禁じられた出産 一
小屋を包んでいる霧が、産声にゆれた。月光は夜空に満ちて明るい。なのに、その辺りだけが濃く暗く閉ざされている。
母子がいるのは、いつできたのかもわからぬ廃屋だった。産屋と呼ぶにはあまりにもむさ苦しい。
母親は力を出し尽くしていた。産婆はおろか掴まるための柱さえなく、むき出しの床をひっかき続けた指には泥がびっしりとこびりついている。
今、遠くなりかけた気持ちを必死にたぐり寄せて産んだばかりの我が子を見たところだ。そうしてやっと、泣き続ける口だけがぼんやりと見えた。
早く、へその緒を切り産湯につけて乳を飲ませたい。だが、小指一本動かない。
そんなときに、楽しかった日々が頭をよぎった。野原で花を摘んだり、宴で歌ったり。馬に乗せてもらって、鷹狩りに連れて行ってもらったこともあった。
そうだ……。あのあと自分の天幕にだれかきて、一夜を契ったのだ。夜這いは拒む権利もあった。羽毛の心地よさに生娘の印はあっさりととろけた。
悪阻がきたのは意外に早く、腹が大きくなるのも隠せない。
だれの種やらわからぬ子を。高天原の姫たる者が。
堕ろすか、産んだら殺すと言われて彼女は逃げた。
宮からろくに出た試しがなく、刀も弓矢も使えないのにすらすらと逃げられた。
気持ちの向くままに歩く内に、喉が渇けば川に出くわし腹が減れば木の実が落ちていた。追っ手は一人もこなかった。
寂しさは時おり腹を蹴る子供が紛らわせてくれた。そんな生活も終わりつつある。
最後にもう一度、あの男に会いたい。名前もなにもわからないままだった。そういえば、子供の名前も決めていない。どんな名前に……。
母親の心は、とぎれた。気づいているのかどうか、赤子は相かわらず泣いている。
と、廃屋の外から鳥が羽ばたく音がかすかに聞こえた。それが止んだかと思うと、出入り口をくぐり一人の男が現れる。
まだ若者と言って良い年格好で、引きしまった立派な体格をしている。なによりも鷲のように鋭い目をしていた。
男は、こときれて間もない女の傍らに膝をついた。無言のまま頭を下げ瞑想する。
責任を取るつもりではるばるやって来たのに手遅れだった。出産まで彼女を守るのが精一杯で、それも……実に歯がゆいことに……ごく遠まわしなやり方に過ぎなかった。
少しして目を開け、すっくと立ち上がって廃屋からでた。いつ果てるともなくたゆたう乳白色の霧が、馬蹄の響きにかき乱され始める。
若者は、耳だけでなく目も超人的だ。馬がこちらに近づいているのはもちろん、乗り手もだれなのか見分けられた。
手綱を握るのは頭がきれいにはげ上がり、腰がエビのように曲がった男だ。名前も知っている。オモイカネという。
腹を立てれば良いのか礼を言えば良いのか、若者は自分の気持ちを持て余した。
「どうどうっ!」
オモイカネは、廃屋から離れた場所で手綱を引いた。姿と同じように、声もひどくしわがれている。
「オモイカネか。今頃」
馬から降りたばかりの老人に、若者は冷たく言った。
「おおっ、その声は翔翼か。こう霧が濃くては半ば馬任せじゃがの、どうにか着いたわい」
「わざと遅れたのではあるまいな」
「まずは小屋に入れてくれ」
「そのまままっすぐ進め。戸口がある」
「うむ。彼女は気の毒じゃったな……おうおう、元気の良い子供じゃ。どれ」
翔翼は、オモイカネが小屋に入るなり目を細めるのを腕組みしなが眺めた。
オモイカネはいまだに泣き止まない赤子の前にかがみ、腰にぶら下げていた袋からハサミと竹筒を出した。まずへその緒を切り、それから竹筒の水で赤子を洗った。
「ふむ。男の子じゃな。翔翼よ、突っ立ってないで名前をつけてやれ」
それが父親としての最初の義務だと、世話を続けるオモイカネの背が語っている。
「俺たちの世界では、子供に名はつけない」
翔翼が答えると、オモイカネの手がぴたっと止まった。
「では、お主は引きとらぬのか」
「そうしたい。だが、無理だ。正式に結婚する前に彼女は死に、子は生まれた。俺が許しても家臣が許さん」
「お主は皇帝じゃろう。子の一人や二人、ましてや自分の子というのに……」
「言うな!」
翔翼の顔は苦痛に歪んでいた。
「いいや、申すぞ。わしにとっても、彼女は大切な姫君じゃった。いや、お主が一時の気まぐれで契ったわけではないとは知っておる。できるだけ手をつくしたのも良い。じゃが、それで終わりか」
「ごく最近になって、急に結婚が決まった。この子がいると、帝国が分裂する元になる。俺は、嫁ならば姫を迎えたいと議会を説得し続けた。地方で叛乱が起きかけたとあってはごり押しできなかった」
そう説明する翔翼は、オモイカネや我が子から視線をそらそうとして、できなかった。
「わしとてそうした苦悩はわかる。お主だけを非難するつもりもない。じゃがな、わしにはわかる。この子を引きとらなかったら、もっと大きな苦痛がお主を襲うぞ」
オモイカネは背を向けたまま言った。
「もしそうなるなら、俺が全てをかぶる」
「ふむ。わかった。では、この子はわしが育てよう。名前はここでつけるゆえ、お主は立ち会ってもらうぞ」
「いいだろう」
翔翼の返事を聞いて、オモイカネは赤子を布でくるみ、座ったまましばらくあやした。赤子はすやすやと寝息を立て始めた。
「おおっ、浮かんだぞ。アメノワカヒコじゃ」
「ああ。いい名前だな。ところで、俺も考えが浮かんだ」
「ほう?」
アメノワカヒコを抱いて、オモイカネは立ち上がり、翔翼に面と向き合った。
「彼女の魂を俺の世界へ連れて行く。結婚は無理だが、いずれきちんとした形で母子を対面させる」
「では、生き返らせるのか?」
「ああ。アメノワカヒコが大人になったら、姫をここにもどそう。母子でむつまじく暮らすといい。どうせ俺たちの世界より、こちらの方がずっと早く時間が流れる。だから、たいして待たなくていいはずだ」
「それがぎりぎり、か……。このまま姫を黄泉へ行かせるよりは、まぁ、ましじゃな」
「すまん」
父親としても男としても、翔翼は己の無力さを噛みしめた。
「是非もない。……じゃがな、翔翼。くどく申しておくぞ。お主が引きとらなかった以上、もっと大きな災いがお主に降りかかると」
「心得た。……それと、もう一つ」
翔翼は、どこからともなく小さな鏡を出した。青緑色の鈍い光が彼の節くれだった手を薄く照らした。
「その鏡があれば、いつでも俺と話ができる。いざとなったら俺はその鏡を通じてこの世界にやって来られる。せめてもの餞別だ」
翔翼はこの鏡を姫にこそ渡したかった。入手が遅れて致命的な結果になったのだ。二つの異世界を自由に往来できる代物など、皇帝といえどもそうおいそれとは求められなかった。
「ありがたく、頂こう」
オモイカネは翔翼から鏡を受けとり、アメノワカヒコの胸元に添えた。
とたんに赤子は目を覚まし、火がついたように泣き出した。
オモイカネが小指を赤子の口に近づけると、迷うことなく吸い始める。
「おうおう、腹が減ったか。重湯を作ってやるぞ」
「オモイカネ、俺はそろそろ行かねばならん。……アメノワカヒコを頼む」
「うむ。霧は消しておいてくれよ。帰り道が危なっかしくて叶わぬ」
翔翼はうなずき、軽く左手を振った。あっと言う間に霧が晴れ、青白い月明かりが廃屋のあちこちに降り注いだ。