声で、全身全霊、渾身のツッコミを入れたオレに、頭に「?」を浮かべきょとんとするアジさん。
「『そうか』って何だよ?!何で今ので告白だって分からないんだよ!?雰囲気で分かってよ?!」
アジさんの両肩を掴みガクガクと揺らす。
「わかったわかった、揺らすな。脳ミソがミルクシェイクになる。」
「なったらオレが全部飲み干してやりますが?」
「お前は俺をどうしたいんだよ…。」
どうしたいかって?そんなの決まってる。
「ケツん中にチンポ入れてあんあん言わせたいに決まってんでしょうが!!」
「はあ?!」
あ、やべ、言っちゃった。心の中で叫ぶつもりがいつの間にか口から本音がまろび出ていたらしい。
穴があったら入りたい…――のはアジさんも同じようで、いつもは無表情な顔面が今は茹でだこみたいに真っ赤っ赤になっている。レアだ。アジさんをこんな風にできるのはオレくらいだと思うと、ほんのりと後ろめたい優越感が腹のナカに広がる。
「でも、俺男は恋愛対象外。」
「う゛っ」
アジさんの冷たい言葉があっつあつに熱されていた湯だったハートに突き刺さる。しかし、オレは絶望することなく、覚悟を決めて言葉を続けた。
「お、おお、オレだってそうですよ!でも男だから好きなんじゃなくて、アジさんだから好きになっちゃったんですよ!」
思い切り言葉を吐き出し、アジさんに向けて真剣な表情で訴えた。
「アジさんオレ、頑張りますから!絶対あんたに振り向いて貰えるように、頑張りますから!」
俺の宣誓が部屋に響く中、アジさんは少しだけ顔を傾けて、微かな笑みを浮かべた。
「頑張れ。」
そう言ってアジさんはくるりと背を向け部屋を去っていった。
胸の高鳴りはまだ止まない。
『頑張れ。』ってさ、今の文脈でいうと、今の『頑張れ。』って言葉はさ…!それってつまり…!
オレの心は溢れんばかりの感激で震えた。
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前略、アンドレア。
最近は毎日の練習メニューしか書いてなくてマンネリしてただろ?
そんな君に、ビッグニュースを持って来てあげよう。
今日はみんながお見舞いに来てくれた。
うれしかった。
アジさんも来てくれた。話の流れでついに告白してしまった。
どうなったと思う?
「頑張れ」、だってさ!
たぶん、これからも俺たちは、陸上部で『仲間』として走り続け、いろんな経験を分かち合っていくだろう。
アジさんとの距離は確かに縮まったけれど、まだ完全じゃなかったらしい。
オレは『恋人』になりたい。でもアジさん的にはまだその段階じゃないらしい。
ならやることは一つ。アジさんが付き合うと認めざるを得なくなるまで攻めるのみ。
外堀だって埋めてやる。
振り向いてもらえるように、これから毎日「頑張って」アピールしていきたいと思う。
アンドレアも応援よろしくな。
以上、次回の報告をお楽しみに。
[newpage]
[chapter:あとがき]
読了お疲れさまでした。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
果たしてアカルはアジさんに振り向いて貰えるのか。
アカル、ああ見えて使えるものは全て使うし、仰げる協力はすべて仰ぐので、これから周りの人間を巻き込みつつ、協力してもらいつつ、アジさんの攻略に全力を注いでいく。
もちろん樋口さんとセリカちゃんも手伝わせられる。
(ちなみに二人はもう付き合ってる)
最初はそんなに仲が良くない(むしろ悪い)関係の二人が、交流を持つうちに徐々にお互いのことを知り、どんどん惹かれ合っていくという展開が性癖で、今回の「オレがタスキを繋ぎます」ではその性癖が爆発した。ところどころ、ここはどういう展開にしようとか、このセリフもうちょっと推敲できないかとか、難所も多々あったものの、無事に性癖の火山が噴火して温かい温泉が湧き出てくれたのでヨシとする。
今回は短編ということで目標を20,000文字以内に掲げて書いていたが、なんとかぎりぎり収まった。よかった。
本当はアカルがアジさんの家(実家が高校から遠いので下宿している)に行ってご飯を作ってあげたり、夏休みの合宿に行った際に一緒のお風呂に入っちゃったり、布団でコロコロ転がりながらくすぐり合ったり(アジさんは脇腹がバチクソに弱い)、二年生たちから一年生たちに送る修学旅行のおみやげに「もしかしてオレの分はちょっと特別かも」とアカルがはしゃいでしまったり。
ちなみに幼少期のアジさんの初恋の人は小六の記録会のときに自分に興味を持って話しかけてくれた女の子(だと本人は思っていたが、実は男)。つまりアカルだったりする。→だから拒絶ではなく最後の『頑張れ』に繋がるのだ。
そういうのも文字として本文中に盛り込みたかったが、そうなると文字数が文字数になって文庫本一冊くらいの長編小説になってしまうため、やむなく断念。
機会があればぜひ書きたい。
ところで、湊 灯と鯵刺 逸渡、あれ?どこかで聞いたことのある名前だなと思ったそこのあなた。鋭い。シャーロックホームズくらい鋭い勘をお持ちだ。
なんとこの物語は一話で完結している短編物語ながらも、実は高校生の二人が成長して大学生になったときの独立した物語もあるからだ(そっちのタイトルは『後輩がドのつく変態でした』)。
あっちがアホエロギャグなのに対して、この本編『オレがタスキを繋ぎます』は全年齢向けゆるふわ甘酸っぱい青春物語。ゆえにそれぞれ別の物語として別個・独立させている。
そのため、どちらを先に読んでも別々の物語として楽しめる仕様になっている。後輩がドのつく変態でしたをまだ読んだことが無い人はこれを機に読んでみて欲しい。
まあ、そんなことはともかく。
改めまして、読者のみなさんには、ここまでたどり着いて下さって本当にありがとうございましたと伝えたい。
何度だって伝えたい。
長い旅路をお疲れ様でした。
文字数の関係で本編に書けなかったネタはいつか番外編として書いてみたい。(言うだけは無料)
ここまで読んでくれてありがとうございました。
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ではまた次回の作品で。