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道先

道先9

作者: 卯月猫

葉書 帆乃紀(はがきほのき)の時短とまわり道



「今何時になったんだ……」


 壁掛けの時計を見やる。ぼんやりして視界が霞んでいる気がする。

 机に仕舞っていた非常食のカップラーメン塩味を取り出して食べようかと悩む。

 ガチガチに固まった腰を伸ばすと背がボキボキと音を立てた。


「あ~、俺も歳だな」


 嫌になるな、と思いつつ席を立ち誰も居ないオフィスを後にする。

 給湯室からは明かりが漏れていて、こんな時間に誰が。と覗くと女性社員と目が合う。

「桜井」

「あ、葉書部長!! お、お疲れ様です」

 声を掛けると弾かれたように顔を上げた反動で、持っていた珈琲の粉がバサバサとカウンターに落ちた。

「あわ、あわわ」

「お疲れ。何してるのこんな時間まで」

「いえ、あの、すみません。もう帰ろうかと思ったのですけど、葉書部長が残って作業されていたので……その、ご迷惑かもしれませんが、お茶か珈琲でもお持ちしようと思っていました」

「うーん、気持ちはありがたいけどなぁ、女性がこんな時間に帰宅は色々と危ない。そうだなぁ、あと小一時間で片付くから、少し待ってもらえるか? 送っていく」

「い、いえいえ! そんなっ。私なんて大丈夫ですから! その、お気になさらず……」

「この後誰かと会う約束や、他に予定が入っているなら無理にとは言わない。だが帰宅するだけなら送らせてほしい」

「あ、あう、でも……かえってご迷惑をおかけ……」

「桜井の自宅、俺の自宅付近だったろう。あの辺りは街灯少ないから尚の事一人は危険だ。ついて来られるのが嫌なら近くまででいい」

 下を向いてもじもじとするような仕草を続けるが、ぐっと顔を上げる。

「わ、わかりました。よろしくお願いいたしますっ」

「よし、なるべく早く終わらせる」

「あ、あの! 珈琲とお茶は……」

 給湯室を出て行こうと踵を返した背に声が掛かった。

「珈琲を頼む」

 よろしく、と返答を返すと桜井はパっと破顔してすぐお持ちします! と改めて準備にかかったようだ。

 さて、俺はとっとと残った仕事を片づけてしまおう。カップ麺はまたで良い。と納得させながらまたデスクへと戻る事とした。

 

 繫忙期とは、どの会社にもある事だが、今期は断トツで忙しい。

周囲からどんな目で見られようとも、定時上がりと言うスタイルを貫いた新卒時代から、部下を持つようになってもそのスタイルを継続する事20年目の俺は、初めて残業と言う物を行っている。

 それと言うのも、今年入った大型新人が営業の成績をこれでもかと伸ばしているお陰である。

 営業の部署とは殆ど合う事が無い位置にあるにも関わらず、そいつは新卒でただ一人、全ての部署に顔を出し挨拶をして回ったと言う。今までに居なかったタイプの新人である事は確かで、営業の成績は最初から誰よりも飛ばし、会社の中心でふんぞり返った古株達をどんどん追い抜いていった。

 彼らが苦虫を嚙み潰したような表情を向けてもどこ吹く風で、嫌味も嫌がらせも全て意味を成さなかったらしい。

 一度だけ、自販機で一緒になった事があり、思わず声を掛けてみた。

「葉書部長! ご活躍、感銘を受けております!」

 開口一番がその一言だった事に驚きを隠せない。

 彼とは、挨拶にと顔を出した時のたった一度きりしか顔を合わせていないはずだ。

「お疲れ様、君の活躍こそ凄いな。どの部署でも君の話題で持ち切りだぞ。我が社で追随を許す者はもう居ないだろう」

「ありがとうございます! まだまだ出来る事がある筈なので、これからも尽力していく所存でございます」

「少し、話をしても構わないか?」

「はい、喜んで!」

「ありがとう。君は、この会社での仕事が楽しいか?」

「はい、楽しいです。人脈を広げる事は今、僕のやるべき一番の仕事です。

……私事ながら、父と外国で暮らしていたのですが【残業は恥】だと教わりました。

 しかし、この日本において、残業をしないと言う選択肢があまりにも無い。寧ろ、残業を長時間する程偉い。会社の為に生きていて、自分の生活の全てを捧げてなんぼ……そういう会社を多く目の当たりにしてきました。国が違えば考え方など大きく変わる事を学びましたが、僕はやはりプライベートが大切です。一度しか無い人生を必要以上に会社で費やす事は無いと言う考えでした」

「うん、そうだな。君がそう思うのなら、それを大切にする事が大事だ」

「はい、そんな中で噂を聞いたのです」

「噂?」

「新卒で入った男が必ず定時で帰るスタイルを崩さず勤続し、今や上役にまで上り詰めたと言う話です」

 それは、俺の事だな、とこめかみをポリポリと掻く。

「葉書部長、あなたです。僕の理想に一番近い人がこの会社に居るなんて驚きと同時に強い憧れを抱きました。一つの姿勢を組織の中で貫く事は容易ではありません、ですから同じ所では意味が無い。別の仕事であっても、憧れの人が社内のどこかで共に働いているのだと思うと凄く頑張れるんです! 」

 あー、よくまぁ、口が回る。殆ど初対面に近いような距離だと思っていたが。しかし、向けられる眼差しと言葉に嫌な気がしないのが参る所である。

 なかなかガッツの弱いタイプが多い中で、確固たる意志の元で仕事をこなしている姿勢は大変好ましい。今や、こう熱のある若者も少ないだろう。

【ガンガン残業最盛期】を超えて来た自分は、多少根性論が出てしまう事もあるが個人を否定し潰すような物言いはしないようにしている。又、帰宅は定時で率先して自分が先に出る。

 新人配属の際は、残業にならないよう気を配りつつ作業を行う。

 俺は俺のスタイルで、と嫌な顔をされてきても姿勢を崩さなかった。それを初めて、【憧れです】と言葉にされて受け、何だかむずがゆい心地がした。



 今回、初めて姿勢を崩さなければならなかったが、あいつが頑張っているのなら俺も負けていられないなと思った。だが、部下には必要以上に残業はさせない。掴んで来た先を潰さないようこちらはこちらのやり方で動いていかねばならないのだ、そしてそれを采配していくのは自分であり、腕次第と言う事にもなる。

 

「さて、彼女もこれ以上遅くさせられない。もうひと踏ん張りやりますか」


 意気込んだ所で、桜井が珈琲を持ってきてくれた。

 途中、彼女も作業し始めたので無理はするなと伝え「出来る所まで」と言う約束で共に作業を進めていった。

 黙々とこなしながらも、業務について幾つかの質問などをやり取りしながら残ってしまった作業を片づけ、やっと帰路へとつく。

 道中、他愛もない話をしながら歩いていくと、途中の公園で珍しく夜泣きそばの屋台が車を停めていた。

 もう少しで彼女を送り届けられる、と言う所で腹の虫がぐぅうと盛大に鳴く。

「す、すまん」

「葉書部長は……夜泣きそば、食べた事がありますか?」

「うん。あるぞ、この時間はかなり罪だがな」

「……も、もしよかったら一緒に……っ」

「え、寄って良いのか? 実は結構腹が限界でな」

「私、初めて食べます!」

「今は珍しいもんなぁ、よし食ってこう」

「はい! あ、お代任せてください!! 送って頂いたお礼に!」

 オフィスに居た時とは明らかに挙動が変わったと思うが、更にお礼などと言うので思わず目を丸くした。

「ははは、桜井。部下に奢られる上司がどこに居るんだよ。気持ちだけ受け取っておく、遠慮なく食ってくれ」

「そそそ、そんな訳にはいきません!! あ、居ました。前の職場の上司がよく飲みに行こうと声を掛けて来るのでお付き合いしていたのですが……これでもかとお酒飲んで、最悪寝ちゃうのでいつも私が払っていました。……そう言えば、飲み代のお金一度も返ってこなかったです」

「……なんだそりゃ、すごい人間が居たもんだな……」

「新卒で入った所でしたが……私あまりにも無知で、折角入れてもらった会社で頑張らないとと張り切っていたもので怪しいなんて欠片も思えなくて、お金はもう返ってこないですがあの人と縁が切れたので今は万歳です」

「桜井も結構根性あるなぁ、よし、2杯でも3杯でも好きなだけ頼め頼め!」

「そ、そんなに食べられませんっ」

 笑いながら屋台の親父に声をかけ、一先ず一杯ずつ頼む。

 出された一品は空腹にダイレクトに効き、スープの旨さに思わず桜井と顔を見合わせ、黙々と啜りあっという間に一杯目を食べ終えてしまった。

「……桜井、もう一杯いけるか?」

「……葉書部長、喜んで」

 よし、と頷き合って屋台の親父を見ると言葉を発さずに親父は黙って首肯で応じた。

 この親父、やる奴だ。

 一度水で口をリセットしてから、2杯目に取り掛かる。

 旨すぎた、ペチャクチャ喋るような暇も無く、こしのある麺は程よい弾力で、よく利いたスープの出汁が疲労を感じた体隅々まで行き渡りが喜んでいるような気すらした。


…………

………

……


 

 ごちそうさまでした、と何度も頭を下げる桜井を玄関まで送り届け、来た道を引き返して自宅へと帰ってきた。

 初めての残業を経験し、帰りも思わぬ遠回りにはなったが、久方ぶりの夜泣きそばは温かく非常に旨かったなぁと満足感に包まれて一日を終えたのだった。


夜泣きそば、いいなぁ。

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