杭
ディーヴァの大規模魔力変換が始まった。
リーヴルの能力は魔力を無効化するだけで、魔力そのものがなくなるわけじゃない。これから起こる変化は混沌が魔力に変換されるだけだ。リーヴルの魔力無効化能力が効いていれば、ディーヴァが暴走しても、魔力を抑えることはできる。
リーヴルにしかできないことだった。このセカイで魔力を無効化することができる者は二人といない。リーヴルのそれは使徒故の特別な力なのだ。
ディーヴァが黒い光を纏い始める。健康的には見えない白い肌に黒いものがまとわりつく姿は不気味なものだった。ディーヴァが混沌を取り入れ、ディーヴァが最も受け入れやすく、最も混沌の姿に近い闇属性の魔力に変換しているのだ。
「ディーヴァちゃん……」
繋がれた手をぎゅ、と握りしめ、リーヴルはディーヴァのもう片方の手を覗く。もう片方の手は、混沌を吸収するために水の中に入っていた。水は透明なのか、ディーヴァの白い指先が見える。
その指先に黒く小さな生き物たちが寄り始める。生き物なのだろうか。水の中をしゅるしゅると自在に動くそれらはディーヴァの指にまとわりつき、やがてその指を噛んだ。
ぴく、とディーヴァの肩が揺れる。リーヴルは手をいっそう強く握りしめた。噛まれたところから、ディーヴァの血が溢れ始める。その味を好いたのか、生き物らしきものたちは更にディーヴァの指先に群がった。
「愚か者め」
ディーヴァの口からひどく低い声が出た。相手を罵る強者の声。それが湖面を揺らすと、さあっと細波が立つ。水の中でディーヴァの血の赤が黒く変容し、小さな生き物ごと、呑み込んでいく。ディーヴァの血が、赤黒く、ぶわりと広がって、湖を徐々に染め上げていく。
どこまでも黒かった湖が、灯火に照らされ、てらてらと赤く染まっていく。それはいつか、ディーヴァが暴走して染めた空の色のようだった。
リーヴルは怖くて、存在を確かめるように、ディーヴァの手を握る。その温もりが確かであるように。
ディーヴァの唇が言葉を象る。
「集え。我が血に、我が肉に。我が身の糧となりて、我が支配の下に降れ」
ディーヴァの高らかな声音に、空間の黒が蠢き出す。湖の赤がディーヴァの中に入り込んでくる。リーヴルは握りしめたディーヴァの手が熱を持ち始めるのを感じた。
どくん、と大きな鼓動を感じて、リーヴルはディーヴァを見る。ディーヴァは険しい表情をしていた。
赤かった湖が黒くなっている。淀んだ黒。その黒はディーヴァの手を物色しているようだった。するすると指先にまとわりついたり、手の甲を撫でたり。ディーヴァはぞぞぞ、と悪寒が這いずるのを耐えていた。
「っあ」
黒い何かがディーヴァの指をはむ、と食み始め、ディーヴァは思わず声を上げた。何かは侵食するように、ディーヴァの指先から少しずつ、ディーヴァを味わっていく。痛くはない。むしろ、痛みがあった方がよほどよかった。ぴちゃぴちゃと這い上がってくる何かは厭らしく音を立て、ディーヴァの肌を柔く撫でながら上ってくる。
屈するわけにはいかなかった。この気持ち悪い何かも取り込まなければならない。
ディーヴァは黒い何かを見下し、口端を吊り上げて笑う。
「食ってやろうか?」
ずる、と水面から腕を抜く。ディーヴァの腕には黒い「何か」としか形容しようのない形を成していない黒いものがべっとりとついていた。ディーヴァは挑発的な笑みを浮かべ、指先についた部分の何かを舐める。しゅうう、と音と煙を立てて黒い何かは消えていく。ディーヴァは煙となって消えていくそれを舐め、食み、消化していく。
そうして文字通り何かを食べていくうちに、ディーヴァの体に変化が現れる。肌に絡みつくような蔦の柄をした紋様が浮かび始めたのだ。四肢からするすると、体を侵食していくように。
リーヴルはそのことに言い様のない不安を覚えた。暴走をしたら殺せ、と言われたことを思い出す。
ディーヴァを殺せば、ディーヴァは魔力の許容量が増え、もっとたくさんの魔力を苦しむことなく取り込むことができる。死ねば死んだ分だけ、ディーヴァは楽になるのだ。
ただ、リーヴルは殺したくなかった。ディーヴァはリーヴルの大切な友人だ。……そんなのが綺麗事だというのもわかっている。
「……このためのナイフなんだよね、リー」
リーヴルは懐から短剣を取り出す。特に飾り気があるわけではないその短剣はリーヴルがケセドの使徒リーから預けられたものだ。
「ふふ、ふふ……」
ディーヴァの目は正気を失いかけている。殺したくないことに変わりはないが、よくわからない何かにディーヴァが呑まれていくのも見ていられなかった。
「ディーヴァちゃん」
くん、と手を引くと、抵抗なく倒れかかってくるディーヴァの体。リーヴルはその柔い肌をそっと地面に押し倒した。手だけはずっと、放さないように。
ディーヴァの笑う声に呼応して空間がカタカタと振動する。きっと、ディーヴァは混沌に呑まれかけている。ディーヴァが混沌の一部にされてしまえば、このセカイが壊れる。ディーヴァが保ってきたセカイの均衡が壊れるから。このセカイの均衡をディーヴァが保っていることを知っているのはおそらくリーヴルのみだ。
「お願い、ディーヴァちゃん。いなくならないで」
リーヴルは一度ディーヴァを抱きしめると、持っていたナイフでディーヴァの胸を突き刺した。ディーヴァの乾いた笑い声がごぽりと血を吐く音を立てて止む。ディーヴァは死んでいた。
抵抗がなくなったのをいいことに、混沌たちがディーヴァを呑み込もうと侵食を始める。手足から蔦を肩へ、太ももへ。胸も首も腹も、ディーヴァの全身悉くを黒い蔦のような紋様が走っていく。成長していく植物のように。混沌に適した肉体を持つディーヴァはまさしく苗床に相応しかった。
ぴし……ぴしぃっ……
そんなディーヴァの白磁の肌に亀裂が入ったときだった。
黒洞の目が開かれ、蔦の這っていた肌が陶器のように砕けてなくなる。元の肌を取り戻したディーヴァは、リーヴルを見た。
「ディーヴァちゃん」
「……リーヴル」
ディーヴァは空いている手を伸ばし、リーヴルの眦を拭おうとして、やめた。リーヴルは綺麗な子だ。必要でなければ、手を繋ぐ必要もないし、一緒にいる必要もない。
そんなことを思っていると、リーヴルの短剣を握った手が、ディーヴァの手を捕まえ、リーヴルはその手に頬擦りをする。じゃれつく姿は甘えているようだ。
「ディーヴァちゃん、無理しないでね」
「……その短剣は……」
ああ、これ、とリーヴルは短剣を持ち上げる。
「これは慈悲のナイフ。本当はケセドのリーのものなんだけど、使わないからって預けられたんだ」
慈悲のナイフは田舎都市ケセドで生まれた短剣だ。始まりの十人は使徒になるにあたって、それぞれ魔法ではない特殊な能力を授けられたのだが、十人の中でケセドの使徒となったリーだけは力を望まなかった。
リーは元々争いを好まず、土地も自ら一番小さなケセドを請け負うことにしたほどだ。力は争いを呼ぶ。その論理の下に、リーは力を望まなかった。
だが、何も授けないわけにはいかなかったので、生命の神がリーの管理するケセドの人々の畑を区切る杭を一つ短剣に変えたのが慈悲のナイフである。
「話に聞いたことがある。……慈悲のナイフなら、私だろうと一撃で殺せるな」
「うん」
リーから慈悲のナイフの能力を聞いたとき、どの辺が慈悲なのか疑問を抱いたが。
慈悲のナイフの能力は「必ず一撃で相手を殺す」ことである。急所以外をついても相手を殺すことができるのだ。何だったら掠り傷でも殺せる。
毒があるわけではない。ただ一回突いたり刺したりで傷を負わせれば殺すことができるのである。
この力をリーが好むはずもなかった。リーは無闇な殺生をしないし、させない。そんなリーが短剣の預け先として選んだのがリーヴルだった。
理由は詳しくは聞いていないが、リーヴルには必要なときがやってくるし、不要なときは使わないでいられるから、とのことだった。
確かに、他の使徒たちは血の気が多い者が多いし、血の気が多いわけでなくとも、咄嗟のことで手にしたものをそのまま武器にしたりする者もいる。イェソドのシエルは目が見えないため、刃物を持つのがまず危ない。
それでもリーヴルは自分が持たされた理由を理解していなかった。リーヴルの魔力無効化能力はほぼ無敵に近いがそれはリーヴルが強いのではなく、相手が魔法に依存しているからである。故に、ディーヴァのように武器を持って戦う相手とは普通に対峙しなければならない。
今、わかった。リーの言っていた「必要なとき」がいつなのか。リーヴルにだけは確実にそのときはやってくるのだ。今のように。
「ひどいや」
「泣くな」
「泣いてないやい」
「はは」
ディーヴァが朗らかに笑うと、リーヴルの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「悪いが、しばらく付き合ってくれ」
「うん」
ディーヴァが一人でやらずに、自分を頼ってくれたことが少なからず嬉しかった。リーヴルはナイフを慎重に握り直すと、水面へ向かうディーヴァに手を引かれていく。
「さあ、食い合おうか。悔いのないように」