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世界の終わりのための序奏  作者: 彩宮菜夏
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6. ホームレス

 約束の待ち合わせの柱の前まで、騒音の中を押し合いへし合いしながらなんとかぼくは到着した。

 筋力でも付けるかな、と自分の細い腕を撫でながら、ちょっとだけ思った。

 それから、肩掛けバッグの中から『資本論』第一巻の恐ろしく分厚いペイパーバックを取りだした。千ページを超える本を読むという至福を味わうためだけに買ってきた本だ。


 表紙を開く前にふと、背後の柱に掲げられた化粧品の広告を見た。

 フルカラーで高級紙に印刷された半裸のモデルが、セクシーなシャドウを塗った眼差しで駅を行き交う無関心な人々を見つめ、何かを言いかけたようにぽってりとした唇を半開きにしていた。

 ぼくは嘆息して、前に向き直った。

 すると、目の前に髭を生やしたおじさんが立っていた。


 ぼくは訝かしんだ。髭とはいってもあの教授とはまるで違う。長い髪も髭も真っ黒だった。

 肌も浅黒く(ぼくもだけど)、黒縁眼鏡の奥の小さな眼も黒い。

 アジア人のようだ。服装はといえば垢染みたジャンパーにすり切れた穴だらけのジーパン。

 多分違うだろうと思ったけれど、念のためぼくは尋ねた。


「……MITの人ですか?」

 するとおじさんは、意外なほど深く落着いた声に流暢な発音でこう応えた。

「同じようなものだ」

「本当は?」

「ホームレス」


 面白くもなさそうにおじさんは言った。

 いや、おじさんだと思ったけれど、もしかすると若いのかも知れない。アジア系の年齢はよく分からない。

 何となくぼくは訊いた。

「ひょっとして、日本人?」

「ご明察」

 簡単に彼は応える。眼をほんの少し見開いて、多少は驚いたようだった。

 中国人と日本人と韓国人の区別は普通付かない。ぼくだって勘で言っただけだ。

 ぼくは続けた。


「お金なら、ありませんけど」

「マルクスを抱えている少年に金をせびるほど、私は無粋ではないさ」

 彼は即座にそう返した。かなり頭は切れるようだった。

 彼はその小さな目をわずかに細めた。ぼくはじっと彼を見上げる。

 けれど、会話はそこできれいに途絶えてしまった。

 彼は何も言わない。ぼくも言うべき事は何もない。

 無数に折り重なる雑踏の機械的な靴音に取り囲まれて、ぼくらは永遠にここへ見捨てられたかのように思えた。


「……君は、分かっているのか? 自分が重大な岐路に立っているということに」

 ホームレスのおじさんは、ゆっくりと口を開いた。ぼくは首を傾げた。

「岐路?」

「そうだ。人生には常に無限に分岐点が存在する。人は無意識のうちにそれを選択し続ける。当然ながら分岐には大きなものも小さなものも存在する。一杯のコーヒーを逃すような選択もあれば、世界を破滅へ追い込む選択も、一個人の人生の中に存在し得る」


「今ぼくは、人を待ってるだけですけど」

「それは社会的に定義されただけの局所的意義だ。選択そのものの総体的性質には関係ない」


 彼は両の手をポケットに突っ込んだままそう切り返した。それは確かにその通り。

 しかしぼくたちは、バタフライ・エフェクトの話をしているのか? そもそも彼は何者だ?

 NYのホームレスくらいになるとみんなディオゲネスになれるのだろうか。彼は話を続ける。

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