14. 長い夢の話
ぼくは教授の手を払うと、背を向けてホームレスの方へと駆け出した。
「お、おいジャスティ……」
慌てふためく彼の声は、ぼくの背後で人混みの中についえていった。
ぼくは、階段を下って今にも去ろうとする男に必死で追いつこうと、全力で走った。
人と人の間をかき分け、ぶつかりながら、男の小さな背を追った。そうして、なんとか、ぼくは彼に追いついた。
ぼくがすぐそばで息を切らしてあえいでいると、男はふと振り返り、ぼくの姿を見た。
彼とまっすぐに眼が合った。男には、今日も表情がなかった。ぼくは、何も言えなかった。
もうどこへ連れて行かれようと、かまわなかった。
その真っ黒な瞳でぼくを捉えると、彼は前置きもなくいきなり、こう言った。
「こっちだ」
彼は迷わずぼくの手を取って、階段へ向けて強く引いた。
ぼくは、彼に続いた。
*
彼はそのまま、早足で階段を降り続けた。ぼくも、ためらうことなくついていった。
どこのホームへ向かう階段かは、よく分からなかった。
向こうから上がってくる人は何人もいたけれど、薄暗いのと急いでいるのもあって、顔はあまり見えなかった。
ぼくはひたすら、男の顔だけを見て、階段を降りていった。
蛍光灯の光が、流れるように後ろへと消えていった。階段は奇妙に静かだった。
「長い夢の話を知っているか?」
男は言った。ぼくは聞き返した。
「え?」
「あるところに男がいた。男は名家に生まれ、優しい両親の元ですくすくと育ち、素晴らしい教育を受け、名門校に入学し、父の家の跡を継ぎ、美しい妻をめとり、事業を成功させ、三人の子供を産み育て上げ、国中の人々から感謝され、尊敬され、愛され、やがて成功のうちに歳を取り、大勢の孫に囲まれて静かに幸せに息を引き取った、というところで目を覚ました。男は全てが夢であったことに気づき、不満のあまり大声で泣き出した」
「ハッピー・バースディ」
「そう。人生が始まるとき、人はすべからく泣いている。泣きたくなければ生まれなければよいということだ。だから人々は、この世界の可能性から眼を逸らしてきた」
男はほとんど走るような早足で先へと進んだ。手を離されないようにするので、ぼくは精一杯だった。
いつの間にか、人とすれ違わなくなっていた。
「世界はまだ始まってすらいない。これまでの長く偉大にすら見えた歴史の全ては、優しく暖かな母の子宮の中でゆっくりと育まれていた心地よい胎動の時に過ぎないのだ。幸福と静寂の日々は終わりを告げる。悲しみに暮れる人々の涙と共に、全ては、これから、始まる」
ふと気づくと、ぼくらは階段でなく、平坦な道を進んでいた。
「君は、泣くのか?」
男は訊いた。ぼくは正直に、分からないと言った。
周囲は暗闇に包まれていた。光は何一つなく、けれど不思議なことに、ぼくは自分の姿も、男の姿も、はっきりと眼にすることが出来た。
ぼくは続けて言った。
「泣くべきだと思えば、ぼくは泣く」
「それが選択するということだ。望むものがあるのなら、君は可能性に手を伸ばすことが出来る。常に、必ず。しかし当然だが、可能性とは心地好いものではない。そこは不安と危険に満ちあふれている、いや、だからこそそれを可能性と呼ぶ。幼子が眼に映るものへ手を伸ばすのは何故だ? 這い回るのを止めて自分の足で歩くようになるのは何故だ? その方が危険だと分かっているのに? 全ては前提から間違っている。危険だから手を伸ばすのだ。不安に向けて歩み出すのだ。君はただ、それを思い出せばいい」