航海
ディーヴァが意識を取り戻すと、そこには誰もいなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
これでリーヴルはディーヴァのことを嫌ってくれたことだろう。もう二度と自分から会いに来ることはない。
ディーヴァは魔法の詠唱を始める。
『氷は熱を与えられると溶けるものだ。溶けて消えて水となり土に染み、やがてその土からは草木が芽生える。その巡りは奇妙で怪奇なものだが自然の理である。
いつか廻るときが来るまで、溶けることのない永久凍土を我は望む。叶えよ』
魔法と魔力が自在に操れる。確実にリーヴルはいない。欠陥のない氷の結界が築かれていく。
氷属性の魔法にしたことには理由がある。ディーヴァはどの属性の魔法も扱えるが、氷属性との相性が悪い。とはいえ、人間や魔族から見たら神の魔法などどの属性であれ別格なのだが。他の魔法に比べて魔力を余分に使ってしまう。それは小規模の魔法であれば大した差ではないのだが、ディーヴァは広範囲に魔法を使った。そうなると、余分に消費される魔力も比例して増えていく。
魔力を浪費できるなら、いくらでも使っておいた方がいい。ディーヴァが死から変換して得られる力は全て魔力となる。魔力の器の容量が空いていればいるほど、ディーヴァの復活は遠退く。セカイとしてはそれが望ましい。
氷属性の魔法を使ったことにはもう一つ理由がある。ディーヴァの展開した魔法は大規模なものだ。いくら広いとはいえ、マルクトの一部はこの魔法で溶けない氷が地面を支配する不毛の地となった。ディーヴァは平気だが、氷魔法の結界の余波である吹雪は生き物の侵入を阻むには充分なものだと言えるだろう。
もう、誰も来ないのだから、こうして閉ざしてしまえばいいのだ。そうすれば生命の神が依り代を使って会いに来ることもなく、リーヴルがここを訪れることもない。もう誰も来ないのだ。
寂しいということはなかった。最初からこうするべきだったし、こうあるべきだった。正しい姿に戻っただけだ。
ディーヴァは孤高であり、孤独であらねばならない。彼女を救いに来る者などいなくていいのだ。何故ならディーヴァは物語のヒロインではなく、主人公たちにとっては悪ですらある女神なのだから。
「主人公って、誰だ……」
ディーヴァは自分の不可解な思考に苦笑する。このセカイは物語ではないのだから、主人公は存在しない。生きる者にとって、生きている「自分」というものが絶対的な主人公で、誰でも主人公になれて、けれど誰も主人公になれない。他人からしたら、登場人物の一人にしかなれないのだ。主人公なんていやしない。
ああ、ただ……いつか、自分を殺しに人間がやってくるかもしれないな、とディーヴァは歩きながら思った。人間にしか扱えない特別な力を生命の神に預けた。ダートの使い手に選ばれた者はセカイにとっての主人公になるかもしれない。セカイの負の部分全てを司る女神を倒しに行く冒険譚。そういうものが生まれるかもしれない。
このセカイからディーヴァが消えれば、セカイは独立して世界になるのかもしれない。それはディーヴァの本望であるし、悪くないと思った。
ただ、それは困難だろう。ディーヴァは自らの死すらも糧とする。ディーヴァという神格の死は膨大な魔力となり、ディーヴァという存在を容易に復活させることができる。今のところ、回数制限などがあるようでもない。
今のままのセカイでは、ディーヴァを殺せないだろう。だからディーヴァは閉じ籠るのだ。
生命の神は殺したいほど憎らしいが、いくら対抗神だからといって、セカイの主神を殺してはいけないだろう。それで本懐が遂げられたとしても、セカイが存続できなくなるからだ。
「ああ、よかった。ここはやはり凍らなかったか」
ディーヴァが辿り着いたのはアビーメ湖だ。混沌がなくなって、透明な水がゆらゆらと揺れている。混沌、つまりは魔力に耐性があるため、この湖はディーヴァの魔法の影響を受けなかったのだ。ディーヴァがそのように加減したというのもあるが。
ディーヴァはこれからどれくらいかかるかわからない時をここで過ごすつもりだった。アビーメ湖の向こうには青い星が見える。その星のある世界にこのセカイは繋がっているのだ。
それなら、舟でも作って、向こうの世界まで漕いでいこうか、なんて考えていた。そう簡単に向こうの世界には行けないのはディーヴァも知っている。これは暇潰しの遊びだ。誰の邪魔も入らず、半永久的に、ディーヴァは馬鹿げた試みができるのだ。
もし、向こう岸の世界に着いてしまったら、なんて空想に耽るのがこれまた楽しい。舟を漕ぐのに飽きたら、水の上を歩いてみようか。泳いでもいい。面白おかしく過ごして、セカイのことなんて忘れてしまうくらいに楽しい時間を過ごそう。
ディーヴァは自由なのだ。
封印は枷ではない。元々孤独であることを運命づけられたディーヴァのための措置だ。ディーヴァがいなくて誰かが悲しくても、寂しくても、ディーヴァには関係がない。ディーヴァは独善的に自己愛に忠実に存在するのだ。それはなんて自由なことだろうか。
誰かのためだとか、セカイのためだとか、考える必要がないのは清々しい。それがディーヴァの本質なのだ。
リーヴルなんていなくても、よかった。
青い向こう岸は遠い。日が昇ったり、落ちたりすることのないアビーメ湖の空間には時間の感覚がない。おまけにディーヴァは神だ。何も口にしなくても死ぬことはない。そもそも死んだところですぐ蘇るため、生きとし生けるものたちの「死因」となるものの大抵がディーヴァには無意味なのだ。故に尚更時間の経過の意味が薄れていった。
小舟から水の中へ足をつけ、ぱしゃぱしゃとして遊んでいた。じんわりと肌に馴染んでいく冷たさが心地よい。
向こう岸には一向に辿り着かないが、収穫はあった。向こうから何かしらが流れてくるのだ。おそらくあちらの世界で不要になったか、過剰になったものだろう。
セフィロートの神でありながら俗世を知らないディーヴァとしては流れてきたものたちは面白かった。セフィロートと繋がっているあちらの世界には魔法がない。魔法がないため、魔物や魔族が存在せず、人間と動物のみで成り立っているらしいが、人間たちは魔法を夢想して、夢想したものを文字にしたり、絵にしたりして、物語として楽しんでいる。そういう夢の残骸たちが辿り着くようだ。
根が向こうの世界と繋がっているからか、異なる世界の言語であるはずなのに、ディーヴァは内容を理解することができた。セフィロートでは人間と触れ合うことができないから、人間がどういう嗜好を持つ生き物なのか、基礎として知れることが面白かった。きっとセフィロートの人間と同じではないのだろうが。
ディーヴァの眷属……魔物や魔族にこれらを教えてやるのも一つかもしれない、などと考えた。向こうの世界に行こうとはしているが、別にセフィロートが大切じゃないわけではない。
あちらの世界に辿り着きたいわけでもない。これはただの暇潰しだ。ディーヴァは暇を持て余していた。毎日話しかけてくるような物好きがいないから。セカイを知る術を自ら絶ってしまったから。
後悔はしていない。これでよかったと確信している。これ以上の最善をディーヴァは知らない。
「へえ、あちらでは海には海賊が出るのか。山には山賊……セフィロートには山がないからな」
ふふっと笑う。人間の創作物は面白い。いっそのこと、あちらに行った方がいいのではないか。
そんな考えがよぎったとき。
「ディーヴァちゃん!!」
「わっ」
後方から飛んできたものがものすごい勢いでディーヴァにぶつかった。ディーヴァは舟から突き飛ばされ、湖に落ちる。
自分を「ディーヴァちゃん」なんて呼ぶ存在をディーヴァは一人しか知らない。
舟に戻りながら、ディーヴァは愛おしむような、切なげな笑みを浮かべて、その人物を見る。
陽光を紡いだような金糸の中に白銀がちらついて、その姿は美しくもあり、寒々しくもあった。
「どうして来たんだ、リーヴル」
えぐえぐ、とその空からぼたぼたと雨滴をこぼす使徒はびしょ濡れの女神を抱きしめて告げた。
「ディーヴァちゃんを追いかけなかったら、ボクは後悔するから。ボクは、ディーヴァちゃんにいなくなってほしくなかったから」
リーヴルは泣き叫ぶ。
「だから、どこにも行かないで!!」
このとき、ディーヴァは後悔していた。
この子どもに出会うんじゃなかった、と。




