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0009.招かれざる客

 こうして、エーデルの平民としての日々が始まった。

 街の人々に受け入れられるかという不安も、とりあえずは杞憂に終わりそうだった。

 どうやら、エーデルがサーシャを苛めていた事を知っているのは、オルガ夫妻だけのようだ。客として店にやって来る人々は、概ねエーデルに悪意は無さそうだった。

 たまに睨み付けてくる客もいるにはいるが、それはエーデルの『元貴族』という肩書のせいだった。平民の中には、貴族に不満を持つ者が大勢いる。いくら今は平民と言えども、貴族であった過去に反感を覚える人間がいるのは仕方ない事だと、エーデルは特に気にしなかった。

 ――ただ、バルカスとの仲は、相変わらずだった。

 バルカスは、明らかにエーデルを避けていた。会話など起こりようもない。さすがにこのままではオルガにも申し訳ないと、エーデルは思案を続けていたが、打開策は見つからぬまま、日々は過ぎていく。

 一週間が過ぎ、仕事にも慣れてきた頃――招かれざる客の来訪は、酒飲み達で店が騒がしくなる、そんな時だった。

「まさかとは思ったが、本当に平民になったとはな!」

 店に入ってきた男の大声に、それまで賑やかだった店内は、ぴたりと静かになった。

 平民の食堂には似つかわしくない豪奢な服装、背後に控える二人の護衛。

 間違いなく、声の主は貴族であった。そして、優男然とした顔付きに嫌味な笑みを浮かべるその男に、エーデルは見覚えがあった。

 盆をカウンターに置くと、エーデルは男の前に歩み出た。そして貴族の所作で、うやうやしく首を垂れる。

「お久しぶりです、テーゲルンド様。本日は、こんなところに何用でしょうか?」

 テーゲルンドと呼ばれた男は何も答えず、突然エーデルの頬を思い切り打ち据えた。

「――あっ!」

 倒れ込みそうになるエーデルを、慌てて駆け寄ったオルガが抱きかかえる。

「あんた、いきなり何するんだい!」

 テーゲルンドの理不尽な暴力に、客の男達も我慢出来んとばかりに立ち上がる。が、テーゲルンドの護衛達が剣の柄に手をかけ、それを阻んだ。

「……おかみさん、大丈夫ですわ」

「あの貴族、あんたの知り合いかい?」

「ええ、以前に求婚されて、断った事が三回ほど」

「はあ? だってあんた、以前はオルフェリオス王子と……」

「ええ、そうなのです」

 エーデルは再びテーゲルンドの前に立つと、ため息混じりに言った。

「何度も申し上げた通り、わたしくが貴方様の求婚を断ったのは、既にオルフェリオス殿下と婚約していたからです。……もしや、わたくしが平民になったのを知り、改めて求婚にいらしたのですか?」

 エーデルの言葉に、テーゲルンドは笑いを上げた。

「ははははは! 馬鹿を言うな! 平民に成り下がったお前に、何故求婚などせねばならぬ? もはやお前に価値など無いのだからな!」

 その言葉に憤ったのは、オルガだった。

「あんた! それが三回も求婚した相手に言う台詞かい!」

「おかみさん、落ち着いて下さいませ」

 エーデルに止められるも、オルガの怒りは収まらなかった。

「いいや、言わせてもらうよ! エーデルの事、好きだったから求婚したんだろ!? それを黙って聞いてりゃ、貴族でなくなったからもう価値が無いなんて……いい加減にしなよ!」

 怒鳴られたテーゲルンドは、しかし口元を歪め、

「無礼な平民よ、笑わせる事を言うな。私がこの女を好きだと? そんなはずがなかろう」

 呆れた様子で首を振った。

「何だって……?」

 意味が分からないとばかりのオルガに、エーデルが言った。

「この方は、わたくしに惹かれて求婚したのではないのです。この方が欲したのは、わたくしの家――サンドライト家との繋がりですわ」

「そう! 私は誰あろう、ファーリントン領主であるコートルード家の長男である! 王都の交易において重鎮であるサンドライト家と繋がりが出来れば、ファーリントンを更に発展させられる――そう考えて求婚したに過ぎぬわ!」

 怒りに歯を嚙み鳴らすオルガ。エーデルは静かにかぶりをふる。

「残念ながら、貴族における結婚とは、一族の利権を確保し繫栄させる目的で行われる場合がほとんどです。愛し合う者同士が結ばれるなど、滅多にはありません」

 そう。だから平民に落ちたエーデルに価値を認めないという発言は、貴族のものとしては当然だった。

「しかしテーゲルンド様、ならば何故、ここにお立ち寄りになったのでしょうか。おっしゃる通り、わたくしは既に平民の身。わたくしと顔を合わせる理由などございませんでしょう?」

「あるのだよ、大きな理由が」

 テーゲルンドは一歩、踏み出すと、エーデルに指を突き出した。

「――謝罪せよ。私に対する今までの非礼をな!」

 エーデルは、胸の中で嘆息した。

 この男はそんな事の為にわざわざ、ファーリントンから馬車を飛ばして王都までやって来たのか。

 謝罪を拒否するのは簡単だ。だが、そうすればテーゲルンドはこの店や、店内にいる人々に何をするか分からない。エーデルに、選択肢は無かった。

「……これまでのご無礼の数々、どうぞお許し下さいませ。テーゲルンド・コートルード様」

 可能な限りの誠意をもって、エーデルは許しを乞うた。

 その姿を見たテーゲルンドは、にたりと下卑た笑いを浮かべ、

「謝罪の仕方が違うなぁ?」

 エーデルの頭を鷲掴みにすると、そのまま床に叩き付けた。

「あうっ!」

「平民が貴族に謝るのなら、相応の礼儀が必要であろう? さあ、やり直せ!」

 エーデルは座り直すと、額を床に付け、口上を繰り返した。

「……どうぞ、お許し下さいませ」

「はははははははっ! そうだ、これが見たかったのだ! 私に屈辱を味わわせた女が、地べたに這いつくばって許しを乞うている! お前にはもう、サンドライト家の威光も、王子の庇護も無い! 下等な、へ――」

 言い終える前に、テーゲルンドの身体は床に叩き付けられた。

「……これ以上の無礼は見過ごせませんな、貴族殿」

 何が起こったのかと顔を上げたエーデルは、自分の前に拳を握ったバルカスが立っているのを見た。三白眼を吊り上げ、眉間に深く皺を刻んだ憤怒の形相は、普段の無表情からはかけ離れていた。

 殴ったのだ、貴族を。怒りのままに。

 主人の危機に、護衛の二人は剣を抜――く前に、主と同様、拳を顔面に受けてその場に倒れ伏した。

「き、貴様……自分が何をしたのか分かっているのか!? 私はコートルード家の長男だぞ! いずれはファーリントン領主となる男だぞ! そ、それを、殴りつけるなど……」

 頬を抑えてわめくテーゲルンド。バルカスはその襟首を掴んで、乱暴に持ち上げた。

「ひっ、ひぃぃっ……!」

 怯えるテーゲルンドの耳元に、彼にだけ聞こえるような低い声で囁く。

「……うちの『娘』に、これ以上近寄るな」

 テーゲルンドはその手を振りほどくと、護衛に向かって声を張り上げた。

「お、お前達! 何をしている! 行くぞ!」

 よろめきながら立ち上がった護衛と共に、テーゲルンドは足早に店を出る。

「か、必ず、後悔させてやるからな! この下賤な平民どもが!」

 それだけ言って、さっさと馬車に乗り込むと、そのまま去ってしまった。

「……やれやれ」

 事態を見守っていた客から、大きな歓声が巻き起こった。

 バルカスはエーデルの元まで来ると、

「……大丈夫か?」

 その手を取って、立ち上がらせた。呆けた表情のままだったエーデルは、はっと気付くと、

「な……何をしているんですの、貴方はっ!」

 バルカスを、大声で怒鳴りつけた。

「せっかく事を荒立てないよう、わたくしが頭を下げておりましたのに! ま、まさか貴族を殴るなんて! あの男は、何をしてくるか分かりませんのよ!?」

 助けた少女に物凄い勢いで怒られて、バルカスは困り果てた。

 その様子に、今度は笑いが上がる。

「貴方達も、何がおかしいのですか!」

 すると、店の奥に座って飲んでいた老人が、エーデルの前へとやってきた。

「……嬢ちゃん。あんた立派だなぁ。いくら貴族とはいえ、普通、あんな態度取る奴に、頭なんて下げられねぇよ。……なあに、大丈夫さ。あの貴族さん、わざわざどこの誰かまできっちり言ってくれたからな。悪いようにはならないさ」

「それは、どういう……?」

 首をかしげるエーデルを横目に、バルカスは老人に話しかけた。

「親方。上手く収まりそうか?」

「ああ。コートルードは話の分からん相手じゃない。あんな馬鹿息子がいるとは知らなかったがな。早文を出しておくから、それで丸く収まるだろうよ」

 二人の会話は、エーデルには全く理解ができなかった。

「お二人とも、一体、何をしようとしているのです……?」

 老人は、にやりと笑って言った。

「安心しな、嬢ちゃん。平民には、平民の武器ってものがあるのさ」


 店での騒ぎから三日後、エーデルの元に、一通の手紙が届いた。

 差出人は、あのコートルードだった。

「お、ようやく来たかい。読んでみな。多分、びっくりすると思うよ」

 オルガに言われるまま封を開けると、書かれていたのは今回の件についての謝罪と、互いの行為を不問に付す事を希望するという文言だった。

 信じられないとばかりに、エーデルはオルガに問いかけた。

「あの親方、何者ですの……?」

「親方は、金細工職人の元締めさ。と言っても別に、貴族を黙らせるような力を持ってる訳じゃないよ。ただ、ここは王都の職人街でね、親方に限らず、貴族と取引してる奴は山程いるのさ」

「なるほど、平民であっても交易を行う相手であれば、貴族といえど不躾な対応は出来ないと――そういう事ですか」

「察しが早いねえ。ファーリントンの貴族には、ここらで作ってる銀食器が人気だっていうし、逆にファーリントン特産のライ麦は、あたしら平民の重要な食料だ。だからまともな貴族は、わざわざ平民街に足を運んだりしないのさ。取引先と無駄ないさかいを起こしても、お互いに得なんか無いからね」

「……そういう事だ。心配をかけたな」

 バルカスも、ぶっきらぼうに言葉をかける。しかしその声色には、エーデルへの親愛が微かに含まれていた。

 エーデルは感服した。それと共に、平民は貴族に虐げられるだけの存在だと、心のどこかで思っていた自分を恥じた。

 平民は自由に、そして、したたかに生きている。

 それは、何と素晴らしい事だろうか――

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