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禁じられた出産 二

 オモイカネに抱かれたままの息子と、こときれ横たわったままの姫。


 翔翼は歯を食いしばって目をつぶったが、次の瞬間には鳥に変身した。一羽の鷲に。


 戸口から飛びたって、そのまま夜空に溶け込んだ。オモイカネは見送りもせず、袋から焚き木を出して火をつけていた。


 それから二十年近くたった。


 まばらな木々に囲まれた、共同井戸の脇で、ワカヒコ……アメノワカヒコだと長いので自然とワカヒコになった……はつるべを汲みあげていた。


 血にまみれた両手を洗うためだ。屋敷にも、もちろん井戸はある。できるだけ使いたくない。


 桶をなるべく血で汚したくなかったので、中の水に手を突っ込んだりせず直にかけた。かすかに赤く染まった水が地面に飛び散っては吸い込まれていく。


 服についた血も洗わねばならない。面倒だが、自分のしたことについては責任を取らねばならなかった……相手を殴ったことは気にしていないのだが。


 翔翼にそっくりな鋭く吊りあがった目と、きりっと引きしまった顎は血筋の複雑ささえなければ男も女も引きよせただろう。


 感受性と観察力があまりにも鋭すぎるためにささいな軽侮にも全力で報いねば気がすまず、血まみれになって倒れるのはいつも相手だった。


 もっとも、女には手を出さない。女の方も彼を恐れてなにも言わないから好都合ではあった。


「これっ、また喧嘩したな! 乱暴はいかぬと申したであろう!」


 背後から老父の厳しい声がして、首をすくめた。


「あいつら、俺の母上を侮辱した」


 振り返りもせずに言い返した。つかつかと歩み寄る気配にはさすがに顔を向けた。


「それをこらえるのが真の勇気、本物の忍耐じゃ。お前には罰を与えねばならぬ。服を洗ったらそのまま来るのじゃぞ!」

「わかったよ」


 本当の親父じゃないくせにという言葉を、かろうじて飲みこんだ。


 オモイカネは叱りはする。殴ったり罵倒したりはしない。そのまま家に帰った。


 けじめはつけても蒸し返しはしないのは、息子として非常に恵まれた父親だと言って良い。


 だが、それを実感すればするほど皮肉な気持ちがあふれて止まない。


 ろくでもない人間でも良いから本当の両親に会って見たい。


 口にするのは軟弱者の証拠だと思っている。それで、わざと反対の行動を取る。それがまた年の近い若殿達にからかわれる原因にもなっていた。


 拳はもう洗いつくした。次に服を脱いだ。桶に入れた水に浸し、じゃぶじゃぶやる内に汚れは取れた。


 と、そこで一羽の鳩が井戸端に舞い降りた。湿ったままの地面の上をちょんちょんと歩き、時おりくちばしで土をほじくっている。


 無邪気そうな鳩の姿を見て多少は心が和んだ。洗ったばかりの服をぱんぱんとはたいて肩に担ぎ、上半身が裸のまま歩き出す。


「きゃあっ!」


 いきなり言われてさすがにびくっとした。


 自分と同い年ほどの女の子が、顔を赤くして固まっている。彼女の足元には手桶が落ちていた。


 ばさばさばさ、と鳩が飛びたった。


「ちょっ、ちょっと、服ぐらい着なさいよ!」


 女の子が叫んだ。ワカヒコはとっくににすたすた歩いていた。


 どちらかといえば罰の方が気がかりだ。もっとも、倉に閉じこめられたり木に縛りつけられたりするのが怖いのではない。そんな年頃はとっくに過ぎた。高慢ちきな同輩どもを殴り倒したのも後悔していない。


 自分のせいで老父が方々に頭を下げて回るのが気に入らない。


 頭を下げねばならないとしたらそれは自分だ。老父はいくら断ろうと嫌がろうと、必ず一緒に謝りに行くのだ。


 自分の不始末を解決するのに……実は不始末などとは思っていないが……親が出張るとはいかにも情けない。


 屋敷の門をくぐり、中庭を横切ってから母屋に入る。


 老父の部屋に顔を出すと、不機嫌そのものといった顔が待ち受けていた。


「座るが良い」


 軽くうなずき、向かい合うように腰を下ろした。


「先ほど、タカミ様のお使いがおいでになった」


 タカミとはタカミムスヒ、即ち高天原の実質的な統治者である。いきなり思ってもいない話になった。


「お前に、中つ国へ行けとの仰せじゃ」


 中つ国とは高天原から陽の沈む方角へ何週間もあるいてやっとたどり着ける場所で、内情をはっきり知っている者は高天原にはほとんどいない。

 

「ちょっ、ちょっと待ってくれよ! それが罰かよ!」

「最後まで聞くのじゃ。大事な話であるし、お前もそろそろ知っておかねばならん」


 その時初めて気づいた。老父からにじみ出ている哀しみに。悲しい、とは違った。なにか、大事なものが失われていくのを知っているのに止められないような表情だった。自然にそう感じとった。


「中つ国を治めるオオクニヌシは、長らくわしらに逆らって来た。何年か前、彼を服属させるために一人遣わせたが、ついに音沙汰なしじゃ」

「それで、喧嘩ばっかりしてる俺が? 俺一人でオオクニヌシを暗殺して来いってのか?」

「最後まで聞けと申したはずじゃ」


 オモイカネの厳しい表情にたちまち頭が冷えた。文字通り、水をぶっかけられた気持ちになった。


「お前はオオクニヌシの息子、アヂスキタカヒコネになりすますのじゃ。まず、クニタマと言う男からオオクニヌシについての一通りの知識を学べ。それから中つ国へ行け」

「どうやってなりすますんだよ」

「会えば分かるがお前に生き写しじゃ」


 無論、それだけでは終わらない。次にオモイカネが告げた命令こそが本番だった。

 

「会ってすぐに殺すも良し、しばらくは情報を送るも良し、お前の才覚を信じておる。どちらにせよ、週ごとにこちらへ連絡を送らねばならぬ。連絡の段取りそのものは、もう整えてある」

「お、おい、ふざけんなよ。俺のこと知ってて言ってんのかよ」

「申すまでもない。お前の日頃の行いからして、このぐらいの仕事にびくびくしたりせぬだろうとわしが請け負った。罰ではない。名誉なことじゃ」

「名誉? 自分の息子にこんな薄汚い仕事をさせるのが名誉だってのか?」

「お前の今までからすれば、名誉じゃとも。二度は言わぬ。すぐに行け。クニタマの屋敷は、ここをでて西へまっすぐじゃ。さほど時間はかからぬ」


 信じられなかった。要するに使い捨ての間諜だ。

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