やがて激しく
初めて会う日にひろみちゃんは〈バス乗り遅れてしまいました! すいません!〉と言って遅刻をした。今日にも関東に梅雨明け宣言が出るだろうと言われていた。突き抜ける程ではないものの良く晴れているから、きっともう宣言は出たのだろう。車の窓から青い空を見上げていると突然、床が抜け一瞬にして虚無の中へ堕ち、掴むものも何も無いという感覚に呑まれる。冷や汗が頭皮に滲み、思わず両手でハンドル下部を強く握っていた。
ラインが着信する。
ひろみちゃんは悪いと思ってか頻繁に〈風が強いね!〉などと会話を繋ぎながら、僕の待つ南浦和駅のロータリーへ向かっているようだった。
〈今日何時まで大丈夫ですか? 私は終電間に合えば、家帰れれば大丈夫ですよ〉
以前のラインのやり取りでも感じていたことだが「終電」という際どいワードを女性側からわざわざ出す辺り、ひろみちゃんは何かガードが低めで男に慣れている印象があった。またこうやって遅刻してみたり南浦和と東浦和を何度も伝え間違えて混乱を招いてみたり、どこか少し抜けていて、こちらの緊張を和らげるようなところがあった。
ひろみちゃんの希望した夕方五時半を三十分過ぎる頃になると、僕はロータリーに停めたシルバーのダイハツムーヴの開いた窓から、まだ明るい南浦和の空とビルのてっぺんを撮影していた。ズームしてフレーミングするとありふれた街の空とビルの意味合いが消え、シンプルでぶっきらぼうな表情が抽象となって際立つ。気に入ったので早速SNSに上げようとスマートフォン画面からアプリのアイコンを探す。
「『ほおむ板』の人ですか?」
あ、はい。遠い声に素早く振り向く。ひろみちゃんと思しき女性は交番を背にして立ち、開いたままの助手席の窓から運転席の僕を覗き込んでいた。ひろみちゃんの目鼻立ちを確認するよりも早く車外へ出て、助手席のドアを開けるために軽の前方を回ろうとするが、ひろみちゃんは自分でドアを開けさっさと助手席に乗り込んで座ってしまった。一週間前からラインで毎日コミュニケーションし続け大まかな情報は交換してあるものの、今日始めて実際に会う男の車の助手席に。僕は運転席へ戻る。自意識過剰で人に対して構え緊張しがちな僕は、相手を意識せず脚を組んでスマートフォンを弄っているという無意識的で稀有な背中を、ひろみちゃんに見せられたことが内心喜ばしかった。きっとこれは妙な、特殊な感慨に違いない。
はじめましてえ。互いにそう言ったが、狭い軽自動車内で改めてドアに背を付けまじまじと、舐めるように容姿を確認し合うわけにもいかない。盗み見るデニムのロングワンピースの中で、初めて会う女の均整の取れた肉体の量感と存在感が蠢く。とても不思議で眩しかった。この距離には一応、打算的な契約など介在していないのだ。ラインに突然、前触れ無く送られてきたふっくらとした頬の顔写真の、柔らかな雰囲気から何故かほぼ確信していたことだが、胸も大きいようだ。ロングワンピースの上半身部分の、ギャザーが多くてふわっとした作りに誤魔化されかき消されることなく、動きによっては豊かな丸み、膨らみが張り出す。
「あれ? 背が高いね!?」
「そうなんです、170あるんですよ」
ラインで身長の話になったことが無かった。
「170!? 写真だと小さく見えたからさあ。眼鏡は? 今日、してないの?」
「あれはアプリの加工です。顔を少し分かり難くしたんです」
「え? そうなんだ? 大分印象違うね。80年代のでっかい丸眼鏡みたいだったから」
前に停車していた黒のアルファードがウィンカー無しで発車した。会話の機会に盗み見るだけだから、ひろみちゃんの顔の印象は曖昧なままで、僕の中ではっきりとした像を結ばない。ただ実年齢より十歳位は若い雰囲気だった。ラインで送ってきた顔写真よりずっと垢抜けているらしいということは分かった。
「お台場なんて凄い久しぶりです。何年ぶりだろ?」
「首都高とか分かる?」
ひろみちゃんが息を長めに吹き出して笑い、答える。
「全然。ウチは出掛ける時は鎌倉の方とかが多かったから。横浜とか」
既にラインで今日へ向けての会話をしていたので、早速キーを回した。
「じゃあ、行くよ。ちょっと俺も首都高あんまり自信無いけど。このナビ地図が古いし」
「私がスマホでナビ見ます」
僕より二つ下なだけの同年代なのに、ラインの会話からずっと敬語を使い続けるひろみちゃんを好ましく思う。タクシープール上の大気は少しピン呆けして、夕方の兆候を孕み始めていた。黒いタクシーの列の外側を回ると、今日初めて会った二人は〈嫌なことは忘れよう!〉とお台場の海を目指し出発した。高速道路に乗る前にガソリンを入れなくてはならない。早く着いた南浦和駅付近にスタンドが見当たらなかったのだった。家族で都心や湾岸方面へ出掛けた時は新郷入口を利用していた。同じように新郷スタートでないと自信の無い僕は、まず鳩ヶ谷方面へ向かう。ひろみちゃんはペーパードライバーで道は全く分からないと言った。
約七ヶ月前の年末から妻子と別居になり、さいたま市緑区のロフト付きワンルームで一人暮らしが始まった。
互いに相手の出方を窺いつつも離婚話はいつしか後戻りを許さぬ現実味を帯びてきて、決定という段になると妻である優子の母親が待ったをかけた。まず別居をした方がいい、一度冷静になれと。離婚のつもりだった僕と優子は一先ずその意見を受け入れたのだった。
以前から給与口座変更などの既成事実を積み上げていたが、いよいよ本当に家を出るとなると何だか突き動かされるような勢いでネットを調べた。当たりを付けてすぐに東浦和駅前の大手の不動産屋へ車を走らせた。普段無いようなエネルギーと冷静さでもってその日の内にアパートと駐車場を即決する。引越しを済ませた四日後の夜に五百ミリリットルの缶チューハイを二本飲み干した僕は、車使用の日程で優子と言い合いになる。呂律の回らぬまま、困惑した娘の美緒とハイタッチすると、「もう結構」と言わんばかりに勢い良く家族の元を飛び出した。なあに美緒とは面会があるさ! 寂れたスナックが連なる大通りは寒く、これから暮らすことになる緑区のアパートは歩ける距離ではなかったが、大股で勢いよく進む進行方向へのタクシーを捕まえるにはいちいち振り返らなければならない。酔ってやけくそに曲がったような、そのくせ冷気に引き締まったような、大股で勢いよく進む年末の夜だった。商店街の光が後ろへ後ろへ飛んで行く。人生の大きな局面にあるであろう僕を誰一人として気に止めなかった。こんな年の瀬があったっていいじゃないか。これは僕の人生だ!
義父に購入してもらった車は優子の物だから、至急通りの自転車屋で一番安くて青い、ハンドルの真っ直ぐな自転車を買い通勤に使う。結構な距離を自転車で走ること自体が子供の頃以来じゃなかっただろうか? おそらく勤務先まで片道五キロほどはある。加えて正月も終わり、寒さはピークを迎えているらしかった。夜勤なので夜の九時前に出発し、朝七時過ぎに帰る。走り出すや顔面が冷気を押し裂いて呼吸がし難く、余計に疲れる気がした。闇夜を誰よりも早く飛ばしながら、人生の運びとその様相というものを不思議に思った。たとえ破滅に向かうのであれ人生のダイナミズム自体には、人ごとのように面白みすら感じてしまう。破滅するなら破滅しろ! やっちまえばいいんだ! そして僕はやったんだ! 急に自動車通勤から自転車通勤に換えたことが同僚にバレると面倒臭いので、ダウンジャケットのフードをばっちり被り見つからないように市場の出口側から駐輪場へ入った。次の休みには軽の中古車を買おう。元同僚が三十万出せば充分走ると言っていた。納車まで一週間弱は掛かるらしいから、まだ暫く凍てつくようで呼吸困難な、長距離自転車通勤が続く訳だが。
一人の生活が始まってみるとすぐに、四六時中胸が押し潰されるような感覚に襲われてやり切れなくなった。自分でアル中が心配になる位に酒量が増え、ある日など酔ってシフトを勘違いし、休みの日に出勤してしまった。目覚めた時に眼前に広がるロフトの低い、僕を押し潰さんとしてくる天井にも大分参った。白く迫る天井のテクスチャーを見るや「ああ、そうだ、一人なんだ」と現実を知らされた。暇さえあればスマホでSNSばかりして、誰かしら僕の言葉を見ているのだという感覚と、少ないが時折ある、顔の無い反応の中毒となった。反応があろうが無かろうが短歌などの表現方法を通じて、孤独な心情をほぼ一方的に吐露し続ける。時に酔いに任せて挑発的かつ好戦的で、生々しい叫びを投稿してしまうとフォロワー達が水を打ったように黙る気がした。素面に戻った僕は恥ずかしいやら自己嫌悪するやらで、投稿を削除することもあった。顔の無い沈黙や無反応というものはどうやっても好意的に捉えることが出来ない。
仕事以外で起きている時間は大体、9パーセントの缶チューハイを飲み続けない訳にはいかなかった。飲めば胸の鈍痛が一時的に誤魔化されて薄まる。
寂しい? 何が一体寂しいというのだろう? 未練は無い。思ったことを喋り伝える相手がいないことが? 金銭面や家事など、生活に追われる感覚が? 気が紛れないことがか? 一人の人間に見限られたという事実がか? どれもまあ言えているがどれも正確に言い当ててはいない気がする。考えてみれば別に今までだって、ずっとずっと一人だったじゃないか。誰だって本当は一人ぼっちだ! 本質に肉迫する程に人間は孤独で自由だ。本質を見失った脳天気連中だけがシステムの中で「シアワセ」を云々し、惰性で生きているのだ。人間は強烈な人生を体験すべきだ。孤独に悲壮感などは必要無い! 甘えて人のせいにし何もかも誤魔化していた夫婦生活から離れた今、僕は修行のごとく腰をすえて孤独に向き合うべきかも知れなかった。ただ娘に会いたい。大らかで利口な、十歳の美緒と手加減無しの雑学クイズを出し合って笑いたい。
月一で美緒に会ってルミネ・ザ・よしもとのお笑いライヴを観に行ったり、回転寿司を食べに行ったりする日にだけ、胸の塞ぎがまるっきり晴れた。会う数日前から冷たく固まった胸が解れ、活動し始めるのが分かった。美緒の心を傷付けてしまったことは事実だが、父娘の関係自体は、以前と何も変わらないように僕には感じられた。
「探してみても良いんじゃない? 今色々あるでしょう。出会いのサイトとか、あとはスマホのやつとか。後はそうねえ、公民館で習い事してみるとか。まあ、まだ既婚者ということにはなるけどねえ」
寂しさのようなものがあるなら異性との出会いをネット等で探してみればいい。十数年来世話になっているお洒落な口ひげの精神科医のアドバイスは極々当たり前だったが、改めてこうして言われてみると見落としていたような、何だかとても良いアイデアに思われた。
〈友達募集! さいたま市住み四十五才、妻子と別居中です。一緒に飲みに行ったり出掛けたりする友達が欲しいです! よろしくお願いします〉
『ほおむ板』にそう投稿する。自分では孤独からの逃避ではない気がしたから、アリだった。
健康面のため、また気を紛らすためもあってやたらとウォーキングする時に撮影した、まるでミニチュア細工みたいに繊細でカラフルな花をアカウント写真に選んだ。浮ついた色恋目的でもなかったから、募集対象年齢と性別には制限を付けなかった。別に男性でも良かった(少年時代を最後に、同性の友人を持つという感覚が僕には良く分からなかったが)。業者が詐欺紛いをしているような印象のある、派手で胡散臭い出会い系アプリは避け、何となく住所の近い者同士で物品を売買したり、仲間を募集したりする非恋愛系アプリのほおむ板に投稿してみた。出会い系アプリは結局課金になるが、ほおむ板は何よりも完全に無料だった。
投稿した二日後の夜に『クロパグ』さんという四十九才の女性からメールが来た。大手企業の外回りで、男の子を女手一つで成人に育て上げたというクロパグさんとのメールのやり取りが始まり、幾らか気が紛れた。クロパグさんは年上らしくしっかりしていて話もまあまあ弾んだので、顔写真を送り合った。メール開始から一週間位で南浦和駅前の閑散としたやや高めの、洒落た居酒屋で会うことになって飲んだが、お互い駅の改札で別れたきり全く連絡をしなかった。
世間でまことしやかに言われていることの真逆を貫く岡本太郎の書籍を読んで感動したり、ナチスドイツによるホロコーストがリアルに描かれている戦争映画を調べ上げ順に見ていったりして、元来の趣味をいくらか取り戻し始めた頃、諦めて忘れていたようなほおむ板へメールが来た。
〈離婚へ向けて話し合い中です。子供一人の主婦です。とても寂しいのでお話したいです〉
「ひろみ」さんは四十三才で国分寺市在住。中二の息子と旦那と三人暮らしだと言う。サザンオールスターズ、チューブ、小田和正、来生たかお等のベテランJ―POP勢が大好きなようだった。開催中のサッカーW杯ロシア大会については丸で話の出来ないひろみさんに、何故か強い女性らしさを感じる。僕は独り言みたいに日本代表のコロンビア撃破を喜んだ。
〈俺もサザン好きだよ!〉
「慕情」という名曲の得も言われぬ素晴らしさを語ったり、「いとしのエリー」は桑田圭佑が一度別れた原坊へ送った曲であるという内容のエピソードを教えてもらったりと話が盛り上がりをみせたところで、ひろみちゃんはやや唐突に長めの文章で相談をしてきた。簡単に言えば子供っぽい五十三才の旦那が、飲み屋の二十三才の女と浮気をしていて毎日午前にならないと帰って来ないというような内容だった。体の関係も自分から白状したと言う。旦那がしつこくその女の勤める飲み屋にひろみちゃんも連れて行こうとするのだが、その真意が全く不明らしい。ひろみちゃんは精神的に参っていると言った。僕が立ち入り過ぎぬよう客観的な意見を素直に短く述べると、ひろみちゃんは今度友達として会おうと言ってきた。よく女性は聞いてもらいたいだけで意見など求めていないと言われるが、端的で冷却作用のある客観的視点は、時に女性に喜ばれるような気がする。翌朝に、部屋の中で大きな丸眼鏡を掛けて微笑んでいるひろみちゃんの顔写真が届いていたので、こちらからも西新井大師の本堂前で優子が撮った写真を送った。美緒とのツーショットから僕だけをフレーミングしたものだ。ひろみちゃんは正直に〈美白加工しました。笑 本当はもっとおばちゃんです〉と言ったが、何故か逆で、実物の方がずっと若々しいのだった。
〈私ママ友とかパパ友とか、あまり多くないので友達になってもらえると嬉しいです!〉
その後は暫く、子供っぽい旦那の愚痴めいた話を聞いていた。
〈子供も旦那のこと嫌いなので私が連れて行こうと思ってます。……ママ友にはちょっと言えないから、聞いてもらえて本当に助かります!〉
離婚を考えていると言うひろみちゃんだが、協議離婚という言葉も調停離婚のやり方も、それが不調に終わって初めて裁判になるという仕組みも何も知らなかった。そこまで具体的にはまだ考えたことが無いのだった。
会う日にちを決める段になるとひろみちゃんは僕に全て任せる様子だったので、僕が行き先と日程を決めた。ひろみちゃんは〈東浦和まで行きます〉と言う。〈前にそっちの方に知り合いがいたので、よく行ってました。駅に五時半位でも良いですか?〉。夕方スタート希望に少し驚く。
ひろみちゃんが突然、ライン電話を音声のみのつもりで掛けてきたが、実際は間違ってビデオ電話になっていたことがあった。スマホ画面が動くと身づくろいも何もしていない寝起きの僕は、思わずロフトの布団に跳ね飛んで電話を切った。
〈夜勤、お疲れ様です! 今、休み時間ですか? 旦那は毎晩帰ってこないんで、悶々としてしまいます。来生たかおのDVD見て逃避しています。夜が一番寂しいです。お仕事中すいません。明日お台場行くときに話します〉
〈未練がある? どうでも良かったら悶々としないんじゃないかな?〉
〈そうかもしれない。認めたくないんだけど……〉
「ほら、スカイツリー!」
「わあ、ほんとだ」
新郷入口から首都高速道路に乗ると間も無く遠くにスカイツリーが現れ、段々と大きくなる。首都高をあまり走ったことが無いはずのひろみちゃんだったが、景色への反応はさほどでもない。それよりも、ひろみちゃんはよく喋っていた。決して鬱陶しいマシンガントークではない。自然に喋ってくれて、嫌な間の空くことが無かった。
「……お爺ちゃんお婆ちゃんと話すのは楽しいですよ。痴呆って言っても日常のお喋りは普通に出来るし。訪問看護だから時間も自分で決めらるんです」
「自分で決めるんだ? なるほどね。俺もお爺ちゃんお婆ちゃんは話し易いな」
「そう、だから良いんですけど……前に施設の方で先輩に目を付けられてイジメられて。今はもう大丈夫になりましたけど」
「……ええ?」
「そう、長いこと。でも私、イジメられてることにずっと気付かないんですよ。周りの人に言われて、あれ、そうなんだって」
ひろみちゃんはタハッと息を吐き出す様に笑う。前方に延びる高速道路には、既に薄いオレンジの照明がぼんやりと連なっていた。いきなり、短く他意無く語られたリアルなエピソードたった一つによって、ひろみちゃんの人柄が抵抗無く僕の体の中へ沁み込んでくるのが良く分かった。自分をイジメてくる人間の悪意に触れ、それが悪意であると気付かないということ。自尊心の問題もあるのに、イジメられていたという遠くない事実を、自分からこうもさらっと言えるものだろうか? 僕は何と返して良いのか分からずに黙ってしまった。
街は緩やかに湾曲した防音壁で隠されていたが、空と雲を見れば太陽光の衰退を感じ取ることが出来た。江北ジャンクションを過ぎた頃、メーターが目に入って心臓が跳ねる。
「あ! やば。ガソリン入れんの忘れた」
デジタルメーターが点滅し始めてからもうどの位走っただろう!? 格好付けて、騒がないように抑える。
「下りますか?」
すぐに次の扇大橋出口で首都高を下りた。首都高の下を並走する大通り沿いには店舗の灯りがひしめき合っていたが、中々ガソリンスタンドが見つからない。ひろみちゃんが扇大橋出口付近のガソリンスタンドを検索しつつ、屈託無く訊いてくる。
「どう思いました? 会ってみて。私ってどういう人です? そう、よく天然って言われるんですけど。天然かなあ?」
口ぶりが随分と若い。
「思ったより元気でよく話すからびっくりした。あと背が高くてびっくりしたでしょ」
「え!? 私元気ですか? よく話します?」
僕は手振りを交えて答える。
「いや、俺が話さない方だから楽でいいよ」
急に上半身を背もたれから起こし、ひろみちゃんが僕の顔を覗いた。
「なんか、可愛い喋り方しますよね!?」
え? そう?
市場でもそうだが、人に対するもはや原因不明で理屈抜きの緊張から常に違和感の中でギクシャクとして、意識過剰で、普通にしているつもりでも奇妙に浮いてしまうような僕は、ひろみちゃんにその違和感を感じ取られたのだと思って、良い意味に取ることが出来なかった。
知らない街の赤信号に止まって考え直す。
「ひろみちゃんは天然だと思うよ」
「えー? 例えばどこら辺がですか?」
「例えば? さっきのイジメられてるのに気付かないって話も、まあ、そうだし、いきなりテレビ電話かけてきたりさあ」
タハーッ。
「あれは……」
「東浦和って言ったり南浦和行きますよって言ったりしたじゃん」
狭い車内に二人の笑い声が響いて消える。
「やっぱり天然なのかなあ?」
何か色気を感じると思って横を見たら、ひろみちゃんの細過ぎず太過ぎない右の二の腕がノースリーブのワンピースから露に伸びていた。一見して暗くとも、シミの無い滑るような肌であることが見て取れた。羽織っていた白いレースのショートカーディガンをいつの間にか脱いで、腿の上にふわりと置いていた。ひろみちゃんは全体的に肉感的なのにも関わらず、全く太っていない。
「……人をすぐ信用しちゃうっていうのはあります。それで何か、付いてっちゃって男にヤリ捨てされたりとか」
首都高の裏を見上げ、今、現在の状況を思う。
「私、シちゃうと相手のこと好きになっちゃうんですよ」
「ええ? あ! あった!」
諸々込みで三十四万円のムーヴは信号でUターンすると、ガソリンスタンドに滑り込んだ。給油を済ませ、再び首都高速に上がるべく入口表示を探す。ガソリン代を払おうとするひろみちゃんに格好を付ける。
「いいよ、大丈夫」
「最後に高速代とか全部清算して払います」
……え? 何だって? ヤリ捨て? シちゃうと好きになる?
「じゃあ、その感じだと、付き合った数とか多そうだね?」
「んー、まあ、若い頃は。結婚してからは全然。そう、二十九になった時に焦っちゃって、そろそろ結婚しないとってなって。子供も欲しいし。それでその時付き合ってた今の旦那でいいかって、結婚しちゃったんです。女の二十九はヤバイですよ。絶対焦ります」
「ああ、二十九で焦る? 女性はそうかあ。俺は付き合った数少ないよ」
ひろみちゃんが小さく鼻で笑った音が、聞こえた気がする。
すぐに扇大橋入口が見つかり再び首都高へ上がった。
気が遠くなりそうな水量を湛えて、金と黒に煌きながら堂々と流れる荒川と、その脇を曲がりくねって重なる巨大人工建築物群が織り成す景色は、実に雄大だった。視界を遮る物が無くどこまでも見渡すことが出来る。上空の大半はもう闇夜で、西の方だけ水色がかっている。街の輪郭では微々たるピンクとオレンジのグラデーションが死に際の光を放っていた。今まさに太陽光が地球の影へ吸い込まれようとしている。
「ほら、景色凄いね」
「ほんとだ」
消滅していく微かなグラデーションを右に盗み見ながら、助手席が女で運転が男のドライヴデートというのは、運転に集中せざるを得ない男が自然と聞き役になるから、女が話し易くていいものだということに今さら気付く。しかしこれはデートなのか? ここまでナビ無しで間違わずに進んでいた。
「びっくりしました? 背が高くて。背が高い女の人どうですか?」
「俺、背が高い女性好きなんだ」
「嫌なのかと思った」
話す機会にちらっと見るにつれ、ひろみちゃんは男性よりも女性に多いような頬のふっくらとしたおちょぼ口っぽい、整った顔立ちだということが知れてきた。少しだけ女優の美穂純を連想させる。見れば「そうそう」というように思い出すのだが、ひろみちゃんの顔を頭の中だけで思い浮かべようとしても、やはり未だに、何故かぼやっとして像を結ばないのだった。不思議に顔だけが曖昧だった。
「せっかくだから背丈を利用しようかなと思って二十代の頃、レースクイーンの下のまた下みたいな、イベントとかで看板持たされる仕事をやって、一日中立ってたんですけど」
「ええ!? 本当に?」
「レースクイーンとしてレース場行く人なんて本当にバリバリの一握りだから。こういう世界も厳しいなあって看板持ちながら思って、辞めちゃいましたけど」
そんな容姿や体形で勝負するような仕事をしていた女が、僕の隣に座って無邪気に喋っているのか? 助手席の、デニムに包まれた腿を見て更なる緊張に包まれそうになり、僕は内面に自分への信頼を探す。
葛西ジャンクションが近づいていた。左右どちらの路線にも対応出来るよう、真ん中寄りに車線変更しておく。
「俺も色んな仕事したよ」
「どんなのですか?」
「ゴルフ場のカメラマンとかあ、二トントラック乗って田舎行く牛乳の移動販売とかあ、タクシーの運転手とかあ……」
「タクシー!?」
緑色をした葛西ジャンクション付近の標識が遠くに現れ、次第に大きくなる。やや減速し神経を集中させて、標識の意味するところを読み取ろうとする。東関道? 湾岸線? ん? 新木場?
路線を選んでから速度を抑えてカーヴし、暫く進む。右手に迫ってきたのは、葛西臨海公園の巨大な観覧車だった。
「あれ間違えた! 逆だ! 千葉の方向かってるわ!」
タハッ!
家族で出掛けた頃は、何故か道路に明るい優子のナビに頼っていた。
「ごめん! もうお腹空いた?」
「全然。大丈夫です」
埋立地には生活感が希薄で、世界は既にすっぽりと闇に包まれていた。灯りの間隔が広く、闇が濃い。時折ひろみちゃんはナビで道を調べようとする。
「あ、ほらディズニーランドだよ。ミラコスタでしょ? 今の。違うか。Uターンしなきゃ」
ひろみちゃんはディズニーのホテルを見ても驚かず、曖昧な反応をした。ナントカ出口で高速を下り、交通量の多い一般道を行く。Uターンの機会を窺っている内に千葉の方千葉の方へと進んでしまう。海と逆の市街へ入ってから適当にもう一度左折する。街灯がぽつんと光を落とす湾岸の工場前は、土地の使い方も贅沢で大雑把だった。
「……そのほおむ板で会った四十九才の人とは、何で会わなくなっちゃったんですか?」
暗くなると共に会話のスピードとトーンが落ち着いていた。
「んー、何となくだなあ。あっちも俺のこと嫌がってんのが分かっちゃったんだよね」
タハッ。
「あ、表示出てきた!」
七時を過ぎている。車外には住宅も歩行者も全く見当たらなかった。ただ自分達の走る道路と車の光と、インダストリアルな風景が流れていくだけ。お台場に人はいるのだろうか? これから遊ぶというのが不思議だった。
「私もほおむ板しましたけど、年齢言うとメールが返ってこなくなっちゃって」
ひろみちゃんは一度も僕の名前を呼んでいなかった。「君」とも「あなた」とも。ほおむ板とラインのアカウント名である「はなび」とも。相手の名前を呼ばぬまま会話がこんなに続くということに驚く。話し難くないのだろうか? どういう心理から相手のことを呼ばないのだろう?
「『ひろみ』って本名?」
ほおむ板とラインのアカウント名が「ひろみっち」だった。
「本名です。ありふれてるんですけど」
「お台場」を指し示す道路表示が頻繁に出だしたので、もうそれに従うだけだった。
「……でもう、言ってもらって考えたんですけど、やっぱり私旦那のことはもうどうでもいいです。未練無いです」
「そう」
ひろみちゃんは自分と僕を、交互に掌で指す。
「だから二人の寂しさは一人でいることの寂しさで、相手どうこうのの、相手と上手くいかなくなった寂しさじゃないんですよね?」
「ああ、そうだね。俺も嫁さんに未練があったら、今日ここに来ないと思う」
「そうですよね。私も結婚してから男の人と出掛けるの初めてだから」
「そうなんだ」
気付けば知った直線道路を走っていた。右手に、お台場のマンション群のスタイリッシュな灯りが見えてくる。
「……種類は? どういう本読むの?」
「うーんと、ちょっと、あれなんですけど……宗教の本とか」
「宗教、うん」
「キリスト教の牧師さんが書いた本とか、凄い良くて」
ひろみちゃんらしい気がする。
「そういうやつね。あるよね」
「どういうの読むんですか? ああ、そうだ小説か」
「そうだね、小説が多い」
「私、占いとかも好きで、占いの本も読むし。今回の旦那のことも占い師の人に電話で相談したんです……」
「電話で? 電話って、お金かかるの?」
変な返しをしてしまった。
「お金かかるんですけど」
「んー、女の人そういうの好きだけどねえ」
「気を付けた方がいいですね」
「そうねえ。……あ、これフジテレビだよ! ほら球体の」
ひろみちゃんのフジテレビ本社ビルへの反応も、今一はっきりしないものがある。見たことがあるのか無いのかも判然としなかった。ダイバーシティの方へ左折して緩やかな坂を上り東京テレポート駅近く、一回千五百円の駐車場へムーヴを停めた。少し奥へ行けば空いていた。
車を下りて歩き出した途端、二人の自由になった距離感に冷や汗の出る思いがした。話し疲れてしまったような雰囲気もあった。少し湿気の抵抗を感じる。
お台場なら大体土地勘のある僕の数十センチ~二メートル程後ろをひろみちゃんが壊れた人工衛星のように歩いて付いて来るのだが、車内と違う、付かず離れずの距離感が不安で堪らず体がギクシャクと機械っぽくなった。「まただ!」と自分の過度な対人緊張を思うと胸が軽く塞いだ。
ひろみちゃんがちゃんと付いてきているのかどうか確かめたくて、思わず、約十メートル毎に振り返ってしまう。近道すべく、駐車場を囲う金網の切れ目に向かったが、通れないように補修してあったので正規出口へ回った。振り回されるように付いて来る人工衛星の雰囲気を感じ取ればどうしても、僕の緊張と塞ぎが伝わってしまっていると思わざるを得ない。そう思えば腋の下から脂汗が滲み出し、更に体の芯から力が抜けるという悪循環が起こる。これもいつものことだった。まただよ。こればっかり! 大体、独り相撲だってことも分かっているのに。
「ここにフードコートあるから、行こうか」
腹から声が出ない。もう考えてはいけない。放っておくより無いんだ。
ダイバーシティーに向かうべく洒落た歩道橋を渡る。やはりお台場の人出はピークを越していて、僕等は人の流れと逆に歩いているようでもあった。ダイバーシティーへ入り、専門店街を抜けてフードコートを目指す。もう八時だった。
「これ……ヴィーナスフォートですか?」
「ここはダイバーシティー。ガンダムあるとこだよ」
「ほんとにお台場詳しいですね?」
「家族でよく来たからねえ。車で近いからさ」
天然石の店が見える。大分後ろを歩くひろみちゃんの気配に耐えられず、また緊張からくる硬直、意識の停滞と蓄積を打破すべく、僕の右手に全神経が集中する。右手がひろみちゃんの左手を掴もうと動きかけた瞬間、「友達として会っているのだから手を繋ぐというのは変だろうか? しかし、初めて会った日にお台場までドライヴした仲なのだから別に良いだろう?」というような考えが起こる。一度躊躇が起こると、あっという間に右手の熱が冷めてしまった。愛無きところに神経症あり、愛あるところに神経症無し。
何度も来たことのある広いフードコートの空席に座った。ダイバーシティーのフードコートは地元のフードコートよりも、大体百円程度価格が高めだ。
「何にする?」
「何にしようかなあ? て言うか外国人多くないですか?」
「爆買いの中国人かね? 日本人の方が少ないね」
ひろみちゃんの表情が曇って、強張っている気がする。気がする気がする気がする。客は意外に大勢いて並んでいる店舗もある。ひろみちゃんと僕はそれぞれ違う店で食券を買ったので奢ることも出来なかった。食欲まで減退してしまった僕は豚骨ラーメン、ひろみちゃんはカツとサラダのワンディッシュのようなものを食べつつ、スマホでお互いの子供の写真を見せ合うが、会話が弾まない。向かいに座るひろみちゃんの顔を確認して、思い出す。
「この後どうします?」
「ガンダムと海見に行こうよ」
「ああ、そっか」
夕食を済ませてフードコートの自動ドアを抜け、屋外へ出れば、意外な程近くにガンダム立像の背中が聳え立っている。ひろみちゃんが抑えるように感嘆の声を漏らした。抑えるようになる原因が、二人の元気が無い雰囲気のせいだと思われてしまう。正面に回る。鮮やかな赤い光に照らされた二十メートル程のガンダムは、気を付けの姿勢よりも少しだけ拳を上げ東京湾の方を睨んでいたが、いつものノーマルなガンダムではなかった。詳しくないのでよく分からないけれど、僕の知っているノーマルなガンダムよりも顔が小さくて角が長いし、装飾が多い。
今回は分かった。ひろみちゃんはガンダム立像を見るのが初めてで、驚いている。連れて来た甲斐があった。五十名程いるだろうか、外国人観光客やうら若きカップル達が見上げてスマホを構える中、ダイバーシティーを背にしたガンダムの照明がグリーンへとゆっくり変化する。ひろみちゃんもスマホで写真を撮り始めた。
東京テレポート駅へ向かう、車道並みに広い洒落た遊歩道から、海浜公園方面へ逸れる。ガンダムが見えなくなりそうになるとひろみちゃんは、何度も名残惜しそうに振り返った。感動しているのに二人の雰囲気が悪いから、大きく表現出来ないといった風に。
ろくに喋らぬまま重い空気を引きずりつつ、お台場中央交差点の八の字歩道橋を無理矢理渡り切り、マクドナルドデックス店脇を入る。シーサイドモールから海浜公園へと信号の無い道路を渡る際にも、壊れた人工衛星が危なっかしく、素肌の二の腕を掴みかけたが何故か止めてしまった。
海浜公園のちょっとした林を抜け売店裏を進むと、一気に視界が開ける。黒く揺れ光る静かな海が広がっていた。彼方の海上に巨大で異様な存在感を持ったレインボーブリッジが蜃気楼のように現れ、歩を進める度に迫って来る。白い照明の中に浮かび上がっている。人工の砂浜の手前、デザイン性の高い木製の階段に僕が腰掛け、ひろみちゃんが続く。
ひろみちゃんは黙っていた。暫くして細い感嘆の声が漏れ聞こえてきた。
「凄いね? あれレインボーブリッジだよ」
「……えー……。『踊る大捜査線』に出てくるやつですよね?」
「そうそう」
「あ、この景色見たことあります……。誰かのミュージックビデオで。えー……、チャゲアスの『モーニングムーン』だったかなあ?」
背後の商業施設が閉店し始めたためか辺りの闇が濃く、レインボーブリッジや首都高速群のジュエリーのような灯りが一層際立っていた。人工の入り組んだ砂浜からはどこにも水平線が見えないから、眼前の世界はまるで金銀と黒、それに煙った白だけで煌く、完成された箱庭のようだった。色の少なさが返って力強い。遠い人工建築物は細部まで晒してシャープなのだが、同時に揺らめくようでもある。スーパーリアルな存在感を持っているが故に幻想的なのだった。巨大なものを眺めた時に受ける感覚だ。
見ればひろみちゃんは何となくポーっとして、海の方を眺めていた。
「本当にJ―PОP色々好きなんだね? チャゲアスも聴くんだ?」
「……聴いてました。あと福山もハマったんですけど、結婚したから引いちゃって」
一瞬、意味が取れなかったが、結婚というのは福山雅治の結婚を指しているらしかった。海水に脚だけを入れて遊ぶ子供が見える。犬種名の分からぬような黒い小型犬が、リード無しで暗い砂浜を跳ねている。こんなに暗く閑散としたお台場海浜公園に来るのは初めてだった。
「サザン好きなら、桑田さんのラジオ聴いてます?」
「土曜の夜のでしょ? たまに聴く」
「あー、じゃあ本当のファンだ」
「あれ生演奏が凄いよね、毎回ギターだけでさ。そう、この前『ヤングマン』聴いた?」
ひろみちゃんは西城秀樹の「ヤングマン」を演奏した回を聴いていなかった。微風が心地良い。上ずって夢見るような話し方をするようになったひろみちゃんは、明らかに雰囲気に酔っていた。夜景に釘付けで物思いに耽っているようでもあり身の回りが余り見えていない様子だが、僕のことは意識している。夜景でやられちゃうなんてところは、本当に女性らしい女性だなと思う。でも、もし、もしひろみちゃんと付き合うなんてことがあったとしても、ひろみちゃんはどうも男慣れし過ぎているから、こちらが嫉妬に狂うことになるのだろうな。
今こそ腰でも抱けば、もしかしたら上手くいくのかも知れないけれど、また箱庭に視線を戻した。再び思う。
しかし……恋愛経験も多くレースクイーン的な仕事をしていたような都内住みの女が、どうしていわゆる都内の定番デートスポットを全然知らないのだろう? ペリー来航に備えて造った砲台があるという向かいの島のような場所を見つめ、ひろみちゃんの顔を思い出そうとするが、雲を掴むようで全く思い出せない。何だろう? これは。確かめるために横を向くと、ひろみちゃんは海の方から視線を外さぬまま、レースのショートカーディガンを羽織った。ああ、頬の丸い、この顔だ。
「この夜景、来生たかおの『マイ・ラグジュアリー・ナイト』の世界みたいです」
「えー、そういう曲があるの?」
「はい。本当に、そのまんま。CD持ってきたから帰り聴きましょう?」
「いーねー」
僕とひろみちゃんはマイ・ラグジュアリー・ナイトを、それぞれ一枚だけ写真に収めた。
何時までも座っていそうな、何かを期待しているようなひろみちゃんの雰囲気に多少焦れてしまった。上手く噛み合わない。
「行く?」
「行きますぅ?」
ひろみちゃんは名残惜しそうだった。立ち上がって尻の砂を叩く。
「また来ましょう?」
不意を突かれて気の無いような返事を返してしまう。考え過ぎの緊張男にも好感を持ってくれているのだろうか?
帰りに二人、自動販売機で飲み物を買う。シーサイドモールへと、再び信号の無い道路を渡る際は、少しひろみちゃんの柔らかい二の腕を引っ張った。ベンチで横柄な格好で座っているドナルドを尻目に「台場」の広大な交差点を渡っている時、緊張と、流れずに蓄積してしまった意識が緩やかに小さく決壊する。僕はひろみちゃんの左手からまだ残っているらしいペットボトルを取り上げ、何も持っていない右手の方に押し付ける。ひろみちゃんの右手がペットボトルを受け取る。僕はひろみちゃんの空になった左手の中に、自分の右手を滑り込ませて握る。
僕は十代二十代の頃、頭のダムに病的な量の意識を蓄積させた末、決壊させて破滅的なセックスをした。初体験もそうだった。そういうイメージがある。正に病的で半分夢の中のようだったのでイメージしか残っていないのだが、深夜、出身小学校の屋上に忍び込んで彼女と裸になり、敷き詰めたネルシャツとジーンズの上で汗だくになってセックスしたりした。彼女や風俗嬢とのセックスによって病的な緊張と意識を飛ばし、頭を真っ白にした。真っ白な世界に全てを溶け込ませ、帰るのだ。頭のダムに意識を蓄積し続けたらすぐに、確実に狂うのだろう。四十台半ばの今、狂気じみたエネルギーや性欲、苦悶は経験や向精神薬によって幾らか乗りこなされ、ガス抜きされてしまっているようだ。それじゃあ何も起こらないじゃないか? 馬鹿正直な意識の大決壊によって傷つかぬよう保身に走り、無駄に生き延びることを学びやがって! 死ねよ! 無茶苦茶な求愛をして死ねよ! 破滅は生き方だ! 破滅的な愛が、もうこの人生に息絶えてしまったのなら、そんな人生に何の意味があるのか?
観念に走り過ぎたかと思うと、繋いだ手の汗が気になった。
駐車場近くの、ローソン裏を歩く。手を繋げば手を繋いだで今度は「本当はひろみちゃんは手を繋ぐのが嫌なんじゃないか?」だの、くだらない不安と心配が起こる。詰まるところ肉体的感動を何度も共有し続けなければ、他人同士なんてずっと神経症的なのかも知れない。
「背が高いから、やっぱ手の位置も高いわ」
繋ぐ手を掲げて僕が言うと、ひろみちゃんが笑う。
「背、同じ位ですよね?」
「俺のが高いよっ」
「あ、そうなんだ?」
考え直してみれば背が高かったら腕も長いはずだから、手の位置が高くなるなんてことは無いはずじゃないか? どういうことだろう?
意外なことが起こった。
街灯の淡い光の下にぽつんと佇むムーヴへ辿り着く少し手前で、僕が離すよりも先に、ひろみちゃんが繋いでいた手をすっと離したのだ。
意外さに一瞬歩みが遅くなるが、気を取り直してムーヴへ乗り込んだ。海を見終えたら帰ろうなんて話し合ったことはないのに、二人自然とムーヴへ戻った。時間は敢えて見ないようにして砂利の中を走り出す。
「この辺さ、沢山高速の入口あって難しいんだけど、運が良ければレインボーブリッジ側から今いた海岸を見れるんだよ。よく分かんないから当たればだけど」
当たりを引いた。助手席側下方に広がるお台場の夜景を見るよう促したが、ひろみちゃんは余りピンと来ていない様子だった。
すぐに湾岸の気配が消えて、環状線に入っていた。ひろみちゃんが黒いカジュアルな、布製のショルダーバッグから来生たかおのCDを取り出して、カーステに滑り込ませる。大人っぽくてメロウな楽曲が車内に流れるが、走行音が邪魔だ。
「……来生たかおが曲で、お姉さんの来生えつこが歌詞を書いてて、そのペアでずっとやってるんです」
「へえー、初めて聴くよ。名前は知ってるけどね。あれ、夜景とぴったりなやつ聴こうよ。ラグジュアリー・ナイト?」
「ラグジュアリー・ナイトにします? ほんとにさっきの夜景の世界そのまんまだから」
ひろみちゃんは始めて操作するであろうカーステで、幾つか曲をスキップさせる。静かなイントロが始まって、やがて歌に入った。僕は邦楽を聴く時、無意識に歌詞を最重要視するが、走行音に邪魔されて途切れ途切れにしか聴こえなかった。これ以上音量を上げれば話が出来ない。サビに来るとメロディーがキャッチーになり声量が盛り上がって
恋はゲームじゃなく、生きることね。
とはっきり聴き取ることが出来た。静かな調子にオケとジャズバンドっぽい音が重なり出すと、古い恋愛映画みたいなゆったりとした世界が広がった。純粋な音楽だ。ひろみちゃんの言いたいことが分かる気がした。歌詞が聴こえたら、きっともっと分かってあげられるだろうに。
ライトアップされた東京タワーを左手に見て北上する。
銀座の辺り、曲がりくねって天井の無い半地下道みたいなところを順調に走っていたはずだったが、そのまま何故か出口へ導かれ、一等地の一般道へと吐き出されてしまった。
「あれー? 下に出ちゃったよ」
「出ちゃいました? 高速また乗ったら、また料金掛かるんですよね?」
「そうねえ」
「一般道で行きますか? 勿体無いし。まだ十時四十分位」
この時点で、僕が淡く抱き続けていたような好ましい予想が、大分現実味を帯びてきたように思えた。ひろみちゃんにはプランがあるのだ。
「下で行こうか!」
と言ったもののまだまだ灯りと人の多い銀座を迷う。築地とか新橋とか。ひろみちゃんにスマホでのナビを頼むが、中々分からないらしく情報をくれない。迷った末にごちゃごちゃと込み入ったどこかの高速入口を見つけたので、結局また金を払って入ることにした。出来るだけ遅延行為をしたいのは山々だが、絶対に下では帰ることが出来ないと判断した。
5号線で池袋を抜けて東北自動車道の方へ逸れる。都心部でいきなり「東北」だとか表示されても混乱するじゃないか。何を話していたのか、行きも帰りも間が全く気にならない。僕の人間関係において、それは非常に貴重なことだった。ジャンクションごとに急激に左右に振られる。助手席側下方からどす黒い荒川の存在感を感じると、いつしか埼玉に入っていた。
「……最近は、あれ、『ハクソーリッジ』観ましたけど、ちょっと戦いのシーンがリアル過ぎて『もういいもういい』ってなりました」
新郷出口から一般道に下りるのは、僕等だけだった。
「あれかあ。『人を殺さず戦場から帰って来た』だっけ? キャッチコピーみたいの何だっけ? 何かそういう、甘い英雄話かなあと思ってまだ観てないなあ」
しまった。頭から難くせを付けてしまった。
「確かにそういうところもありますね」
「僕は最近ナチスのホロコーストを扱った映画で、人間の真実を観ている」とは言わずにおいた。ひろみちゃんみたいな女性がホロコーストなんて最悪な言葉を知る訳がないと思った。
鳩ヶ谷を抜けてから、トラックばかりが走る298号線へ入った。暫く真っ直ぐ進み、寝静まったような市街へと曲がって行く。ひろみちゃんがスマホを見て言う。
「ちょっと子供にメールしますね」
ほぼ毎日歩いて買い物に行くスーパーは、もう閉まっていた。
「このスーパーの裏が俺んち」
大した反応が無く拍子抜けをして、そのまま南浦和へ向かう。
「南浦和でいいでしょ?」
「んー、はい」
「終電何時なの?」
ちらりとスマホを裏返せば、十一時二十二分。
「終電はぁ……」
運転しながら、助手席でスマホを触るひろみちゃんの横顔を盗み見る。二十秒位終電時刻を調べてから、僕の視線に気付かぬ様子のひろみちゃんは、放心したようにゆっくりとスマホを下ろした。前方に視線を移して質問に答えぬまま、黙って車に揺られている。業と欲に彩られて、今現在世界で最も魅惑的な横顔だった。
「間に合う?」
ひろみちゃんは我に返ったように再びスマホを上げて弄る。
「ちょっと怪しいから……京浜東北線の……蕨? とかの方がいいかなあ」
国分寺へは南浦和の方が近いのだから辻褄が合わないが、万が一、何か他の移動手段が無いとも限らない。考えず分からないフリをして、言われるまま産業道路に入り蕨へ向かう。
「キビシイかなぁー?」
ひろみちゃんは聞こえるか聞こえないか位のか細い声で、確かにそう言った。スマホで終電を調べるフリをしては前方を見るという動作を繰り返す。
「蕨でいい?」
んーー。
ハザードランプを点けて車を路肩に停めた。こんな世慣れして色っぽい、終電をめぐる男女の駆け引きなどをするのは始めてだった。個人経営っぽい小さなカラオケ店には煌々と電飾が灯っていて、隣のラーメン店は閉まっている。
「俺んち行く?」
タハッ。
「家かー」
産業道路の歩道を歩く人はいない。
「行こ」
「初日だからなぁー」
「俺ロフトで寝るから。ひろみちゃんは下で」
僕は照れ笑いをする。
タハー。
「行くよ?」
言いながら走り出し、交差点でUターンした。
「……お互い夜寂しいからね」
「そうだね。こういうの俺、初めてだなあ」
「いや……お互い夜寂しいから、一緒にいるってことで」
顔を見ないせいか、遠くから声がする感覚がある。
「酒飲めないんだっけ?」
「ちょっと飲むけど、すぐ赤くなっちゃう。でも飲もう」
いつの間にか来生たかおは歌うのを止めていた。真っ暗い空へ向かって、ただエンジン音が細長く昇っていく。
「でも突然、家に呼んで大丈夫なの?」
質問の意味を考える。
「掃除とか」
「ああっ……それは……マズイな……」
数日前に美緒が遊びに来たから、ある程度は掃除してあった。
「ちょっとさ、駐車場で、車で待っててよ」
「大丈夫大丈夫、私も一緒に掃除するから」
298を横切って数回曲がり、スーパーの裏へ入って行く。アパートから一分程度の月極駐車場の一番端へムーヴを停めた。施錠したムーヴにひろみちゃんを残したままアパートに帰る。暗い路地を一人で早歩きしながら「本当に人と出会った」ことを確信した。玄関の燃えるゴミと大量のチューハイの空き缶が入ったポリ袋を、ひとまずユニットバスのシャワーカーテン裏に隠す。いや、シャワーもつかうか。部屋の床の体毛を一通り、掃除用のウェットシートで拭き取った。軽く物を脇に除け、仕事着や仕事用のバッグをロフトに上げる。
大股歩きでひろみちゃんを呼びに戻った。家の鍵と車の鍵は一緒になっているから、ひろみちゃんはエアコン無しで待っていた。
「ごめんね」
「大丈夫ですよ」
「コンビニで酒買おう」
スーパーと反対側のセブンイレブンまで二、三分歩く。二日に一度は買い物に行くセブンイレブンの、顔見知りの中年女性店員は、僕が珍しく背の高い女性を連れていることに何かしらの心的反応をしたようだった。僕はいつもの五百ミリリットル入り缶チューハイを二本、ひろみちゃんはアルコール度数四パーセントのもも味の、三百五十ミリリットル入り缶チューハイを一本買った。
暗く賃貸の多い住宅街をゆっくり戻る。安アパートへ曲がると、ひろみちゃんが特に緊張していないような声色で
「ここ?」
と訊く。一階一番奥まで歩き、部屋の鍵穴に鍵を挿す。深緑のドアを開けた状態で保持して待つと、ひろみちゃんは躊躇無く、先に僕の部屋へ入った。
ワンルームへ入るとひろみちゃんは
「えー、キレイじゃん。良いじゃん良いじゃん」
と言っていきなり木製の階段を上り、ロフトを見にいった。スカートの中の生脚を階段の裏から見上げる。
「広いじゃん」
「うっそ。広くはないでしょ」
テレビを点け、サッカーワールドカップの生中継を流しておく。僕みたいに中途半端なサッカーファンにとっては注目度の低めな対戦カードだった。決勝トーナメントへ勝ち抜けを決める国も出だしていて、グループリーグも終盤だ。階段を下りてきたひろみちゃんが言う。
「CDが凄い……」
「そうなんだよ、言ってなかったね。千枚以上あるからね」
笑ってそう答えた僕は一応部屋から出ると風呂場の前で、チノのハーフパンツから青いジャージ素材のハーフパンツに着替えた。部屋に戻ってクーラーを点ける。
「何これ? ねえねえ何これ?」
ひろみちゃんはCDラックの小さなガラス戸に挟んで飾ってあった数枚の、熊田曜子のサイン入りトレーディングカードをからかってきた。彼女みたいでいい。
「え? 熊田曜子」
ひろみちゃんは他にもガラス戸に挟んで飾ってあった、僕と美緒のツーショット写真数枚も見つける。
「あーほんとだね、仲良さそう」
僕は少しだけこの状況に緊張して缶チューハイを開けた。ややヤケクソ気味に多めの一口をグイと流し込む。ひろみちゃんは壁に沿って積み上げられた三十個程のCDラックを覗き込んでいる。一つのラックにCDが四十枚入る。
「殆ど洋楽ばっかり?」
僕は指差して説明する。
「このブルーハーツから、こーう来て、この岡村ちゃんまでが邦楽」
ひろみちゃんも缶チューハイを開け、飲み始めた。
「X―JAPAN聴こうよ。プレーヤーは?」
僕は白くてカセットも聴けるような、古いが綺麗なプレーヤーを部屋の隅から机の上へ移動させた。
「X―JAPANってどういう感じ?」
「滅茶苦茶凄いよ! 繊細なのに激しい」
日を跨いでいたし生活音も比較的隣に筒抜けだから、ごく小さな音でメジャーサードアルバムにして最新オリジナルアルバムの「SCARS」を流す。ワールドカップはミュートした。ひろみちゃんはほんのり赤い顔になって、僕は二缶目のプルタブを起こした。
「……自由だと孤独なんだよ。でも孤独だと自由なんだよ。ん? 合ってる? 酔ってきてよく分からん」
ひろみちゃんが笑う。僕は続ける。
「でも自由がいいよ、一番」
「じゃあ、これからも自由を選ぶの?」
え? ひろみちゃんの、甘えてこちらをなじるような言葉が「この先、私と付き合う気は無いの?」と聞こえた。
「いい女性がいればそりゃ、どうなるか分かんないよ。そりゃ、先のことはね。でもあんまり俺、結婚には向いてないみたい。ってか、まだ離婚してないし」
「え! 旦那と同じこと言ってる。『結婚に向いてない』って」
ひろみちゃん笑ってるから、まあいいや。ふとテレビ台の中に重ねてあるアダルトDVDの、生々しいジャケットが目に入った。眼鏡の女の大きな胸の陰影。少しだけワザと滑稽に慌ててみせて、DVDを奥へ押し込んだ。
タハッ。
「平気平気、そういうのは誰でも見るから」
ひろみちゃんのノースリーブの二の腕が、尋常でない色気を発していた。いや、色気そのものが僕の部屋のテレビの前で体育座りをしている。振り返り、言う。
「ギターが大きくて歌が聴こえない」
確かにそういう感想になっても無理は無いかも知れない。ひろみちゃんが聴くJ―PОPにはX―JAPANのようなハードロックっぽい音楽が無かった気がする。
色気が狭い部屋一杯に充満し出した。二缶目を飲み干すと耐え切れずに、体育座りしているひろみちゃんの体を後ろから全部抱き包んだ。僕の胸をひろみちゃんの背に押し付け、おでこを側頭部に当て、左手は膝に、右手は右腿の裏に忍び込ませた。右の腿はデニム越しで素肌ではなかった。見た目にも精神的にも丁度、子猿がお母さんに甘えて絡みついているような格好だ。ただし子猿の方が大きい。「これじゃ駄目だ。俺が親になって優しくして、甘えさせてあげなきゃ」と思うも、もう体の芯が柔らかく酔ってしまっていて、どうにも態度をコントロールし立て直すことが出来ない。暫くそうしたまま世界レベルのデュエルを眺める。
「少しは寂しさ紛れる?」
大きな子猿にまとわり付かれたままそう言うひろみちゃんの横顔は僕の顔のすぐ近く、今日一番の明るさで、恥じらい混じりに咲いていた。
「あのさあ……旦那のことの他にも、相談があるんだよね」
悪戯な目つきと声色だったから一転、一瞬にして嫌な予感が全身に走った。まだ胸の膨らみまで行けずに、ひろみちゃんの右胸の下、肋骨の辺りと内腿をさする。
「何?」
「……やっぱいいや」
「ええ? 何?」
ついに何気ないフリで、豊かな右胸の形をデニム地の上から撫でた。ゆっくり摘むように軽く揉む。ひろみちゃんは一応、僕の掌から胸を離すような動きをしてみせる。多分Fカップ位ある胸を追って、揉む。
「……私、犬好き過ぎるからさあ、犬の散歩してる人とかすぐ話しかけちゃうのね。わーって犬に寄ってって遊ぶとさ、自然と飼い主さんとも仲良くなっちゃうの」
ニヤニヤして話すひろみちゃんに継続して嫌な予感を感じつつ、右胸の心休まる柔らかさを味わうことが止められない。生返事を返す。
「それで五十三歳のおじさんと知り合ったんだけど、車で連れてかれて無理矢理ヤられちゃって。連絡先も渡しちゃったから、今も『会おう』って連絡来て……。どうすればいいかなあ? ……あれはワルだよ、本当のワル。自分も結婚してて、結婚してる女の人ばっかり誘ってるみたい」
胸を揉むのを止め、ひろみちゃんの体からゆっくり離れた。
自分の血の気が、急激に引いていくのが分かった。ひろみちゃんは悪戯っぽく僕を見やって言う。
「引いた?」
胸の中にどんよりとした大量の鉛が下りてきて、奇妙な赤黒い炎が不快に躍り上がって暴れた。ニヤニヤしているのだから警察沙汰とか、そんな深刻な話じゃないだろう? 大体、何故今、愛撫を始めたようなタイミングで、僕にそんなことを知らせる必要があるんだ?! 僕をけしかけているのか?! 何だ? これは? 言葉を振り絞る。
「……どうすればいいって……そんなのもう絶対会っちゃ駄目だよ。……車で連れてかれた? 無理矢理なの?!」
「そう」
それはひろみちゃんは犬が好きだろう。容易に想像が付くことだ。彼女なら簡単に犬を通じて知らない人間を信じたかも知れない。でも車で連れて行かれちゃ駄目だろ? それ位判断がつくだろう? 分かってて車に乗ったんだろう? 「シちゃうと好きになっちゃう」彼女は、無理矢理犯されて正常な判断が出来なくなっているとでも言うのか? 待てよ! やめてくれ!
彼女の純粋をどこか信じつつ、狡いような尻軽さ、確信犯的な邪を疑う。少しうな垂れているひろみちゃんを眉間にしわを寄せて眺めた。現に目の前で丸まって体育座りする彼女は今日始めて会った僕のアパートに、積極的に泊まりにきている。五十三歳の変態の悪人によって這い逃げようとするひろみちゃんのロングスカートが乱暴に捲り上げられ、純白のパンティーが勢い良く引っ張り下ろされる……ひろみちゃんはどこか薄っすらと……笑っているのか?……そんな光景が脳裏に浮かび思考を遮った。内面に躍り上がる赤黒い炎に支配されると、ひろみちゃんの背後に回って脇から両手を差込み、大きく柔らかな胸を鷲掴みにして乱暴に揉んだ。
「やあだ! やだあ」
声だけではあったが結構な拒絶で我に返り、すぐに手を引き抜いた。ひろみちゃんの背中、ブラジャーのホックの辺りに左頬を押し付けて寄り掛かり、暫く黙っていた。
「もう寝よ!」
頭上の辺りでそう言って振り返ったひろみちゃんの目を見据え、僕は再びいきり立つ。
「その犬のおっさんはよくて、俺は駄目だって言うの!?」
「その人はヤり捨てされたんだもん。ここにはまた来るから。初日だもん、今日は」
一瞬にして話があさっての方へ飛んで行った気がした。余りよく意味が掴めないまま、煙に巻かれてしまった。
ロフトから厚手の掛け布団を下ろしてきて、下のひろみちゃんに手渡す。続いて敷布団と加齢臭のするであろう枕。ひろみちゃんは手際良く寝床を作ると、言う。
「歯ブラシとかある?」
「あー、新しいの無いな」
「マウスウォッシュみたいなのは?」
「ごめん、無い」
ひろみちゃんは水で口をゆすいで、トイレを済ませてきたらしい。部屋の灯りを勝手に自分好みに調節するが、子供部屋みたいに明るい。僕はいつも真っ暗で寝るのだが放っておいた。ひろみちゃんは長い髪を手早くまとめると枕を独占し抱きかかえるようにして、布団に横たわった。長身が改めて際立つ。そう言えばひろみちゃんの髪は今日一日、どうなっていたんだ? 何故か意識したことが無かった。ということはアップにしていたのだろう。下半身にだけ布団を掛けてやると、ひろみちゃんはそれを首まで持ち上げる。僕もひろみちゃんの右側へ横になる。右の逆手で、向こう側を向いて寝るひろみちゃんの頭を持ち上げ、頭の下に深く左腕を挿した。
「痺れない?」
「大丈夫。何でそっち向くの?」
「歯磨いてないんだもん」
僕は酔っていた。ロフトの裏の木材を眺めながら、狂ったようだった性欲が、制御可能になってしまっていることを改めて実感した。犬の変態オヤジの性欲はどうだっていうんだ? どう処理してるっていうんだ? ……一見惰性的な日常の裏で犬のオヤジのような変態的な人種が実際に暗躍しているっていうのか? 犯罪紛いをして甘いような汁を吸っているのか? 犬のオヤジは飼い犬に笑顔で手を伸ばしてきたひろみちゃんから、純粋な尻軽さを嗅ぎ分けてほくそ笑んだのか? きっとそうだ。止めてくれよ!
気がつくと、CDラック側からひろみちゃんの小さないびきが聞こえた。僕は寝入りの十分位で目を覚ましたようだった。僕は思わずその無邪気な鼻腔の響きに
「可愛い」
とひとりごちた。腕枕をしていたので、移動して寝顔を見ることが出来ない。僕はスマホのカメラを反転させて右腕を伸ばし、ひろみちゃんの寝顔をモニターした。そうだ、この顔だ。少しだけ口を開けて全く無防備に、確実に向こうの世界へと落ちている。僕は寝顔の写真を二枚、うなじから肩、二の腕にかけての写真を一枚撮影した。部屋が明るいので鮮明に撮ることが出来た。シャッター音で起こすと思ったが、いびきのリズムは少しも変わらない。
目を覚ますと左腕が痺れていた。飾り窓から覗く戸外はまだ真っ暗だ。スマホを見れば三時九分。さっきと逆の要領でひろみちゃんの頭の下から左腕を引き抜く。頭を持ち上げられて声を漏らし、寝る体制を整え直したひろみちゃんの仕草は、起きている風だった。
「暑い。凄い汗かいちゃった」
小さくそう言うと、ひろみちゃんは深く被っていた布団をCDラックの方へ除ける。僕は当たり前のようにひろみちゃんの胸の脇を撫でた。また背後から、徐々に右胸へ向かい右手を滑らせていく。ひろみちゃんの肌は濡れていると言ってもいい位に汗ばんでいた。右手が心休まる肉の柔らかさに到達すると、ゆっくり揉み続けた。乳首の存在が掌に伝わってくる。ひろみちゃんは寝ぼけているかのように、うーんうーんと呻く。喘いでいるのではない。ブラジャーのホックをデニムの上からゆっくり外して仰向けにさせ、ギクシャクしたキスを奪う。ノースリーブと一緒にブラジャーをたくし上げたが、ひろみちゃんの体は硬い。乳房の全貌を目の当たりにせぬまま大きめの乳首を口に含んで転がし、舐めた。ワンピースに見えるデニムは上下で分かれているようだった。
うーん、うーん。
僕はひろみちゃんの下半身へと移動する。膝小僧位まで上がっていたロングスカートを更に腰骨の辺りまで捲くり上げると、汗の湿気が舞い上がった気がして、先刻の想像と違わぬようなツルツルとした白い化繊のショーツが現れた。ひろみちゃんは恥ずかしがるように寝返った。尻が上になる。レースクイーン的な仕事をしていた女の両脚は見事に、テレビ台のガラス戸に向かってやや窮屈そうにではあるが美しく堂々と、真っ直ぐ伸びていた。太過ぎず細過ぎない。僕は汗で湿った足首からふくらはぎ、膝の裏、腿の裏をゆっくり味わうように撫でて揉んだ。尻へ向かって上がっていく程、汗が多く滲んでいた。白い化繊のショーツの上から豊かに盛り上がる尻を撫でて、揉む。十代、二十代の頃の八割程度勃起した男根を尻の横の肉に押し当てた。自分の尻の穴を引き締める要領で独立した生き物のように男根を動かし、膨張させ、ひろみちゃんの柔らかい尻を何度もノックする。
うーん、うーん。
ひろみちゃんは寝ぼけた真似のようにして呻き続けている。右手がひろみちゃんの尻の割れ目に吸い込まれ、徐々に股間を潜る。中指の先だけがショーツの上から湿った秘部に到達する。汗なのか、愛液なのか。右手が大きな尻に阻まれて秘部を覆い切れずにいると、ひろみちゃんの股が右手を受け入れるように、ほんの少しだが確かに開いた。
うーん、うーん。
右手が秘部に到達した。円を描くように撫でる。びっくりする位に柔らかい。元来の育ち的には平和主義で真面目過ぎるらしい僕は、ひろみちゃんの顔まで這い上がった。
「下、舐めていい? シていい?」
うーん、うーん。
完全な狸寝入りのまま目を瞑って、ひろみちゃんは棒読みで呻くだけだった。意外だった。一日一緒に都内をドライヴして沢山話した僕を受け入れての、イエスが欲しかった。ノーと言わない狸寝入りだからOKなのだろうけども、何だかもう、良く分からない。何で寝たフリするの?「ここにはまた来る」という言葉にも実際、大分、勢いを殺がれていた。
溜め息混じりにひろみちゃんの横へバンザイで仰向けになり天井を見ている内、天然のひろみちゃんは本当にエッチなど抜きで、寂しい夜を一緒に過ごすためだけに男の部屋へ来たのかも知れないなんて気もしてくるのだった。いや、しかし、大体において、我が性欲の狂気の色が薄まってしまった。ダムの大決壊が起こらない。平穏に暮らしたいなんていうのは誤魔化しで、人はより強烈な人生体験を求めているのに!
たまに思い出したようにひろみちゃんの背中や尻、胸を撫でて揉んだ。起きているのか寝ているのかはっきりしない時間が過ぎていき、飾り窓の外が白み始める。ひろみちゃんも起きているのか寝ているのか分からないような雰囲気だった。
「そろそろ行こうかな」
朝の淡い光をバックに腕で上半身を起こすひろみちゃんの言葉に、意思のような、意味ありげで唐突な感じを受けた。ひろみちゃんのシルエットを見ながら「家のこともあるだろうし、大体、朝帰りだしな」と思う。
「行く?」
「駅まで送ってくれる?」
「歩きだけど。飲んだから。まだ残ってるっぽい」
「そっか、偉いね。ウチの旦那なんてちょっと飲んだ位じゃ運転しちゃうよ」
「今は駄目でしょう、それ」
「確かにね。東浦和だっけ? 何分位かかるの?」
「二十分位かな」
何だかあっという間に支度が終わる。僕は何故か咄嗟に、忍び寄り戻る孤独の影を嗅ぎ分けると、CDラックからXの「ブルーブラッド」を取り出した。僕がXで一番好きなメジャーファーストアルバムをひろみちゃんに押し貸す。マーキングだった。
早朝でも外は蒸した。太陽の所在は分からぬものの、もう朝のぼうっとした白さが住宅街の隅々まで侵入している。アパートを振り返りひろみちゃんが言う。
「何かいい感じのアパートだね。全体的に好きだな」
「どこらへんが?」
「全体的に」
大通りに出ると駅の方へ曲がる。
「また来るよ。セブンの奥ね」
ひろみちゃんは昨日から、また僕と会うという意味のことを自発的に七、八回は言っている。始発に乗れるかも知れないという位の時間だったから、まだ出勤する人々は殆ど無かった。僕はひろみちゃんと手を繋ぐと、歩き続けた。平日の早朝、誰に見られる訳も無いだろう。
「昔、付き合ってた人がこっちの方住んでてさ、よく来たから何となく雰囲気分かる。西川口とか行ってたどうしようもない男で。今はもう無いんでしょ? 西川口のエッチなところとか」
「無いね。条例か何かで無くなったね」
また、掘り返せば色々飛び出しそうな恐ろしげな過去だった。
駅へ着きひろみちゃんが切符を買う段になると、体が機械みたいにギクシャクとなった。どうしようもない位に。動くとギクシャクが目立つから、柱の脇で棒立ちしていた。
「送ってくれて有難うね。じゃあ、今度は居酒屋ね。ラインするから」
そう言い残すとひろみちゃんは歩いて行って小さくなり、改札を抜ける。こちらを振り返って笑った。僕は上げた右手を下ろすとそれ以上見送らずに踵を返して、来た道を一人で戻る。
帰り道、シャッターの前で着信音が鳴る。意外だった。
〈突然お邪魔させてもらってありがとう。お互い、助け合っていきましょうね〉
〈こちらこそありがとう! 助け合おうね。余り人と付き合わない僕にとって大きな体験だった。嬉しかった。いい女でビックリした!〉
〈それはないでしょう。いい女じゃないよ。送ってくれてありがとう。お台場最高! また行きましょう。色々相談に乗ってくれたり、とっても、頼りにしてます〉
〈犬の散歩の人の話は怖いから、もう会ったりしちゃダメだよ〉
〈わかった。ありがとうね〉
零時を回った市場の休憩室のテレビに、ワールドカップ日本代表対ポーランド代表の試合の生中継が流れていた。試合終了近く、日本代表が決勝トーナメントへ勝ち上がるため、大きな掛けに出たらしい。ロシアのスタジアムの観客席から低いブーイングが響いている。一見消極的なパス回しという作戦にメディアもやや批判的に騒いでいるようだったが、僕の目には監督とチームの英断であるように映る。
ひろみちゃんは世間の喜びように、日本が勝って決勝トーナメントへ進出したのだと勘違いしていた。
〈君は凄く明るくて根が真面目で大らかで、肌がキレイで脚が長くてお尻がキレイで太ってなくて、胸が大きくて女性的で優しい〉
〈仕事終わりました。そんなにおだてないでよ。みんなから痩せたらって言われるよ。肌も綺麗じゃないし……。でも素直に嬉しいです。ありがとう〉
久々に受けた素人女性からの刺激と胸を揺さぶる恋愛的な駆け引きが、そして何より部屋に来てくれた、中途半端でも愛撫をさせてくれた美しい女性の僕に対する甘い受容のようなものが、未だに僕を夢のように包み込んでいたのだ。その甘さを手放したくなくて、自分の所有物にしておきたくて、かき集めようと焦る。ひろみちゃん側から中々ラインが来ないことにもいきおい過敏になってしまった。あんなに話した後なのだから、一旦落ち着いて当然なのに。
〈会った後にひろみちゃんからのラインが減って落ち込んでいます。何か理由があるなら教えて欲しいな〉
〈何も無いよ! 早く直接話したいな。心配させてごめんね。睡眠不足ですぐ寝ちゃってる〉
〈! 何だ! 本当! 安心した! 大分落ち込んでた。食事も喉を通らなかった。ゴメンね。おやすみ〉
〈今、起きたよ。旦那が女と切れたらしくて家にいるから、ラインできなくなって、切れたからって私にはもう、旦那への気持ちが完全に無い。今は真剣に悩まないでね。私はまだ別居さえできてないから〉
〈……ユーチューブで見たけど、来生たかおの『美しい女』は凄いね。こんな時間に起きてるの? いつも〉
〈私いつも子供みたいに十時頃寝ちゃって、大体、三時頃一回起きちゃうの〉
そう言えばウチに泊まった時も早く、あっという間に寝て三時頃に起きたなあ、と思い出しながら、市場の奥まった場所に並ぶ自販機で目覚ましの冷たい缶コーヒーを買う。缶コーヒーで眠気が解消したことなど一度も無いのに、気休めで買うのだった。
会話が、お台場に出掛ける前のような盛り上がりに欠ける気がしてならない。丸々二日やりとりが開いてしまうこともあった。僕は気分を晴らすため、またヤケクソ気味なウォーキングに出掛ける。兎に角大股で体を前方に運ぶのみ。
中途半端に惚れたのか、ゆったりと余裕を持って男らしく構えていられない僕は、ウォーキング中、良くないと分かっていながら苦し紛れにいらぬ自分語りを送信してしまう。将来の夢、お台場でひろみちゃんと手を繋ぐ時に考えたこと。ウォーキング中に撮影した、鮮やかな緑色の多肉植物の写真を三枚。何か話さなければ、このまま関係が切れてしまう気がした。
「既読」マークは付くが三日返信が無い。僕は仕事と買い物以外部屋に閉じ篭って、また酒ばかり飲み始めた。
〈何か気に障ること言ったかも知れないけど、君ともっと仲良くなりたいからもう一度チャンスをください〉
〈返信無くてゴメンね。なんか最近悩んじゃって。いまのところ、離婚も別居も先になりそうだし、付き合うとか、体の関係とか、会ったらそうなりそうだから、会うのはやめようかなと。実は私、洗礼をする予定のクリスチャンなんです。結婚してるから、男性と会うのはやめようかと。本当ごめんなさい。
犬の散歩の友達も連絡をくれるから、正直気持ちが揺れて歯止めが利かない時もあるけど、正直会いたい気持ちが勝ってしまう時もあるけど、先が無いし、危険だし、会うのをやめようと思う。XのCDは郵送で送るから住所教えて! お互い大変だけど、頑張ろうね。まだ若いし、出会いはこれからだよ〉
〈君はやっぱり純粋なんだ。お互い頑張ろうね! CDはもらって下さい。君は人を信じやすいんだ。でもどうか自分を大事にしてください。
相談なら乗るよ! 変化があったら、離婚したら連絡ください。そうしたら君と付き合いたい。
僕をどう思ったか教えてください〉
〈変化があっても、付き合うとか次の結婚とか、今後考えてないよ。旦那のトラウマを越すのが難しいし、一人がいいかも〉
〈じゃあ僕は、君の気の迷いに振り回されたわけですか!?〉
〈はなびさんは口下手な感じはしたけど、恋愛とかの価値観は似てると思ったよ。女性の扱いは慣れてない感じしたよ。シャイというか。それはいいと思うよ。そういう人は好きだよ〉
〈男友達作って寂しさ紛らわそうとしたけど、クリスチャンだしやっぱやーめよーって? あの時間終電あったじゃん? 尻軽女じゃん。犬の散歩の他人と即肉体関係を持つなんて極めて異常です。何故そのことを泊まりに来てわざわざ僕に知らせる必要があったのか? ヤリマンのクリスチャンて何なんですか?〉
〈ごめんなさい。そういうつもりはなかったんです。あんまり怒らないでください。旦那の浮気で病んでただけです。お互い夜辛いからいいと思ったんです。鬱っぽかったというか、今も鬱かもしれない。犬好き過ぎるからっていうのもあった。ごめんなさい。傷つけちゃったのなら謝ります。私のことは忘れてください。優しくしてくれてありがとう〉
怒り、本音をぶちまけ出した僕の言葉にほんの少し、痛くても聴くべき響きを見つけ、耳を傾けているひろみちゃんの姿が浮かんだから、僕はひろみちゃんを自分に惹きつけておきたくて日をまたいで怒り続けた。彼女の狡いような尻軽さを直接彼女に指摘した人間は、もしかすると今までいなかったのではないか? 尻の軽いような女には同性の友人が少ないという。
僕は酒を飲み、もうこうなってしまったら無理だと知りながら、ひろみちゃんを繋ぎ止めるべく責める。ひろみちゃんは二日位反論をせずに僕の言葉を聴き続けた。ただ僕の居直った言葉に「既読」マークが付いていく。今はもう僕に見切りを付けようとするひろみちゃんの「また来るよ」という残酷で思わせぶりな言動と、狡いような尻軽さを分析し指摘すると、ひろみちゃんは〈はなびさんは始めからほおむ板に『』募集と書きましたよね?〉とあちらも根本から居直った。
缶チューハイをがぶりとあおる。
〈一回エッチしてくれよ。それでプライドが保たれるんだよ。土曜、俺んち来いよ。何で犬ジジイは良くて俺はダメなんだよ〉
〈ちょっとさ!〉
あんなに温厚なひろみちゃんを怒らせてしまう。と言っても女性特有の掌を返した恐怖の豹変には程遠い。全然ソフトだ。ひろみちゃんの大らかさが改めてよく分かった。
〈犬の散歩の人は無理矢理だったんです。はなびさんはちゃんとコントロールしてくれて、紳士的で、よかったよ。そんなにしたければ、そういうサイトを探してください〉
〈強姦されて、自分で「ワル」と断じた男に「会いたい気持ちが勝ってしまう」クリスチャンって一体何なんだよ?〉
「言い過ぎたか?」と思うも、もう止まらない。
〈何故ブロックしないの?〉
と打つと、翌日に、僕のラインはブロックされたらしく「既読」マークも付かなくなった。
混乱した。益々女というものが分からない。中途半端じゃないか?! 一体どっちだったのか? 僕の部屋を一瞬吹き抜けて去った甘い風は、一体何だったのか? いや、お互いに中途半端だったのか。どう解釈して進んでいけばいいのか? 僕は昼も夜もわざとカーテンを閉め切って酒を飲み、布団に入り続けた。胸がぼんやりと鈍く痛んで痛んで、ストライプの壁紙に「失恋だ」と呟く。ひろみちゃんの出てくる混濁した夢から覚めると横になったまま嗚咽を漏らして泣き出し、枕を濡らした。頬を伝う涙を感じながら、傷つきの深さに自分で驚いた。
ひろみちゃんの顔を思い出すことが出来ず、スマホの中に保存してある寝顔の写真を探すが、あったはずの場所に見当たらない。驚いて起き上がりスマホを覗き込んで、八千枚程の画像が保存されているカメラロールの中を探し回った。いくら血眼でスクロールし、全写真を一つ一つ入念にチェックしてみてもやはり無いのだった。間違えて消去したか!? いや、絶対にそんなことはしていない。
もはや、ひろみちゃんの顔を思い出す手立てが無くなった。フードコートで向かい合った時のひろみちゃんの顔を頭に再現しようとしても、車内で盗み見た横顔を思い出そうとしても、どうやっても駄目だった。美穂純の画像をきっかけに辿り着こうとするが、全くひろみちゃんへと繋がらない。あ! 僕は思わず小さく声を上げ、ラインの写真の存在を思い出す。急いで探し当てた。眼鏡や加工のせいなのか改めて見ても何故か逆に老けているし、ウチに来たひろみちゃんという感じがまるでしない。何故か前に見た時よりも更に、どこかの落ち着いてしまったおばさん、という印象を受ける。ひろみちゃんという存在が無かったものになろうとしている。
布団の上で胡坐をかいたまま呆然としていると、妙な実感が体の底から湧き上がってきて全身を包み込んだ。あの何だか気持ちの大きいような女性は、梅雨明けにほんの束の間現れた幻なのか? 突然、あの日のひろみちゃんの言動や気持ちの表出が、秘部のびっくりするほど柔らかな感触が、複雑な無数のパーツに解体され地面にばら撒かれたような気がした。今、本当にひろみちゃんは国分寺で夫婦関係に飽き飽きしながら、夏の日差しの中を生きて、動いているのか?
外は、地球規模の異変が囁かれる異常な酷暑だった。仕事とコンビニの買い物以外は外へ出ず、クーラーの部屋で雑巾のように入院患者のように横たわっていた。
少し起き上がると導かれるようにしてスマホをタッチする。いわゆる恋愛マニュアル本を調べ上げ、レビューを読んで、生まれて初めて購入した。溺れる者は藁をも掴む心境だった。新進気鋭の男性作家が書いた男性向けの恋愛マニュアル本は具体的かつ実践的だった。実にドライだが根底にはユーモラスな作家性も垣間見えて、思わず夢中になった。当然同意の上だが、女性は好きな男とセックスするというよりセックスした男を好きになるのだという意味の記述は、ひろみちゃんの言動と全く一致した。作者の実話として愛撫をした際、女に「続きはまた次に会った時ね」と言われ信じ、嬉々としてその日は帰ったら、もう次は取り合ってもくれなかったというエピソードが載っていた。僕の状況とほぼ同じだ。作者は一度始まったらその時に必ず最後までしなくては、女は心変わりするという。そしてセックスまでいけば女は「私の選択は間違っていなかったんだ」と自らの行動を肯定するために相手の良い所ばかりを探し、見つけ、価値を後付けし始める。本能的なのでこの仕組みを意識して動いている女性はとても少ない。
無論、人間をマニュアルで考えることなど至極馬鹿げているし、これも一つの見方に過ぎないだろうが「理想的情熱を展開していく時には、リアリズムに基づいた技術が必要かも知れない」そう考えさせる具体的な説得力がこの本にはあった。何より余りに似通った状況が書かれてあったから、この作者との出会いを不思議に思う。男も女も、自分より相手を想う恋愛によって成長する。ひろみちゃんに「女性の扱いは慣れてない感じしたよ」と言われてしまった僕が快楽への手掛かり、異性を思いやる手掛かりとして、溺れる者は藁をも掴む思いで、参考までマニュアルに目を通してみたってバチは当たるまい。
マニュアルには意識のダムの大決壊や破滅的求愛についての記述は無い。無論、破滅的求愛は、そうなってしまうだけの代物だ。
更に十数日は暗闇で寝続けただろうか? ある猛暑日の十四時頃、僕は半引き篭もりの反動で立ち上がり部屋着を脱ぐと、チノのハーフパンツと紺色のポロシャツに着替えた。やっと自分の中にエネルギーが貯まったのを感じた。
戸外はニュースが報じるように、正しく「命の危険を感じさせるような酷暑」だった。駐車場までの道のりは、まるで火に掛けたフライパンの中のよう。ムーヴのエンジンを掛け、エアコンをフルにして十七号線へと走り出す。
店に着きエンジンを切る段になっても、車内はまだ生暖かかった。書店とは名ばかりの涼しい店内に入ると、圧縮陳列された女の裸の中をゆっくりと捜し歩いた。下品極まるデザインばかりのDVDパッケージを抜けると、店の端にそのコーナーはあった。ドギツイ形と色で店の壁に並べて掛けられてあった。一つ一つ手に取り表示を見て、機能と値段、大きさ、デザインを吟味する。初めての購入ということもあってピンクの標準的らしいものを選んだ。小さいローションも一緒にレジへ持って行く。レジ周りは店員の手元しか見えないつくりになっていた。男の手はスーパーで買った惣菜か何かのようにそれを白いポリ袋に入れる。「有難うございました」と小さく低い声で言い、手渡してくる。
帰り道、スーパーに寄り夕食の弁当と単三電池を二十本買った。部屋に戻ると白いポリ袋から透明のプラ板ケースを取り出す。ケースを開け、ピンク色の医療用シリコンで男根をリアルに模したバイブレーターを取り出した。その形と色は部屋の中で違和感たっぷりに浮く。単三の電池を三つ入れて、試しに動かしてみる。振動の強度は五段階で、動きに様々なバリエーションがあった。ロフト付きワンルームに子供の頃遊んだ玩具と同じ、チープで乾いたモーター音がリズミカルに響く。
胸はまだ痛むものの、罵詈雑言に近いことを言って醜態を晒し切ったから、もう変な未練は無い。再び会うことなど絶対に無い。その意味ではこれで良かった。さようならひろみちゃん。どうも有難う。不思議な女性だね。もしかして写真のこと何か知ってるの? ああ、あと、高速代とか払うって言ったよね!? 貰ってないんだけど?
僕はもう読まれることは無いが、書き込むことの出来るひろみちゃんのラインに
〈ごめんなさい。好きになっちゃったからさ〉
と打っておいた。
発色の良いピンク色をした、太く雄々しいバイブレーターの半分から先の部分が、振動しながら円を描いてうねる。前後に動かして素振りをする。僕は人を愛したい。自分はいいから、好きな人に優しくしたくて堪らない。愛する人の愛液で溢れた柔らかい膣口に、まずはレベル3の振動のバイブレーターを当てて暫く滑らせる。スーパースローで亀頭部分を敏感な秘肉に分け入らせ、挿入していく。ゆっくり焦らして、優しく、やがて激しく。