7. 世界の可能性
「そして多くの場合、我々は選択に失敗する。選択の価値に気づくことが出来ず、無用な分岐に足を踏み入れ、時間を浪費し続ける。時間とは即ち選択の蓄積のことだ。また天才というのは要するに、選択に成功し続ける人間のことなのだ。分かるか?」
ぼくは苦笑をこらえきれなかった。
だとすればぼくは、天才でも何でもない。可能な限り全ての選択にしくじり続けて、いつの間にやら泥沼に胸まで浸かっているのだから。
当たり前だ。ぼくが評価されているのは今現在の時代のアメリカ社会において要求される類のスキルを、たまさか子どものくせに他人よりも過度に持ちすぎているために他ならない。
そんなものが天才のわけがない。結果と原因の取り違え。
単にちょっとばかり見た目のよいベアリングを拾って、彼らは喜んでいるだけのことだ。
そうしてそこまで考えたとき、ぼくはハッとした。
もしかすると彼はまさしく、世界の可能性のことを話しているのではないか?
選択とは、存在している可能性を一つに決定していくことだ。それならば、ぼくがずっと考えていた問題と、彼の語りは直結している。
無数に有り得た可能性を愚かしい選択によって台無しにし、世界を終焉へと追い込む人間たち。
彼はぼくを、その底知れない瞳でじっと見ていた。自分の頭が高速で回転し始めるのをぼくは感じる。
どうやら、彼は適当にあしらってよい種類の人間ではない。ぼくは慎重に、こう問うた。
「……この世界に有り得たはずの可能性についても、同じことが言えるということ?」
「その通り。正確に言えば個々の人間に与えられた選択可能性とは、世界総体の選択可能性の一部ということになる。世界と個人を分断することが既に誤謬なのだ。我々の選択が世界を決定していく。一つの例外もない。無限人による無限回の決定によって時間、即ち歴史は構築されている。この場合、サモアの一人の少女とナポレオンの間に優劣の差はない」
彼は淡々と述べた。不思議なくらい無表情だった。
アジア人だから表情が掴めないのだろうか? 違うだろう。
ぼくはもうすっかり真剣になっていた。
「でも、可能性というのは次第に減少していくものではないの? これは情報量のエントロピーの問題だよ」
「まあ、そうだ。共産主義の例を出すまでもなく、大半の選択は不可逆的だ。やり直しは効かない。だからこそ選択なのだ。どんなに素晴らしいスウィッチが目の前に用意されても、与えられた人間がそれを破壊すれば元も子もない」
ぼくは背中のポスターが気になって、『資本論』をバッグの中に戻した。彼は続けた。
「大切なのは結局、選択するのは誰か、という問題なのだ。確かに、残されている大きな可能性は少ないかも知れない。大半の分岐点は破壊し尽くされて、今この時代に生まれこれからを生きる君たちには残り滓のような世界しか存在しないのかも知れない。だとしてもこの世界が厳然と存在し、君たちが生きている限り、人生には無数の分岐点が用意されている。ならば同時に、この世界にも選択肢が存在し、可能性が残されているということなのだ」