4. 巨大な質量によって曲げられる時空間のように
最高だった!
映画なんか観るとどうでもいいことばっかり考えて頭がいっぱいになるぼくが、頭の中空っぽで身じろぎもせずにずっと観ていた。ポップコーンを一口も食べなかった。
パズーとシータは、自分の手で道を造り出し、自分の脚で世界を歩んでいた。
他のアメリカ製のアニメ映画は結論がオトナとコドモのココロのフレアイ、みたいのにたどり着くのがほとんどで反吐が出る感じだったけど(あの押しつけがましい政治臭さ!)、あの映画は違ったのだ。
大人たちは救いがたい愚か者で、子どもは何でもすることが出来た。
最後のシーン、フラップターに乗った二人が行く先も分からないまま空の向こうに消えていく姿を見たとき、ぼくはこの上なく幸せになった。
そうでなくちゃいけないんだ。最後に親方や家族の元に帰るんじゃない。物語はそこから、これから始まるのだ。
ぼくは両手を上げて叫んだ。周りの他の子たちが妙に冷めているのも気にならないくらいだった(彼らはカッコイイモンスターもスーパーヒーローも出て来なかったから気に入らなかったらしい)。
その年の誕生日に、ぼくはママにねだってヴィデオを買ってもらった。飽きることなく何度も観た。
普段哲学書や長大な古典文学(ディケンズなんかはいいと思った)しか読まないぼくが珍しく子どもらしい素振りをみせたので、ママはたいそうご機嫌だった。
しかし、そんなことも気にならないほどぼくは物語に熱中した。世界は七色に輝いていた。
そして物語が終わった瞬間、ぼくは現実という落とし穴に突き落とされた。
この穴は深かった。穴の向こうには無限に広がる世界が見えているというのに、抜け出す手段はどこにも見当たらなかった。
フラップターを作って穴から飛び立てないものかと綿密に図面まで引いて当時のぼくは検討したけれど、現在の技術力ではあのサイズの物体を羽ばたきで飛ばすのはどう考えても不可能だった(たぶんあの世界では空気の粘性が異なるのだと思う)。
とにかくあの映画でぼくは穴の向こうへの夢と、若干の航空・流体力学の知識を得た。この現実が穴だ、ということが分かっただけでも大した収穫だった。
きっと、この世界は途方もなく大きな穴に囚われているのだ。丸ごと、全部。
ちょうどアインシュタインが思い描いた巨大な質量によって曲げられる時空間の図のように。
そしてその穴から抜け出したとき、初めて世界は始まるのだ。
今までの世界の全ては、ほんの序奏に過ぎない。ビギニング・オブ・ザ・ワールド。
バスが爆発するような音を立てて停車した。舌を噛みそうになる。
あの映画以来ニホンに興味を持って、でも何の本を読んだらいいか分からなかったからダイセツ・スズキのゼンの本を何冊か読んだ。
そのせいでニーチェが浅薄に感じられたのかも知れない。確か彼も東洋思想に影響を受けていたはずだ……と考えながら席を立った瞬間、後ろから駆けてきたステファンにノートで後頭部をはたかれた。
ぼくは前につんのめる。
「バカになっちまえ!」
ステフは叫んで、他の男の子たちと肩を組みながらゲラゲラ笑ってバスから飛び出していった。
おかげでありがとうを言いそびれた。バカになる? 望むところだ。
ナップザックを背負い、口をひん曲げてぼくはバスの昇降口に立つ。
すると背後から声を掛けられた。
「頑張れよ」
振り返るといつもの運転手のおじさんだった。三十代、おっとりした目付き。
「楽しもうと思や、何だって楽しめるさ」
ハンドルにもたれたおじさんは、いかにも人のよさそうな笑みを浮かべて言った。
ぼくは頷いた。忠告の内容よりも、おじさんの声を聴けたことの方が嬉しかった。
忠告ってそういうものだと思う。内容よりも、誰が言うかの方が肝心だ。
おじさんは手を振った。ぼくは笑顔で手を振り返し、そして後ろから来たリカルドに突き飛ばされてバスの外に出た。
そのままけつまずいて、ドサリと地面に倒れ込む。
外の空気は今日も窒素化合物や硫黄化合物やケチャップや化学調味料が入り混じった奇怪な臭いを漂わせていた。
レイチェル・カーソンの忠告は結局誰も聞きやしなかった。つまり、誰が言うかよりもさらに肝心なのは、誰に言うか、ということなのだろう。




