勇気と涙 二
いくら議事録を取っていないとはいえ、議決を恣意に曲解して伝えるなどまともな行動ではない。
しかし、皇帝が不在の今、鶴妃の不安をあおり自分だけを頼るように仕向けさせねば烏臣の野心は画餅になってしまう。
「それで、陛下はそうした者達が騒ぎを起こすであろうと考えて、あえて国から姿を消したのですか?」
「御意」
烏臣の答えに、鶴妃は沈痛な表情を隠さず考え込んだ。
「では、なぜ今すぐにでも叛逆を起こさないのでしょう?」
「はい、好機がまだ到来していないと踏んでいるのでしょう。不肖、この烏臣めにお命じ下されば、すぐにでも叛逆者をあぶり出してご覧に入れます」
実は自分がそのつもりなのだが、ぬけぬけと言い切るところが烏臣の狡猾さだった。
「それで、議会としてはどう対応するつもりなのですか?」
「はい、畏れながら、今一度皇后陛下よりお使いを出されて皇帝陛下のご胸中を確かめられたく存じます」
鶴妃は、筋が通っているようで、いないような、妙な気分になった。
今まで、夫婦で隠しことは一切無かった翔翼である。それに、自分の代政でまとまりかけていた……ように報告を受けていた……議会が、どうしてこんな結末になったのか。
「わかりました」
と、しか答えようのない鶴妃であった。
「では、わらわが良いように計らいます」
「ははっ。まことに、恐れ入ります」
烏臣は、頭を下げてから、そのまま退室した。
鶴妃も玉座にじっとしているつもりは無かった。侍女達から意見を聞かねばならない。
こんな時のために、鶴妃は一流の教育を彼女達にして来たつもりである。『こんな時』など来ないに越したことは無かったのだが。
皇后の元を辞した烏臣は、当然、家に帰らねばならなかった。そこで、嫌でも娘についての問題を解決せねばならない。
政治に没頭している間は忘れていられても、帰宅すればシビアな現実に直面せねばならないのが彼の現状だった。
「お帰りなさいませ」
門を開けると、執事が出迎えた。
「妻はどうしている?」
上着を預けながら、烏臣は聞いた。
「お部屋でお休みです」
上着を畳みながら、執事は答えた。
「そうか。今日は食事はいらぬ。下がって良い」
「かしこまりました」
執事の姿が見えなくなってから、烏臣は妻の寝室に向かった。
ドアをノックしようとして、止める。寝ていれば、起こすのも悪かった。取っ手を確かめると鍵はかかっていない。音がしないよう、ゆっくり開けて中に入る。
雉美は、着のみ着のまま寝ていた。
枕元のサイドボードには、中身が半分ほど減ったワインボトルと、空のグラスが置いてあった。
なにかしてやるべきかと思ったが、なにも思いつけない。思案に暮れる内に、控え目なノックが聞こえた。
「なんだ?」
「旦那様、公安局の郭公様がおいでです」
この上また陰鬱な固有名詞だった。
「今日は会いたくない」
子供のわがままめいた台詞を、つい口にする。
「どうしても、との仰せにございますが、いかが致しましょう」
つい、声を荒げたくなったが、雉美を起こすのはまずかった。
「居間にお通ししなさい」
「かしこまりました」
烏臣は、結局、妻の顔を少しの間じっと見つめただけで部屋を出た。
疲れきっている宰相とは対照的に、目に輝きを増し、力のみなぎった口元で、郭公は型通りに挨拶した。
「娘のためにここまで骨を折らせてしまい、申し訳ありません」
本当は、こんなときになんの用だ、とどなりつけたいぐらいだ。不肖の娘の父としてそれは出来ない。
「いえ、職務ですので。それで、まさにお嬢さんの件なのですが、身柄を保護する有効な方法を考え出しました」
「ほう!?」
さすがに、括目せざるを得ない。
「いや、しかし、この方法は、確実な変わりに少々危険がありましてね」
「そ、その危険とは……」
燕郎のいる官邸では、もはや定番となった鳶彦との話し合いが行われていた。
「やはり」
と、言ったきり燕郎は黙り込んだ。言うべき台詞が見つからないのではない。興奮し過ぎて言葉に詰まっているのだ。
「うむ。予想通り、否、計算通りの反応だ」
「しかし、これほど仕掛けがうまくいくとは思いませんでした」
燕郎の提案に鳶彦が反対するのは、ただのヤラセだった。烏臣の真意がどうあれ、それを確定し、さらには自分達が主導権を握るための演出に過ぎない。
「後は、鳩紫殿と示し合わせて……」
鳶彦が言葉を切ると、燕郎は、うなずいて笑った。少し引きつっているが、緊張と興奮が過ぎるせいだろう。
鳩紫が再び使いに立つのはわかりきっていた。わざわざ違う人間を選ぶ意味がない。
それを烏臣が逃す筈は無い。鳩紫を途中で暗殺するか、報告を握り潰そうとするか、改竄するか。必ず動きを見せる筈だ。そして、『非常時』を宣言し、元老院の無期限閉鎖、ならびに帝室の白紙委任状を取りつけるだろう。
鳩紫を生き証人として、または彼女の死の真相を追求した結果として、叛逆者・烏臣は糾弾されるであろう。冷酷な表現をするなら、鳩紫は囮であり生贄であった。
かつての幼馴染を政治に利用する。燕郎に後ろめたさがない訳ではない。
国政には犠牲はつきものだし、自分だけ安全な立場にいるつもりもない。
既にして元老院での彼は目立ち過ぎていた。烏臣の警戒心も、そろそろ頭の中だけではすまなくなるに違いない。それに、鳩紫が必ず死ぬとは限らないではないか。
一方の鳶彦は、早くも冷静さを取りもどしている。燕郎ほどには明確な理念や方針を明らかにしていない。燕郎も深くは追求はしていなかった。
「公安局にはいつ話しましょうか」
「今はまだ早いな。それより、鳩紫殿への働きかけはしっかり頼むぞ」
燕郎は大きくうなずいた。それを、鳶彦は黙って見ていた。




