叡知
耳元で囁かれた呼び名にディーヴァの白い肌が更に色をなくしていく。リーヴルの声、リーヴルの姿なのに、それが別の何者かなのがわかり、ディーヴァはあらゆる感情が込み上げてきた。
このセカイにディーヴァを「姉さん」と呼ぶのは一柱しかいない。
ディーヴァは忌々しげにリーヴルの顔を見た。そこには無邪気さがあるのだが、種類が違う。どこかわざとらしさがあり、ディーヴァは嫌悪感を抱いた。
「……お前」
「名前を呼んでよ、姉さん」
リーヴルの姿で、リーヴルの声でそう乞うのは、このセカイのもう一柱の神。
「生命の神よ。お前が管理を怠ったせいで此度の私の復活があったこと、努々忘れるな」
「それが目的だって言ったら?」
「……は?」
真顔でそう告げる生命の神にディーヴァは瞠目した。瞠目したというか、それしかできなかった。
破滅を呼ぶ対の神をわざわざ復活させるために、疫病を振り撒いたとでも言うのだろうか、この神は。
なんでもないように生命の神は続ける。
「封印されている姉さんと、僕は喋れない。そんなのってないよ。使徒は姉さんと自由に喋れるのに。
だから、僕は考えたんだ。僕と姉さんがもう一度一緒に過ごす方法。そのためにはまず姉さんの封印を解く必要があった」
「そのために無辜の民を殺したと?」
「姉さんのためになるなら、自分の眷属だって喜んで捧げるさ!」
生命の神の目に宿るのが狂気なのをディーヴァは察した。育てた覚えはないが、こんな風になるように仕向けた覚えだってない。いくら対抗神だからといって、存在できるのはセカイがあってこそなのだ。セカイを滅ぼそうという考えにはそうそうならない。
破壊を司る女神がそうであるのに、生命を司る神は簡単にセカイを滅ぼそうとする。
「このセカイに、人間も魔族も他の命も必要ないよ。僕と姉さんがいれば、それで全ていいじゃないか」
「お前の役目は命を生み出し、栄えさせることだろう? 何を言っているんだ?」
ディーヴァは生命の神の語る意味がわからなかった。わかりたくもない。どんな自己中心だ。
「それに、お前の力は私と逆で、生命を栄えさせることが糧となるものだ。糧を得なければ力尽き、お前は滅びるだけだぞ」
「僕のことを心配してくれるんだね、姉さん。ふふ、さすが僕の大好きな姉さん。ありがとう、姉さん。でもね、平気なんだ。僕には姉さんがいるから」
生命の神がディーヴァと手を繋ぐ。存在を確かめるように一つ一つ、指の谷間に自らの指を絡める。その艶かしい蠢きに、ディーヴァは不気味さを感じた。
ぞぞぞ、と背筋を這う悪寒に、ディーヴァはいつもなら「お前の姉ではない」と反論するところを、黙り込んでしまった。
生命の神は揚々と続ける。
「これは感情論じゃないよ? このセカイの理通りの話なんだ。僕は姉さんという命があるだけで、それを糧に生きられる。姉さんは自分の死すら自らの糧とし、生き続けることができる。……わかる? 僕たちはたった二人で成り立つ、永久機関なんだよ」
ディーヴァはぞっとする。自分に抱きついている生き物を思わず凝視した。陽光を紡いだような金糸。空を写した無垢な瞳。姿形はディーヴァの知るリーヴルのものではあるのに、そうではないと確信させる底知れない感覚。長年連れ添った相手のはずなのに、体の芯が冷たくなったかのような真っ赤な他人に感じられる。
こんなやつは知らない。無垢な目をして恐ろしいことを言うやつが生命の神? そんな馬鹿なことがあるわけがない。あっていいはずがない。ディーヴァの脳は必死に目の前の存在を否定しようとする。
永久機関だの、そういう話はどうでもいいのだ。自分たちは与えられたセカイを保ち、悠久に見守るための神ではないのか。
「我々が二人でいることが、このセカイの意義か? ならば何故お前は人間を生んだ? 使徒に力を授けた? このセカイの混沌を収めようと、私が眷属を生み出した意味とはなんだ?」
「意味なんている?」
無垢な空色で、生命の神は問い返す。
「僕たちは気紛れで他の命を作ったんだよ。住み心地が悪かったから、他の命に環境を良くしてもらおうとした。違う?」
「違う。私は混沌の方が住みよいからな」
「僕は違わないよ。姉さんは僕のために手を貸してくれたんだよね。すごく嬉しい」
何故そうなるのか。ディーヴァは不快さと恐怖の入り交じった感情を覚える。目の前の生き物はリーヴルの姿を借りた何かなのだろうが、生命の神を名乗るそれが本当に生命の神なのか、疑わしく思えた。
それは朗々と続ける。
「住みよいセカイになったんだ。それなら、もう他の命なんていらないよ。姉さん、二人で生きよう」
そうしたら幸せになれるよ、と盲信的なことを口にするそれはディーヴァの手を両手で包み、頬に当てた。母親の手に触れた子どものような顔をするそれ。本来なら和むような光景なのに、ディーヴァの心は空寒さで満ちていた。
自分の手を包む温みが気持ち悪くて仕方ない。生命の神とは、こんなやつだっただろうか。
ディーヴァはいい加減嫌になってきて、手を乱暴に払い、リーヴルの姿を借りたそれを拒絶した。すると、空色が悲しみにゆらゆらと水面を揺らす。ディーヴァはう、と呻いた。
親からの拒絶を悲しむ子どもの目だ。愛されないことを嘆く目。純真無垢を形にしたようなリーヴルの姿にその目をされた衝撃はなかなかのものだった。ただ、ディーヴァはちゃんとわかっている。それがリーヴルではないことを。
吐き気がする。そんな心に漬け入るような姑息な真似をリーヴルはしない。そう知っているから、リーヴルでないことがわかる。けれど姿はリーヴルのそれで、混乱して目眩を覚えそうだ。……恐ろしい。
「生命の神を名乗りながら、自ら生み出した生命に責任を持てないとはな。失望した」
「え」
リーヴルの表情が凍りつく。ディーヴァは続けた。
「そもそも、このセカイの混沌の昇華方法が魔力を込めた人間や魔族を生み出すことであったはずだ。魔力は絶えずセカイに満ちる力。もう彼らの助けなしで、このセカイは保たれない。主神がそんなこともわかっていないとは、嘆かわしいことだ」
「姉さん」
「私はお前の姉ではない。そのように生まれたわけではないだろう? お前も、私も」
狼狽えるリーヴルの姿を借りたものに、調子の戻ってきたディーヴァが諭していく。
「生命を蔑ろにするな。そんなお前に存在する価値などない。私が目にかける価値もない。それでもお前が生命を放棄するというのなら、私はもう一度雨を降らせよう。そうしてお前もろともこのセカイを終わらせてやる」
「ちが、ねえさ、ちがう、ぼくは」
リーヴルの手がすがりついてくる。濁った空色が必死にディーヴァに違う、と訴えかける。
対するディーヴァの目は冷えきったものだ。濃紫の目は今度は自らの意志で矮小な神を睥睨する。
「お前が生命を栄えさすことで、私が死を糧とすることも意味を持つ。我々が二柱であることは他の命らの巡りがあってようやく意味を持つのだ。そのような簡単なこともわからぬ神など、対として必要ない」
「ゃ、ゃだ、いゃだ、いや、嫌だ嫌だ嫌だ!!」
「喧しい、戯けが」
がくがくと哀れなまでに震え上がるこのセカイの神を名乗るものをディーヴァは冷たくあしらう。可哀想などとは思わない。ディーヴァは自らの見解を述べているだけだ。相手が横柄であるのなら、それをそのまま返すだけ。
「お前が嫌でも、お前が変わろうとしないならそれが最善と私が判断する。嫌なら変われ」
「変わる……?」
「生命の神の名に恥じぬ行いをしろ。でなければ私はお前を許さないし、お前を殺す」
殺す、という強い言葉に、リーヴルの体が身を竦める。それは生きたいという反射だ。それが生命の神のものなのか、リーヴルのものなのか、ディーヴァに判別はつかない。
愛しいものに殺されることを史上とするところまでこいつがイカれていなくてよかった、と乾いた心でディーヴァは思った。そこまでいっていたら、もうディーヴァには手の施しようがない。
ディーヴァはこのセカイに愛着があった。眷属を通して、リーヴルの口からなどでしかこのセカイを知らないけれど、簡単に壊せるほど、情がないわけではない。生命の神が前述した通り、住みよいのだ。
「生きたいのなら、条件がある。お前も私も身勝手だからな。人間に人間の命運を握らせるのだ」
「……どうやって? このセカイでは僕たちが理のようなものでしょう?」
はあ、とディーヴァは溜め息を吐いた。生命の神の勘違いは人間らしい。神が理であるなど、一体誰が決めたのか。
「人間には人間の理があり、神には神の理がある。理とは生きたものが築くものだ。お前が人間の理想の神でないように、私が眷属の望む姿とは限らないように」
リーヴルの姿である心臓に悪い相手にディーヴァは滔々と説いていく。
「このセカイの混沌は純度が高いものほど……私の力で形を与えられないものほど、未知の力を持つ。未知とは可能性だ。その混沌の抽出だけなら私でもできる。だが、その混沌は魔力ではない。魔力とは異なる可能性の力だ。だが、このセカイにある以上、私かお前に扱えないものではなかろう」
「その力をどうするの?」
「お前が人間に込めろ。その人間は魔力を多く持つことはできないが、代わりに魔力よりも可能性のある力を手に入れることができる。どんな力かはわからないが」
ディーヴァの話を生命の神が疑うことはない。というか、疑う必要はないのだ。嘘を言う必要がないのだから。
生命の神はこくりと頷いた。
「やってみる」
「よし。ただし、純度の高い混沌の抽出はそんなにたくさんできない。普通の人間のようにぽんぽんと使うなよ?」
「わかった」
素直に頷く生命の神をぽんぽんと撫でてやる。あ、とディーヴァは手を止めた。リーヴルの姿だから、思わず幼子のように扱ってしまった。ややこしいな、と苦い面持ちになるが、当の本人は気にしていないようだ。それどころか、「もっとやって」とねだるようなにこにこの甘えた笑顔をしている。
ディーヴァはなんなんだ、と思いながら撫でてやった。リーヴルに触れるのは初めてではない。リーヴルは魔力無効化能力を持つため、封印の檻も無効化することができた。親の愛を受けることができないまま使徒になったリーヴルは、ディーヴァが時折見せる母性を前に戸惑いを見せていたが。
「姉さん、あのね」
「なんだ」
「時々、この子の体を借りて、姉さんに会いに来ていい?」
会いに来るも何も、今までリーヴルの目を通してディーヴァのことをずっと見ていたのはバレバレだというのに。だが、今回のように突然リーヴルから豹変されるよりはましかもしれない。ディーヴァは少し躊躇ったが、了承した。
それでセカイが保たれるのなら。
それから、ディーヴァは封印されていた間に抽出した純度の高い混沌を生命の神に分け与える。
「これが……不思議な感じ」
「神の理解をも越え得る力だ。叡知とでも呼ぼうか」
「叡知……! かっこいい」
そうして人間は新たな力を手にすることとなった。