見ず
何度死んだだろうか、とディーヴァはふと思った。
湖はだいぶ明るくなり、向こうにある星の色を映し始めた。綺麗な景色だな、とディーヴァはぼんやり認識する。
静かに、雨が降っていた。ディーヴァのところにだけ降る雨だ。血溜まりだらけの地面に、透明な雨が降り注ぐ。空の色をしたリーヴルの目から、ぽつぽつと。
何故だか笑えてきた。こんな華奢で儚そうな子どもに、自分は何度も殺されたのだと思うと、馬鹿らしくて。それでこの子どもを泣かせているのだと思うと、苦笑いしか込み上げてこない。何をしているんだろう。
それでも真っ黒で右も左も上も下もわからないような空間だったこの湖は、綺麗に星空を映す鏡になった。これを綺麗だと思えることには、まだ価値があるはずだ。
ディーヴァは空を見上げて笑う。繋がれたままだった手を握り返した。
「終わったよ、リーヴル」
それを聞いてリーヴルはナイフを捨てて、ディーヴァを抱きしめた。ディーヴァはぽんぽん、とその背を撫でる。
本来、リーヴルは生命の神の眷属であり、その役割は生命の神と同じく、生命の創造と繁栄にある。それにずっと殺しをさせ続けたのだ。堅固な精神力がなければ、ディーヴァを何度も殺すうちに自我が崩壊していたかもしれない。
強い子だ、とディーヴァはリーヴルを見て思う。無邪気で無垢で見た目通り子どもっぽいところがあるけれど、自分の役割を果たせる立派な使徒だ。
ディーヴァはなんとなく、予見していた。いつか自分を殺すのはこの子どもだと。
破壊、死、絶望を司るディーヴァはいつかセカイから忌み嫌われ、排斥されるであろうことは目に見えている。ディーヴァは殺しても、自分の死すらも糧とし、死なないが、いつか、セカイが終わる日に死ぬだろうと思っていた。どのくらい先の話かはわからないが、いつかディーヴァがいなくてもいい、セカイが世界になったとき、ディーヴァは存在することを許されなくなる。そのときディーヴァの命を奪う存在は、この子どもがいい、と思ったのだ。
無論、当分先の話だ。リーヴルには言わない。ディーヴァも自死するほどセカイを疎んではいない。敢えて言うなら、生命の神が少し疎ましいだろうか。
このセカイが一つの独立した世界になるとき、この湖はなくなる。この湖の向こうには別の世界があって、まだ不完全なこのセカイを支えるために繋がっている。ディーヴァはその湖と世界を切り離すための存在だ。
ディーヴァの眷属は聡明で、このセカイに適応している。あとは生命の神側の問題だ。
とはいえ、ディーヴァは放置するわけにもいかない。ひとまず湖から出て、森に行くことは決めていた。
「行こうか」
「森に行って、何をするの?」
「森の土に私が吸収した魔力を付与する。フロンティエール大森林全土に魔力を行き渡らせれば、相当な消費になるはずだ」
封印の前に保有魔力を減らしておかなければならない。あの湖の混沌から変換した魔力は相当な量だ。いくらディーヴァの器が大きくなったとしても、これだけの魔力を保有したままでは、封印はすぐに破けてしまう。
フロンティエール大森林はディーヴァの眷属である土の民と木の民が存在する。森を守り、人間の友となることを命じた土の民には相応の力を与えるべきだろう。
木の民は生命の神の管轄である樹木を依り代とするディーヴァの眷属だ。木とは土から養分を吸い上げ、成長するものである。その土の中に魔力を混ぜることで、木は魔力を吸って成長することになる。その緩衝材としての役割を木の民に担ってもらうことで、生命の神の生んだものと魔力の親和性を高めるのが目的だ。
「でも、ディーヴァちゃんがいくら生き返れるとしたって、傷によるダメージがないわけではないでしょ? 少し休んだら?」
「全部終わったら、封印と共に私は眠りに就く。案ずるな」
それに、とディーヴァは自嘲気味に笑った。
「私の体は治癒魔法を受け付けない。代わりに魔力を消費して、傷をなかったことにできる。そうして、私の魔力消費が人間の死の量を上回っているうちは、封印の解ける心配はなくなる」
ディーヴァの言葉にリーヴルは少し傷ついたような顔をする。
そういうことではないのだ。ディーヴァだって、労られるべきなのに。傷ついて、何度も死んで、忌み嫌われて、不自由をしているのに。
苦い面持ちで、自分を悪者にして笑うディーヴァをリーヴルは悲しいと思った。だから自分くらい、思いやれないだろうか、と思ったのだ。
リーヴルは魔法を使える。生命の神の使徒たるリーヴルが扱うのは光属性。属性からして、ディーヴァのものと相反するものだ。
傷痕一つ消せない。ディーヴァの纏うぼろぼろのドレスも直せない。けれど、ディーヴァはそれを一切気にしない。
「行こうか」
「……うん」
リーヴルは俯いたまま、ディーヴァに手を引かれてフロンティエール大森林へと向かった。
自分たちの創造主たる女神の来訪を土の民たちはいち早く察知し、手厚く出迎えた。リーヴルのことを毛嫌いする様子もない。
「女神様、いってえどうしただ?」
「わかると思うが、たくさんの魔力を蓄えたからな。眷属たるお前たちに分けに来た」
「ありがてえ……けんど、おらだぢに分けねえで女神様の力として残さねえだか?」
「私は破壊の女神。私が力を持ったままでは、セカイに命は栄えぬ」
ディーヴァは微笑して、魔力を手に集中させた。その魔力の量は目を見張るほどだ。リーヴルがいなければ、周囲に何かしらの被害を起こしていたにちがいない。
リーヴルの能力はあくまで魔力の効果をなくすもの。魔力そのものがなくなるわけではない。効果が出ないだけで、魔力を付与することなら容易かった。
膨大な魔力を纏った手を地面に当て、土に魔力を流し込む。目を閉じて、集中する。この広大な森の土にまんべんなく魔力を行き渡らせるのはリーヴルが側にいる状態だと難しいが、リーヴルがいないと大災害を起こすほどの魔力だ。手間さえ惜しまなければどうにかなるのなら、手間を惜しむ理由はディーヴァにはない。
セフィロートの発展にはあまり興味がないのだが、眷属もこのセカイで生きている。それに、リーヴルのいるセカイだ。何かと自分を気にかけてくれる存在の居場所を奪う気はない。
なんだかんだ、セカイに愛着はあるのかもしれない、とディーヴァは口角を微かに緩めた。
「この使徒が離れたら、土の民が大量発生するかもしれない。ただ、魔力はお前たちの領分である土に馴染ませたから、お前たちで魔力の分配を調整して、多くなりすぎないよう、人間どもの脅威と映らないよう、上手くやってくれ。こればかりは形の定まっている他の眷属ではどうにもならないからな」
「承知しただ。恵みに感謝を」
跪く土の民にディーヴァはからからと笑う。
「止せ。我は死を司るものぞ」
行こう、とディーヴァは再びリーヴルの手を取った。
「これで封印に魔力を使えば、かなりの期間、私は安穏と過ごせるな」
「フロンティエール大森林って広いもんね。果てを見たことがないよ」
「当然だろう。果てなどないからな」
「えっ!?」
ディーヴァはさらりと告げると、瞠目するリーヴルに説明した。
「このセカイは世界になりきれていない不完全なものだ。一つの世界として独立するためには果てが必要だ。ただ、果てが存在しない、概念的なセカイなのだよ、まだ」
「概念?」
「概念というのはざっくばらんに言ってしまうと、我々、神という存在だな。世界に神が存在することは不思議ではないが、生命が神の存在なくしても存在できる……自らの力で存在していると認識できることが重要だ。世界というのは神が主体であるものではない。生きとし生けるものたちが廻ることで成立する。神はそれを手助けする概念でしかない」
「つまり……生命の神様やディーヴァちゃんを実在のものとしてでなく扱うようになると、このセカイは独立した世界になるの?」
「もっと細かい条件もあるが、そうだな」
理解が早くて助かる、とディーヴァがリーヴルを振り向くと、リーヴルの空色とかち合った。
何故かその空が淀んでいるような気がして、ディーヴァの背筋を悪寒が走っていく。
リーヴルの声がディーヴァの腕に絡みついて言った。
「僕にももっと教えてよ、姉さん」