人間たちの現代 ニ
あわてて翔翼を両手でつかんだ。
あちこち血まみれで、翼もぼろぼろになっているのが初めてわかった。
「大変だ! 動物病院に行かないと!」
「朕は精霊だ! そのような施設など必要ない! ……それはともかく、邪魔をしたようだな。悪かった」
鷲は空を向き、羽ばたこうとした。
「だめですよ、そんなケガじゃ」
「これ以上は世話になれぬ。とくに、味鋤には」
「どうして僕の世話になれないんですか? まぁ、その、お金はありませんけど」
我ながら情けない質問だった。
「その通りなのよね~」
と、素晴らしく聞き覚えのある声が後ろからかけられた。福々しい笑みを浮かべた母が、ホースを持って立っている。
「一人でぶつぶつ独り言を言って、ホースは水が出たままうっちゃらかしてあるし、ちょっと具合でも悪いのかしら」
「か、母さん!」
鷲がどうこうと言いかけて、ぎょっとした。影も形もなくなっている。
「ごめんね、あとでお使いにも行って欲しいの。いい?」
母は、両手を合わせて、拝むようにおどけて見せた。
「う、うん、もちろん」
「ありがとね。これ、メモとお金。はいっ」
母は、にっこり笑ってすたすたとさった。
『立派な母上ではないか。おっと、わざわざ喋らずとも、心に言葉を浮かべれば良いぞ』
『どこに消えちゃったんですか?』
『魔法で透明になっただけだ。まず水まきを終えるが良い』
『あっ、いっけない。忘れてた!』
あわてて残りの分をすませ、水を切る。
『ふむ。朕はいささか傷ついておる。もし、寛大にも朕の手あてをしてくれるつもりがあるのなら、少しの間だけお前の心を間借りしたい。お前が愉快な気持ちになったり満足したりすることで、朕は回復するようになるのだが、良いか?』
信用していいのだろうか? ほいほいうなずいて、テレビゲームや漫画にあるように、心を乗っとられたらどうしよう。
しかし、自分の名前のルーツにはひとかたならぬ関心がある。大学も、その謎に挑みたくて選んだようなものだ。
また、窮鳥が……猛禽の窮鳥と言うのも変だが……飛びこんだらかくまうのが人の道ではないか。
『わかりました。でも、覗き見はなしですよ?』
『無論だ。礼を申すぞ』
次の瞬間。目の前の風景ががらっと変わった。
裏庭はきれいさっぱり消えてしまい、どこか広々とした草原に立っている。
辺りをきょろきょろ見まわしても、なにもなかった。ひっきりなしに強い風が吹きぬけ、ごーっと音が響いている。
『改めて、礼を申すぞ』
そんな声が、風に混じって降ってきた。あわてて見あげると、真っ白な一羽の鷲が……人間よりずっと大きな鷲が……翼と足を一杯に広げている。
ケガは見あたらない。それどころか、まさに心を圧倒する威厳を感じて膝も手足もがくがくしそうになった。
『あ、いえ、どういたしまして』
『思った通り、とても居心地のいい心だ。しばらく厄介になる』
『僕、ちょっとは記紀をかじったんですけど、アメノワカヒコって、アヂスキの親友だったんですよね』
『そうだ』
なぜか、悲しげで重々しい返事だった。
『自分でも変わった名前だなって思って、それで記紀に興味を持ったんです。でも、とりたてていわくのある血筋とか系図とかはなさそうだし……。もし良かったら、回復したあとで少しは話を聞かせて下さいませんか?』
『お前は優しくていいやつだな。さよう、あの二人は親友であり、義兄弟でもあった。だが、記紀はいささか事実を歪めておる。ともかく、まず買い物に行くが良い』
草原は消え、元の裏庭にもどった。そのままガレージへ向かい、自転車を出した。スーパーまでは十五分ほどだ。
こんな不思議な経験にさらされて、わくわくするのと同時に恐ろしくなってきた。ペダルにかかる重みでどうにか現実を実感できている。それだって怪しいものだ。
自転車が十字路にさしかかった。交通事故を防ぐためにカーブミラーが置いてある。考えごとに気を取られて確かめそびれた。