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0034.母の死と、少女の想いと

「……え?」

 自分の胸で泣きじゃくる少女。その口から出た、信じられないような言葉に、サーシャの表情は固まった。

「どういう……事ですか?」

 困惑と共に、サーシャはそれだけ訊ねた。しかし涙の止まらないエーデルは、何も答える事が出来ない。

「エーデル……貴女は私の本当の母を、知っているんですか?」

 サーシャは質問を変えた。エーデルは、こくんと頭を振る。

「……お母様の名は……アイリスでしょう?」

 涙に滲んだ声で、エーデルが問うた。

 サーシャは愕然とした。

「どうして、母の名を……」

 疑問を口にして、サーシャは思い当たった。

「まさか、母が働いていたのは……」

 エーデルは顔を上げ、サーシャを見る。その顔は涙でぐしゃぐしゃに歪んで、普段の気丈な彼女とは似ても似つかぬ弱々しさに染まっていた。

「――ええ。貴女の母、アイリス・スーウェルは、サンドライト家の使用人でした」

 それで一つ、話が繋がった。母のスープの味付けをエーデルが知っていたのは、きっと屋敷で作る機会があったからだろう。

 では、『殺した』というのは――

 サーシャはエーデルの肩に手を置き、その顔を正面から見据えた。

「……話してくれますか、エーデル」

 彼女の様子を見るに、きっと明るい話ではないだろう。ただでさえ実父との一件で傷付いている彼女に、話すよう求めるのは酷かもしれない。

 ただ、自分がこの話を聞かなければ、エーデルの心を癒す事はできない――サーシャは、そう確信していた。

 その想いが伝わったのか、エーデルは涙を拭うと、ふらふらと立ち上がった。

「……全て、思い出しました。だから話します。わたくしには、その義務がありますから」

 オルガに支えられるようにして、エーデルは椅子に腰掛けた。

 サーシャも、その対面に腰を下ろす。

 オルガとバルカスは無言のまま、ただ不安そうに二人を見つめていた。

「……アイリスは、わたくし付きの侍女の一人でした。幼いわたくしの身の回りの事は、全て彼女がやってくれていたのです――」

 落ち着きを少しだけ取り戻したエーデルは、サーシャの母の話を語り始めた。

「父も母も多忙であまり家にいなかったので、わたくしにとってアイリスはもう一人の母親のような存在でした。彼女は住み込みでなく通いのメイドでしたから、時間になると帰宅するのですが、わたくしはそれが悲しくて、帰らないでと裾に縋りついた事もありました」

 サーシャはじっと、エーデルの話に耳を傾けている。

「アイリスは、わたくしの話相手にもなってくれました。サンドライトの家しか知らないわたくしにとって、アイリスが教えてくれる外の世界の話は、どれも胸躍るものでした」

「……エーデルは、私の母が大好きだったんですね」

 口をついて出た言葉に、エーデルはまた泣きそうな顔をして――それでも、微笑んだ。

「……ええ。大好きでしたわ。でも――」

 そこで、エーデルは言葉を詰まらせた。しかし、話さなければならない。思い出してしまったのだから、彼女の娘に、伝えなければならない。

「――ある時、わたくしとオルフェリオス王子との婚約が決まりました。わたくしの生活が一変したのは、それからです」

 王子との婚約が決まった後、何としてでも無事に結婚まで至らせたいと願ったエーデルの両親は、娘が王子に気に入られるよう、徹底的に教育を施した。それまで娘に注いできた愛情など無かったかのように、度を越えた厳しさで接したのだ。それと同時に彼等は、王子の婚約者として相応しくないものを、娘の周りから一つ残らず排除した。

「……侍女達と遊ぶ事も、もちろん禁止されました。でもその時、わたくしはアイリスと約束していたのです。……一緒に、お料理をすると」

 エーデルは、唇を嚙み締めた。

「料理など当然、王子の婚約者に相応しい行いではありません。アイリスは申し訳無さそうに断ってきました。でもわたくしは、何度も何度も懇願し、彼女は『一回だけ』と了承してくれたのです。その時に二人で作ったのが、サーシャ、貴女が今日作った料理と同じ物ですわ。ですが――」

 エーデルの目に、再び涙が浮かぶ。

「アイリスと料理をした事をお父様に知られてしまい、わたくしは罰として三日間、地下室に閉じ込められました。そして地下室から解放されたわたくしが、お父様から聞かされたのは――アイリスが解雇された事、そして……解雇された日の夜、ライネ川に身を投げたという話でした」

 この時までは、まだ何処かで、自分は両親に愛されていると、いつかあの、優しく穏やかな両親に戻ってくれる日が来ると、エーデルは信じていた。

 しかし、彼女にとってもう一人の母に等しい女性の死を、眉一つ動かさず語る父の姿に、幼い少女の想いは、粉々に砕かれた。

「…………そんな」

 サーシャが、か細い声で呟く。

「私は母が、事故で亡くなったと聞いて……」

 エーデルはサーシャの言葉を遮り、大きく首を振った。

「違うの! わたくしが! わたくしがわがままを言わなければ、アイリスはあんな事にならなかった!」

 悲痛な叫びと共に、再び涙をこぼすエーデル。

 サーシャは無言で立ち上がると、出来上がったスープを器に注いで、エーデルの前に置いた。

「……サー、シャ?」

 そして、呆けたようにこちらを見ている少女の隣に座ると、彼女を包み込むように、ぎゅっと抱きしめた。

「安心してください、エーデル。私の母は、確かに仕事に誇りを持っていたと思います。でも、その仕事を辞めさせられたからと言って、幼い子を放って死ぬような、そんな弱い人ではありませんでしたから」

 きっと何かの間違いだと、他に理由があったに違いないと、サーシャは自分に言い聞かせるように、少し震える声で続けた。

 サーシャは一旦話を切り、大きく息をついてから、再び口を開いた。

「……私も、母とした話はよく覚えています。母が働いているところには、私と同い年の女の子がいて、母はその子と、とっても仲良しなんだって」

 嗚咽を上げるエーデルに、サーシャは優しく語りかける。

「母も、その子が大好きだって言ってました。それを聞いて私、嫉妬した事もあったんですよ? おかしいですよね、会った事も無い子相手に」

 そして、エーデルの頬に手を添えて、こちらを振り向かせた。

「いつも独りで母の帰りを待っていた私は、いつかその子と友達になるのが夢でした。――エーデル。貴女は、そんな小さい私の夢を叶えてくれたんです。だから私は何があっても、貴女に罪があるとは思いません」

「でも……でも……!」

 サーシャに抱かれたまま、エーデルはかぶりを振る。

「――だから貴女にも、私の母を信じて欲しいんです。私やエーデルが悲しむと分かっていて死を選ぶなんて、母は――アイリスはそんな事、絶対にしない、と」

 エーデルは、そこでようやく気付いた。サーシャの顔が青ざめている事、そして早鐘のような鼓動が、自分ではなく彼女のものだと言う事に。

 実の母の死が、この少女の心の傷でないはずがなかった。それでもサーシャは取り乱しもせず、エーデルの事を一心に思い、気丈に振舞っているのだ。

 エーデルは、おずおずと首を縦に振った。

 サーシャの意見を、完全に受け入れた訳ではない。母を失った幼い少女が少しでも傷付かないよう、事故という事にして彼女に話した――そちらの方が、ずっと自然な流れだ。

 でも……それでも。

 サーシャが差し伸べてくれた手を。その言葉を。

 信じようと、エーデルは思った。

 エーデルの頷きに、サーシャは安心したように頬を緩め、

「これからもずっと、私と友達でいてくれますか?」

 微かな声で訊ねた。

 言われたエーデルは、何度も首を縦に振る。

「そっ、そん、なのっ……当たり、前、ですわ……!」

 頬から流れ落ちる涙。再びそれが溢れ出すのは、悲しみの為ではなく、サーシャの優しさと強さに触れたからだった。

 サーシャは潤んだ目を細め、満面の笑顔を返すと、

「じゃあ、冷める前にスープを食べましょう。きっと、元気が出ますから」

 テーブルの器を手に取って、エーデルに差し出す。

 器を受け取ったエーデルは、スプーンも使わず、そのまま口に流し込んだ。

「! エーデル、そのままでは熱い――」

「お゛い゛じい゛、でずわ゛……!」

 顔中をくしゃくしゃにしながら声を絞り出すエーデルに、サーシャはまた、笑った。

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