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0020.見えざる手

 久々の授業に心を躍らせながら、エーデルは板書の文字を追っていた。

 エーデルは、魔術が好きだった。

 幼くして王子の婚約者としてあるべき姿を決められた彼女には、学びの選択肢など与えられはしなかった。馬術、舞踏、王国史、王政学――その中でたまたま、相性が良かったのが魔術というだけではあったが。

 この世界において、魔術とは万能の奇跡ではない。0から1を生み出す驚異ではない。

 ただ、目には見えぬ『手』を以て、必要な物を必要なだけ、かき集める。その帰結が、火球であり雷撃であった。

 魔術を使用する者は皆、その『見えざる手』を用いて術を作動させる。その『手』は、肉体としての手では掴めない物を掴み、動かす事が出来る。必要なだけの熱量を集めれば炎を起こし、土を集め固めれば土人形を動かせるといったように。

 だが、あくまで『見えざる手』は集めるのみである。魔術の行使に必要な材料が集められる範囲に存在しなければ、その『手』も文字通り、お手上げだ。

 だから魔術の才は、ほぼ魔力量――これはつまり『見えざる手』の大きさである――によって判定される。

 その『手』が大きければ大きい程、より遠くから、より大量に材料を集められる。そして、『手』の大きさは生まれた時に決まり、訓練によってその大小を変える事は不可能である。ちょうど、誰も自分の背丈を自分の意志では変えられないように。

 エーデルの『手』は、魔術の使用が許される貴族の中でもかなり小さい方だった。朝、こちらに食ってかかった令嬢が口にした言葉も、決して誇張ではない。


 しかしそれでも、エーデルは魔術の学びを諦めはしなかった。

 魔術を学ぶ他の者と同様、『見えざる手』を自らの手と同一に扱えるよう、幼い頃から日々、鍛錬を続けた。

 才能が無くとも楽しいものは楽しいのだし、何より――小さな『手』でも、やれる事はあるのだから。


 事が起こったのは、二限目が終わった後の小休憩の時だった。

 サーシャと共に休憩室で紅茶を味わっていたエーデルの元に、取り巻きを連れた男子生徒が寄って来た。

「……才無き者が、どうしてここに戻ってきたのかね?」

 ダゴネット・マイヤーホフ――エーデル達と同じクラスの上級貴族だった。彼もまた上級貴族『らしい』不遜な面立ちで、やや大柄な身体もそろそろ脂肪に覆われつつあるように見える。

「お久しぶりですわ、ダゴネット様」

 横柄な態度にも眉一つ動かさず、エーデルは席を立ってダゴネットに礼を向けた。ちなみに、テーブルの対面に座るサーシャは、しっかりと眉間に皺を刻んでいる。

「わたくしがここに戻りましたのは、殿下とサーシャ様の御慈悲によるものでございます」

「慈悲? 何を言うか、逆だろう?」

 性悪そうに口元を吊り上げて、ダゴネットは笑った。

「皆が話している。殿下はお前を平民にするだけでは飽き足らず、更なる恥辱に塗れさせる為に、わざわざ平民の下女として学院に連れ戻したのだとな」

 そこで、我慢の限界だったサーシャは、椅子から立ち上がる。

「ダゴネット様、もうお止め下さい! それ以上は私やエーデルだけでなく、殿下をも侮辱する発言です!」

 しかし、ダゴネットは気にした様子も無い。ただ取り巻きと共に薄ら笑いを浮かべ、エーデルに向かって人差し指を突き出した。

「エーデル。この俺と魔術で勝負しろ」

 突然の物言いに、エーデルは首を傾げた。

「……どうしてでしょうか?」

「何、才能も無いのにこの学院にわざわざ戻ってきたお前に、現実を突き付けてやろうという俺の親切心だ。まさか、拒否するとは言うまいな」

 魂胆は分かっていた。魔術の才に乏しいエーデルを打ちのめし、皆で笑いものにしてやろうという腹積もりだろう。

 ――まったく、どうしてこう貴族という者は精神的に幼い人間ばかりなのか――内心で呆れつつ、エーデルは事務的に返答する。

「折角のお言葉ですが、今のわたくしはサーシャ様の侍女。主人の許しなく勝手な真似は出来ませんわ」

「……当然、エーデルにそんな危ない事はさせられません。どうぞ、お引き取りを」

 二人の言葉に舌打ちして、

「おい、行くぞ」

 ダゴネットは取り巻きと共に背を向けた。

「……腰抜けどもが」

 ありふれた捨て台詞に肩をすくめて、エーデルはサーシャに向き直る。

「はあ、困ったものですわね――」

 と、エーデルはその言葉を途中で止め、サーシャを見つめた。

 サーシャは、目に溢れんばかりの涙を溜めていた。

「サーシャ……様……」

「ごめんなさい、エーデル……っ」

 サーシャは手で涙を拭いながら、嗚咽を漏らす。

「私……貴女が馬鹿にされるのが悔しくて……」

「大丈夫ですわ。皆、すぐに飽きて、わたくしの事など誰も気にしなくなります。少し我慢していれば良いだけですもの。お気遣いはご無用です」

「でも……でも……!」

「そうそう。今日のお昼、おかみさんとバルカスさんがランチを持たせて下さったのですよ。貴女の分もありますから、一緒にいかがですか?」

 サーシャの気を少しでも紛らわせようと、エーデルは彼女の食いつきの良さような話題を持ち出した。

「……ありがとう、ございます」

 まだその瞳は潤んでいるが、どうにか落ち着いたらしい。

 さすが両親の手作り料理――と、その効果にエーデルは驚愕したが、サーシャが涙を止めたのはエーデルの優しさに触れたからだと、当の本人は気付いていなかった。

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