人間たちの現代 三
そこでまた、目の前の風景がいきなり変わった。
さっきと同じ草原になった。鳥は二羽いる。一羽は翔翼で、もう一羽は鳩だ。翔翼よりは小さな体をしている。
鳥たちだけでは無かった。
目の前に、自分と同い年ぐらいの女の子が倒れている。
『な、なんですかこれ!?』
さすがに味鋤は仰天した。
『慌てずとも良い。お前の精神の世界に別な来客が現れたに過ぎぬ。害はない。ところで鳩紫よ。要件はわかっておる故、なにも申すな』
『陛下。このようなことはせめて、烏臣閣下にお任せ下さい』
きゅうし、と呼ばれた鳩は良く通る大人の女性の声で言った。少し困った感じの言い方だった。
『ようやくけじめの第一歩を踏み出したのだ。好きにさせよ』
『へ、陛下って……翔翼さんって、皇帝だったんですか?』
『口を慎みなさい。陛下のご前ですよ。……陛下、どうして二度もまちがえられたのですか?』
翔翼が返事をする前に、倒れたままの女の子が手足を鈍く動かした。
『ああっ、もうっ。味鋤さん、あなたに責任はないけど、とりあえずこの女の子を助けて下さいな』
『は、はい。大丈夫ですか?』
『うーん……足が痛い』
少女はズボンを履いている。出血は無さそうだが、こう言う場合、救急車を呼ぶべきだろうか? 自分の精神世界の中で?
『どこかケガをしたの?』
味鋤は、彼女の足元にかがんだ。
『お前は、元々の素質と朕の力とで、傷つきそうな人間を自分の精神世界の中で先回りして見抜いたり助けたりすることができるようになった。まだ弱い力に過ぎぬがな。その娘は、放っておいたらお前の自転車とぶつかるはずだったが、なかったことになった』
『えーと……僕、交通犯罪者にならなくてすんだってことですよね? この子も無事で』
『そうだ』
『良かった。ありがとうございます。素敵な力ですね!』
『とにかくお早めにもどって下さいませね』
鳩紫はくどくどと念を押した。
『おぼえておこう』
『あのう、ちょっと横からすみません』
おずおずと味鋤は割り込んだ。翔翼と鳩紫が同時に振り向き見えない圧力を感じるが、黙っていられない。
『その、僕のプライバシーはちゃんと守られるんですよね……お手洗いとかお風呂とか』
『当たり前だ』
いかにも愚問と言いたげに翔翼は答えた。
『私もそんな趣味ありませんから』
鳩紫もあっさり答えてそのまま羽ばたいた。
そこで現実に帰ってきた。自転車のブレーキを握りしめ、女の子の目の前で止まったところだ。
「きゃあっ!」
「ご、ごめん!」
「ちょっと、気をつけてよね!」
機嫌を悪くするのは当然だろう。それは当然として、女の子の顔にはどこか見覚えがあった。……しかし、首をひねっている間に、そのまますたすたと離れてしまう。
ぼうっと彼女の後ろ姿を見送る内に、テレビや映画の一コマのような場面が頭に浮かんだ。
板敷きの大きな屋敷の中で、彼女に良く似た少女が勝手に自分の部屋に入ってままごとをしていたような……それを形だけとがめて、二人でままごとをして遊んだような……。だから、成長してからも自分の部屋はなんとなく少女趣味になってしまった。
とにかく、ケガをさせずにすんで良かった。それ以上を望むのは欲が深すぎる。
改めて自転車をこいで、スーパーに向かった。
スーパーの自転車置き場は、出入り口の脇にあった。細長い、帯のような場所に直射日光を防ぐための屋根がついている。
そのせいか少し肌寒い。駐輪場で自転車を降りて店に入り、メモにある品を買って回った。
買い物客は他にもいるが、だれもが関西弁だ。正直なところ、まだ慣れていない。
味鋤は、三年ほど前に両親が離婚して東京から兵庫に引っ越してきた。
兵庫と言っても神戸や宝塚のような都市ではなく、山間部にあるのどかな町だ。
別に不満はない。戸まどいはある。たとえば、役場前でも一時間に二本バスが来ればいい方だ。
ただ、新しい同級生達は……大学に落ちた者も行かなかった者もいるが……みんな親切にしてくれた。
野菜売り場に来て、白菜だの大根だのを選んでいるときだった。
隣でキャベツの品さだめをしていた男性と目が合った。やせて、背が高く、三十代の前半ぐらいに思える。それ以上は特にどうと言うことはない……はずだった。
『むっ……ここにおったか! 朕を不意討ちしたやつ! だが、まだ傷が癒えておらん。すまぬが早く買い物をすませてくれ』
『えっ? いや、もう会計ですけど』
そうこうする内に男は自分から視線をそらし、別な売り場へ行った。こちらも用事をすませ、家路につく。やっと帰宅したときには、正午をこしていた。
「ただいま」
「お帰り。ご苦労さん」
食材ではち切れそうになったビニール袋を台所へ持って行き、釣り銭とレシートを母に渡した。
そのあと、コップを出して、ヤカンの茶を継ぐ。ほっとして、疲れがほぐれた。翔翼も少しは回復しただろう。
「お昼はなにがいい?」
「いいよ、なんでも」
それだけ答えて二階に上がり、自分の部屋に入ってから椅子に腰を降ろした。
『さてと、もういいですよね? お話を伺いたいです』
『うむ』
翔翼は、自分の過ちからワカヒコのたどった数奇な人生、そして顛末まで隠さず説明した。
『そ、それじゃあ、記紀の説明は……』
『意図的に改ざんされた。精霊界など認めては、民衆を直に支配するのに具合が悪いとかでな。怒った朕は、高天原に力を貸すのをやめて、無視することにした。だから天皇家は次第に衰え、藤原家に牛耳られるようになった。それからは学校の歴史で習ったとおり』
にわかには信じられない。
『しかし、何者かが朕に手紙をよこした。ワカヒコが現世に復活したと書いてあった。朕は、どうしても自分でたしかめずにはいられなかった……たとえ、いたずらやでたらめだとしても。さらに、もう一つ理由がある。鏡だ。朕は、ワカヒコの体の中に魔法で鏡を埋めておいた』
『一体、何の為に……』
『ワカヒコが分別のつく大人になり、朕と会いたいと心から願えば自然に現れるようにしておいたのだ。鏡そのものが、非常に強い魔力を有しておる。しかし、ワカヒコが死んだときになくなってしまった。こう申してはなんだが、ただの人間に悪用されては災いのもとになる。朕は、公私にわたってけじめをつけねばならぬ』
『さっきの女の精霊さんじゃありませんけど、家臣に任せないんですか?』
『身内の恥をさらすようでなんだが、朕の宮廷や貴族たちは、全員が全員精霊界の秩序に忠実ではない。あえて席を外すことで、叛逆者たちをあぶり出すつもりなのだ』
「ご飯よ~」
間抜けなタイミングで母の声がした。
「今行くよ」
深遠な謎とロマンの前に、腹が減った。それも、事実だ。